前編からの続きです
あらすじ:40歳のときに糖尿病の合併症が原因で視力を失った独身の佐々木澄夫さん。ほんの1年ほど前までは標準的な視力を持って、会社勤めをしていた。入院中、まだ目が回復するかもしれないと思っていた彼に、午前2時になると子どもの幽霊が幽霊が現れるという不思議な現象が…。それだけではない、深夜の病院に多くの「気配」を感じていたのだ――

*   *   *

その後、澄夫さんは視覚障碍者として退院した。もう二度と視力が戻ることはないとわかっていた。彼は生きる気力を失い、自暴自棄になった。手術前、目の状態が悪化してから両親と同居していたが、一生このまま世話になるしかないのだと考えると、親のためにも、いっそ今すぐ死んだほうがいいと思った。しかし自殺する勇気は湧かず、そのことでいっそう絶望を深めた。

引き籠もっているうちに3年経ち、お盆の時季になった。目が見えていた頃は、毎年この時季には、両親を連れて静岡県浜松市にある先祖代々の墓を訪ねていた。車の運転が好きだったから、澄夫さんがハンドルを握って、大阪から浜松まで約265キロ、およそ3時間半の道のりをドライブするのが毎年恒例の家族行事になっていたのである。

墓参りだけが目的の旅ではなかった。行き帰り、途中に何ヶ所かある観光名所に立ち寄っては、美味しいものを食べながら移動するのだ。また、浜松には知り合いが大勢いた。澄夫さんたち家族は、彼が中学を卒業すると同時に静岡県から大阪府に引っ越してきた。だから古い友だちや幼馴染はみんな浜松に住んでいる。

特に、家の墓がある寺院の住職とその妻は、両親の親友でもあり、澄夫さんは子どもの頃、彼らにずいぶん可愛がってもらった。だから、浜松で住職夫妻をはじめとした知り合いに会うことも、いつも楽しみにしていた。

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一昨年と去年は、両親だけで浜松に行き、墓参りをして、以前は2、3日滞在していたのに、その日のうちに帰ってきた。自分に遠慮したのだろうと思うと、澄夫さんはやり切れなかった。……自殺して、死ねば浜松に帰れるだろう。暗い考えに取り憑かれながら、いつしか眠りに落ちた。

すると、夢に父方の祖父が出てきた。

物心つく前に祖父は亡くなっているので、実際に会った記憶はない。けれども遺影はずっと家の仏間に飾ってあったから、顔は知っていた。その祖父が、浜松の先祖代々の墓所で墓石の端に腰かけて、長いキセルで煙草をふかしていた――失明しても夢の中には光と色彩が溢れていて、眩しい盛夏の景色であった。そこここに植えられた樹々の緑が鮮やかな美しい霊園だ。祖父は優雅な手つきでキセルを持ち、墓地の通路を歩む澄夫さんの姿を認めるや顔をほころばせて、空いている方の手を挙げた。

「おう、澄夫!」

嬉しそうな声と表情で、名前を呼ばれたところで、目が覚めた。体を起こすと、何か不思議と力が身の内に漲ってくる感じがした。どうしても今すぐ浜松を訪ねて、墓参りをしなければいけない。祖父の墓前で手を合わせるまでは死ねない。浜松の土を再び踏みたい。そのためには行動あるのみ!

飛び起きて、ただちに両親に、浜松へ連れていってくれと頼んだ。その際に、出来れば以前と同じように車でドライブしながら行けないだろうかと相談したところ、父が快諾してくれた。

浜松に到着すると、真っ先に墓のある寺院を訪ねた。事前に父が住職に知らせていたので、墓参の後、本堂で読経してもらい、さらにそのままそこで歓談することになった。

本堂は畳を敷き詰めた大広間である。そこに座布団を置いて、みんなで車座に座っている。澄夫さんも、線香が染みついた畳の懐かしい匂いを嗅ぎながら、輪に加わっていた。

失明してから、声や気配で、人々の位置関係を把握するのが得意になった。どこに誰が座っているか、すべて理解していた。

……わからないのは、さっきから部屋の中を歩きまわっている人物の正体だけである。

読経が終わる頃から、誰かが立ちあがって畳の上を行ったり来たり、うろうろしはじめたのである。親戚も来ていたから、いとこか誰かの子どもかもしれないと思い、澄夫さんは最初、住職か、その奥さんが、声をかけるだろうと予想した。住職夫妻は世話好きで子ども好きな性質だ。「退屈しちゃった?」とか「トイレに行きたいの?」とか、こういうときには真っ先に声を発しそうだった。

ところが、いつまで経っても、歩きまわる者を無視している。住職たちだけでなく、誰ひとり、そのことを指摘すらしない。なぜだ……と、心の中で首を傾げていると、足音が澄夫さんの背後に迫り、やがて真後ろでピタリと止まった。

畳を踏む微かな足音や、畳が後ろでわずかに沈み込む感覚。いつの間にか、そうしたものを敏感に察知できるようになっていた。だから背中の後ろに誰かがいることは疑いようがなかった。

