太平洋戦争に突入した直後の戦況は、たしかに日本が優勢であった。それは、当時の日本軍が世界有数の高度な情報収集能力を有していたからだという。戦前の日本では一体どのようなインテリジェンス活動が行われていたのか? インテリジェンスの専門家である小谷賢氏の著書、『日本軍のインテリジェンス』より、日本特有の「インテリジェンスの扱い方」の長所と短所を探る。(JBpress)

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(※)本稿は『日本軍のインテリジェンス』(小谷 賢著、講談社選書メチエ)より一部抜粋・再編集したものです。

戦前日本のインテリジェンス

 近年、日本におけるインテリジェンス(情報活動)への関心が高まってきているようである。少し前までは、「インテリジェンス」という言葉自体なじみの薄いものであったが、最近では書籍のタイトルにも使用されるようになり、マスコミなどでも日本のインテリジェンスについて論じられている文章を目にするようになった。

 他方、これからの日本のインテリジェンスを考えていく上で、戦前の日本がどのような情報活動を行っていたのかについて言及されることはあまりない。

 なぜならこれに関しては、まとまった学術的研究が行われてこなかったからである。この原因としてはよく言われるように、終戦時に情報関連資料のほとんどが破棄されてしまったことが挙げられるが、それよりも根本的な問題は、戦後の風潮がそのような研究を許容してこなかったことにある。

 したがって戦前日本のインテリジェンスについては、実際の活動に従事していた旧軍人などが、自分の見聞きした範囲で回想録や記録を残すことしかできず、我々の一般的な知識としてもせいぜい特務機関や中野学校どまりであろう。

立ち遅れた研究

 このような日本における研究の遅れが、戦前日本のインテリジェンスへの誤解を招き、現在でも特務機関や憲兵、特高など本来区別されるべきものが、ひとくくりにして議論されることも多い。

 しかしより重要な問題は、戦前に日本が行っていた通信傍受活動に関する研究が諸外国と比べ決定的に遅れていることと、戦前日本のインテリジェンスに関する包括的な考察が行われてこなかったことにあると考える。

 日本に関しては、ワシントン海軍軍縮会議で日本側全権の暗号通信が米英に解読されていたことや、アメリカとの対立を決定的にした南部仏印進駐の情報が事前に米英に漏洩(ろうえい)していたこと、そして日米交渉の折に日本側の外交電報が米側に筒抜けとなっていたことなど、通信情報の漏洩によって日本の対外政策が著しく制限されてきた史実がありながら、この分野に対する詳細な研究が疎(おろそ)かにされてきたことは、またこの類の失敗を繰り返す遠因ともなりかねない。

 戦前日本のインテリジェンスを知らなければ、我々は歴史に立ち返ってそこから教訓を学ぶことができない。

高度だった情報収集能力

 戦前日本のインテリジェンスを概観(がいかん)していくと、そこには日本軍によるインテリジェンスの特徴が垣間見えてくる。

 陸海軍情報部は、少ない人員と予算の割に生情報やデータを収集していた。とくに通信情報に関しては、これまで考えられていたよりも高度な能力を有していたと考えられる。

 また、情報分析の手法に関しても、かなり洗練されていた側面があり、おそらく情報収集・分析活動そのものは、イギリスやアメリカと比べてもそれほどの遜色はなかったであろう。

 したがって、太平洋戦争において問題であったと考えられるのはインテリジェンスそのものではなく、また情報がなかったために日本が戦争に追い込まれてしまったというわけでもない。そこには日本がインテリジェンスを扱う上で特有の問題が存在していたのである。

 それらは主に、組織における情報機関の立場の低さ、情報集約の問題、近視眼的な情報運用、そして政治家や政策決定者の情報に対する無関心などであった。

情報部の立場の弱さ

 日本軍のインテリジェンス活動における第一の問題点は、情報分析、評価担当の組織が曖昧なままで、この部分が機能的に分化されていなかったことである。

 組織上、情報分析は情報部の仕事であったが、これまで述べてきたように、実際の情報分析、情勢判断は、陸海軍の作戦部が行うことが多かった。

 なぜなら作戦部には優秀な人材が集まっており、また作戦部が情報部と同じようなインフォメーションを入手することが出来たため、作戦部と情報部の間で協力関係が築かれなかったことが大きい。

 わざわざ情報部でインフォメーションを分析しなくても、作戦部自らが分析、情勢判断を行い、それを基にして作戦を立案すれば良いというわけである。

 しかし、情勢判断の前にまず客観的な情報ありきである。これは身近な例で考えればわかることであるが、「天気予報を見てからこれからの外出を考える」「ある企業の業績が良いからその株を買う」というのは、ある程度合理的な判断である。

 他方「晴れそうだから出かける」「ある株が上がりそうだから買う」というのは主観的な判断である。

 後者は先に行動するという前提があって、情報はその行動を説明するために利用されているに過ぎない。これが国家レベルの話になると「ドイツが勝ちそうだから組む」「アメリカが妥協しそうにないから戦争に訴える」といった危険な考え方を導いてしまうのである。

 これは一般的に情報の政治化と呼ばれる問題であり、行動しようとする人間が情報を扱い出すと、手段と目的が入り混じるために客観的な情勢判断がむずかしくなってしまう現象である。

調査と実行を分化する

 これに対する処方箋として、アメリカの著名なジャーナリスト、ウォルター・リップマンは「実行するスタッフと調査するスタッフを、できる限り厳密に分離しておくことしかない」と述べている。

 リップマンによれば、情報の政治化を防ぐためにはなるべく客観的な情報判断を提供してくれる、個別の部署が必要になる。卑近な例ではそれが天気予報であり、株のアナリスト、国家のレベルでは政府の情報機関ということになる。

