江戸幕府3代将軍の徳川家光が亡くなった時、数人の家臣が後を追って殉死しました。実は家臣の殉死という行為は、主君と男色関係にあって異例の立身をした者の義務行為であったという風にも言われています。

確かな証拠こそありませんが、有力な説として、家光の死後に殉死した者は家光と男色関係にあったと考えられているのです!

今回は家光に生涯最も愛され、後を追った堀田正盛にスポットを当ててご紹介します。

堀田正盛の場合

家光の寵愛を最も受けた堀田正盛は、慶長13年(1609年)江戸幕府旗本の子として誕生しました。正盛の母が家光の乳母・春日局の義娘だった事もあり、正盛は幼い時期から家光に会う機会があったのでしょう。たぶんその時から家光は正盛の事を好ましく思っていたのかもしれません。

堀田正盛 Wikipediaより

元和9年(1623年)、家光が19歳(数えで20歳)で3代将軍になると、14歳(数えで15歳)の正盛はいきなり将軍の側に仕える近習に大抜擢。側に置いておきたくなるような、よっぽど可愛らしい男の子だったんでしょうね…。

出世街道まっしぐら

その後も出世街道まっしぐらの正盛は、寛永3年(1626年)には17歳で小姓組のトップである番頭になりました。

ちなみに小姓組って、設立初期は勤番所の前に花畑があったために花畑番と呼ばれたらしいです。どんだけメルヘンなの…。

堀田家の領地は、父の代には1000石ほどだったのに、正盛が家督を継いでからというもの、相模及び常陸国内5000石、上野国内5000石の領地を加えられ、まさかの合計1万石越え。17歳にして譜代大名として諸侯に列する。

小姓組の番頭って4000~5000石くらいの旗本がやる仕事だったので、この頃の正盛にキャッチコピーをつけるとしたら「土地がありすぎる小姓組番頭」というところでしょうか。

その2に続く

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