……子どもではない。畳の沈み具合から推して、大人だ。

もしかして……と、夢で見た色鮮やかな光景を思い出しながら、声に出さずに問いかけた。

おじいちゃんなの?」

そうしたところ、スーッと背後の気配が薄れて消えた。やはり、祖父だったのだと確信した。夢に現れた祖父の霊に招かれてここを訪ねた。「おじいちゃん、会いにきてくれたんやね」と、また胸の中で祖父に話しかけながら、澄夫さんは不思議な感動を覚えていた。

浜松では懐かしい人々に会って語らったり、ご馳走を食べたりと、思いがけないほど楽しい時間を過ごした。景色も堪能した。今は見えなくなっていても、そこに行けば、かつて眺めた景色が記憶の奥から立ちあがり、脳の中でフルカラーで再生されるのだった。

浜松に帰ったときには必ず食べていた鰻は、見るからに香ばしく焼けて艶やかにタレがかかっているのが、盲人になってもわかることを知った。ドライブ中に窓を開けたときに流れ込んでくる、夏の、湖畔の、海の、山の匂いも、彼に鮮やかな景色を運んできた。脳で再現される色彩と郷愁に充ちた光景は、彼に希望をもたらした。

まだ、やれる。そう思えたのだ。

つまり、これが生きる喜びと再会する旅になった。

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神秘的な現象は、まだ続いた。

帰り道、途中で4回、線香の匂いが漂ってきたのだ。両親に、線香の匂いがしないかと訊くと、4回ともしないと答えた。澄夫さんにははっきりと匂うのに……。毎度、線香の香りは、車の走行中や停車中に、後部座席にいる澄夫さんの鼻先で突如濃く匂いだし、フーッと薄れていくのだった。

父は、澄夫さんが線香の匂いを感じた場所はどこも死亡事故多発地帯だと教えてくれた。道路の脇にドライバーに注意を喚起する看板が立てられていたというのだ。最近、澄夫さんは、守護霊など、良い霊が顕現するときは菊の花や線香の香りをさせるのだという話を耳にした。それを聞いてから、あのときは恨みを残して死んだ人の地縛霊が路傍にいて、守護霊となった祖父の霊が、それらから自分を守ってくれたのではないか、と、そう思うようになったそうだ。

現在、澄夫さんは、視覚障碍者のデジタルサポートビジネスを起ち上げ、視覚障碍者向けにパソコンとスマホの使い方を教えている。個人レッスンやグループレッスンの講師、講義に精力的に取り組み、忙しい日々を過ごしている。

失明するまで、彼は20年余りもIT機器を扱う仕事に従事していた。そのためパソコンやスマートフォンのOSにスクリーンに表示されたテキストの読み上げ機能など、視覚障碍者をも想定したアクセシビリティ機能が備わっていることを知っていた。

祖父の霊に導かれて、人生に再び希望を抱くと、自分と同じ苦しみを持っている人々を救いたいと考えるようになり、そのとき思いついたのが、この仕事だったのだそうだ。

点字を覚えて読書の喜びにあらためて目覚めた。積極的に外出し、恋人もできた。昔とは違う世界に暮らすようになったが、もしかすると以前にも増して活発になったのではないか……。

浜松への家族旅行も、あれから毎年、敢行している。

視力と引き換えに手に入れた霊感は、相変わらずだという。

つい最近も、ある独り暮らしの生徒に、遠隔でインターネットを介して通話しながらパソコンの講習をしていたところ、その生徒の後ろから女性の声が聞こえてきた。

生徒は独身男性で、視覚障碍者向けのケアマネージャーが自宅に通ってくる他、近くに住む妹さんもときどきようすを見に来てくれると以前から話していた。だから、「女性の声がするけど、ケアマネさんか妹さんが来てるんですか?」と訊ねたのだが。

「誰もいません。僕ひとりです! 先生、怖いこと言わないで!」

生徒は悲鳴のような返事を寄越した。一方、女の声は、いよいよはっきり聞こえてきた。ケタケタと笑っている。それがまた、なんとも厭らしい、意地の悪そうな笑い声なのだった。

「でも、笑ってますよ……」
「笑ってるんですか? 妹とスカイプしているときにも同じことを言われました。うわぁ、怖い! 怖いですよ! 僕には全然聞こえないけど!」

と、まあ、こんなふうに非常に怯えて、授業が進まないどころか、もう教わるのをやめてしまう恐れまで生じたので、澄夫さんは、尚も笑っている女の声に対して、「コラ!」と一喝して、叱りつけた。

「どっか行きなさい! 二度とこっちに来るんじゃない! 去ね!」

すると「チッ」と鋭い舌打ちが1回聞こえて、それっきり、その生徒との通話中に女の声が割り込んでくることはなくなったのだという。(川奈まり子の奇譚蒐集・連載【三一】)

終わり

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