1992年第74回夏の選手権の沖縄県代表となったのは沖縄尚学だった。前身の沖縄高校がエース・安仁屋宗八(元・広島東洋など)を擁して出場して以来、30年ぶりの出場。沖縄尚学に校名が変わってからは春夏通じて初めての甲子園だった。

 注目の初戦は開会式直後の開幕試合と決まった。前回出場した時には4‐6の接戦で初戦敗退しているだけに、実に30年越しの甲子園初勝利がかかる試合でもある。だが、その大事な一戦の相手があまりにも悪すぎた。優勝候補の桐蔭学園神奈川)だったのだ。神奈川県大会7試合中6試合で二ケタ得点をマークし、チーム打率3割9分4厘は大会随一。その強力打線を引っ張るのが3年生で5番の副島孔太(元・ヤクルトなど)、そして2年生4番の高橋由伸(元・読売)であった。県予選で記録したチーム合計本塁打7本中、5本をこの2人がマークしていたほどだ。

 桐蔭学園は評判通りの打撃で、初回、1死一塁から3番・広川聡が目の覚めるような中前打、さらに4番・高橋がライトオーバーの適時二塁打を放ってあっさりと先制。しかし、沖縄尚学もその裏すかさず反撃に転じた。先頭の新垣隆が中前打で出塁すると犠打と四球で2死ながら一、三塁とすると5番・平良勝也が中前へ適時打を放ち、同点に。そしてここから戦前の予想を大きく裏切る両者互角の好ゲームが展開されていく。

 同点に追いついた沖縄尚学は3回裏、3番・後藤幸一の二塁打と4番・大城勝好の右前適時打で1点を勝ち越し。だが、直後の4回表に桐蔭学園も1死一、二塁とすると、7番・関大輔が左前安打。二走だった高橋は相手捕手・上原秀人と交錯しながらも執念の同点ホームインを果たす。そして7回表には先頭の2番・横川義生が三塁打。続く3番・広川の右前適時打でついに1点をリード。桐蔭学園はエース・木下健之が7回を投げて被安打9と不安定な投球内容だっただけに、8回から県大会からの勝ちパターンであったリリーフエースの投入に踏み切ったのだった。高橋由伸の登板である。

 だが、そのリリーフエースに沖縄尚学打線が襲いかかった。8回裏に3安打を集めて同点としたのだ。直後の9回表に一度は1点勝ち越されたが、迎えた9回裏。この回先頭の1番・新垣が一、二塁間を抜ける右前打で出塁すると送りバント犠牲フライで2死ながら三塁と、一打同点の場面を作ったのだ。打席には3回裏に適時打を放っている4番・大城。この大城に右中間を割る適時二塁打が飛び出し、しぶとく追いついたのである。まさに土壇場で見せた、甲子園初勝利への執念であった。

 かたやあと1死というところで、痛恨の同点打を浴びた高橋。実は4回表の同点ホームインの際のクロスプレーで太ももと腰を痛めていたのである。延長戦、その手負いの投手・由伸を沖縄尚学打線が徐々に追いつめていく。

 延長10回裏の2死満塁は逃したものの、12回裏に2死二塁と再び一打サヨナラのチャンスを迎える。ここで桐蔭学園はこの試合3安打と当たっている1番・新垣を敬遠し、この試合ここまでノーヒットの2番・宜保公夫との勝負を選択する。実は先の延長10回裏にも同じシーンがあり、新垣敬遠で宜保と勝負。この時宜保は四球を選んでいるが、またしても新垣との勝負を避け、宜保との勝負に出たのである。3ボール2ストライクからの7球目、宜保が打ち返した打球は一、二塁間を抜け、ライト前へ。前進守備を敷いていたライト・萩島賢からのバックホームで二塁走者は三塁を回りかけストップしかかる。ふたたび満塁かと思われたその時だった。返球がワンバウンドし、これを捕手・深田啓之が後逸。その間にサヨナラの走者がホームを駆け抜けたのだった。

 呆然とサヨナラの瞬間を見送るしかなかった高橋は試合後に「沖縄尚学の打線はいやらしかった。簡単にアウトになってくれなかった」と脱帽した形。一方、サヨナラにつながる右前打を放った宜保は「あとから聞いたら自分だけヒットがなかったようで、ぼくが打って全員安打達成」。そう、沖縄尚学はエース・東山晋が桐蔭学園打線に13安打を浴びたものの、桐蔭学園の投手2人から16本ものヒットを放ち、打ち勝ったのである。延長12回、試合時間3時間50分にも及んだこの激闘は、甲子園歴代開幕戦最長試合でもあった。

(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=

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