 情報機関というのは行動する側になるべく客観的な情報を提供するのが仕事であるため、行動しようという思惑に引っ張られにくい。そのため、作戦部や政策決定というような行動する側と、行動の材料を与える情報組織は分離されていなければならない。

 日本軍においては、この作戦と情報の機能が明白に分化されなかったことが問題であり、情報部の立場の弱さが作戦部による情報の政治化を容易にしてしまった。これは情報部が日本陸海軍の指揮命令系統の中で、ほとんど身動きできなくなったことから生じていた。

 また陸海軍の組織においては、情報と作戦・政策間の境界が曖昧であった。作戦部門が自分たちで情報を扱い出すことによって、情報部の存在意義を否定してしまうことになってしまったのである。

 たとえば、1944年ビルマ戦域において、英軍は日本軍について詳細に情報を集め、その上で作戦を練っていた。かたや日本軍は、情報や兵站(へいたん)をまったく無視したインパール作戦を決行し、自滅してしまった。

 この両者の差は、情報をとにかく重視したイギリス軍と、「作戦重視、情報軽視」の日本軍との考えの違いから生じていたのである。

中央情報機関が存在しなかった

 一般的に、インテリジェンス・コミュニティーに収集される膨大な情報を整理するには、中央情報機関の存在が不可欠である。この機関は情報の集約・評価を行い、また政策サイドにも必要なインテリジェンスを報告するという任務を負っている。

 トップの人間は情報源が複数あった方が、間違った情報のみを受け取るより安全であると考えがちであるが、それは情報同士を付き合わせることによってより精度の高いインテリジェンスを生産するという、情報の相乗効果を見落としている。

 また膨大な情報が複数のソースから供給された場合、多忙な情報カスタマーはあっという間に情報の洪水に飲み込まれてしまうであろう。

 日本の組織内では、情報の集約というものがまったく行われていなかった。情報を一元的に集約・評価できなければ、情報はそれぞれの部局で都合よく評価されてしまう上に、各組織間の情報共有も進まなくなる。

 戦前、陸海軍や外務省の間で対外情報が共有されなかったことで、日米交渉時に対外政策を円滑に調整することができなかった。また戦争中も、陸軍は海軍からミッドウェイや台湾沖航空戦の結果を知らされることがなかったために、情勢を把握することなしに作戦を立案、遂行していたのである。

短期決着型の戦争方針

 日本軍の戦争方針は、基本的に日清、日露戦争に見られるような短期決着型のものであった。これは戦場で敵に打撃を与えておいて、有利な条件で講和に持ち込む、という方針であったため、必要とされる情報も軍事情報、とくに作戦に寄与するような情報が大部分を占めていた。

 このやり方であると、戦術レベルでは情報が迅速に活用される。それらは現に真珠湾作戦や南方攻略戦においてその有効性が証明されている。この情報運用は、19世紀後半にドイツ参謀本部が行ったような一連の限定戦争に対しては有効であったが、第一次大戦以降の総力戦には向いていなかった。

 おそらく日本軍は本格的に第一次大戦を戦わなかったために、この総力戦というものを実感できていなかったのであろう。そして限定戦争の延長でしかインテリジェンスを捉えられなかったことが問題であった。

 日本軍、とくに陸軍が太平洋戦争の緒戦では情報を集め、それに呼応した作戦を立案・実行することができたのに、それ以降そのような情報と作戦の連携がまったく上手くいかなくなった原因の一つに、陸軍が初めからシンガポール攻略までしか想定していなかったことが挙げられる。

 その後1942年になると、陸軍はまた北方を戦略の重心にする想定であったので、戦術的にシンガポールを攻略してしまえば、あとは海軍の領域と考えられていたのである。よって陸軍が欲した情報は、英領マレーシンガポール、蘭印などを攻略するための限定された軍事情報であり、陸軍がガダルカナル戦まで米軍のことをほとんど調べようとしなかったのもある意味理解できよう。

近視眼的な情報運用

 当時の日本軍の組織的特性としては、優秀な人間を集めた作戦部にすべての情報が集まりそれを分析する、すなわち作戦と情報が同じ所で行われるような仕組みになっていた。

 この仕組みであると、作戦部が作戦と情報を両方扱うために、作戦や戦略のためにどのような情報や分析が必要なのか、という情報のニーズをすぐに作戦へと反映することが出来るが、その反面、複雑な情報分析、評価を必要とする中長期的なインテリジェンス運用には向いていない。

 このようなシステムのため、日本軍は短期的な作戦レベルの情報運用には秀でていた。しかし欠点としては、作戦・政策の役に立たない大局的情報や、将来役に立つかもしれないような情報は無視されてしまう。

 本来、客観的な情勢判断のためにはあらゆる情報を、それがどんなに些細なものであってもそれを検討し、インテリジェンスに組み込んでいくべきなのであるが、作戦部が情報分析を行うと、いかに作戦に寄与するか、という極めて短期かつ主観的な態度で情報が取捨選択され、情報部に対しては短期的に利用できるインフォメーションの類を要求するようになるのである。そしてその結果、中長期的な戦略情報に基づいた情勢判断が出来なくなってしまう。

 三国同盟に調印することがどういった意味を持つのか、独ソ戦開戦は世界の軍事バランスにどのような影響を与えるのか、日米戦争はどうすれば回避できるのか、などといった大局的で戦略的な情勢判断を行うのではなく、戦前の政策決定においては陸海軍内外でのセクショナリズムが比重を占め、さらに日本軍は艦船比率や天候といったテクニカルで戦術的な理由から戦争を計画してしまうのである。

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