PanAsiaNews:大塚 智彦)

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 世界最大のイスラム教徒人口を擁するインドネシアでテレビ番組やマスコミで引っ張りだこの人気イスラム教説教師が、連日ニュースで大きく取り上げられている。理由はこの説教師がキリスト教十字架に関して述べた内容が「キリスト教徒を冒涜している」「キリスト教における十字架の意味をはき違えている」などとして、キリスト教信者や団体、果ては副大統領からまで問題視する発言が相次いでなされているためだ。

 のみならず、一部キリスト教団体は警察にこの説教師を「宗教冒涜罪」で告発、警察も事情聴取に乗り出す構えを見せるたが、そんな中、同国最高位のイスラム聖職者会議「インドネシア・ウラマー評議会」(MUI)が警察に先んじて本人を呼んで事情を聞いた。その結果、MUIは「宗教冒涜には当たらない」との判断を示し、説教師も会見で「悪いことはしていないのに謝罪する必要はない」と逆ギレする始末。

 そのため「多様性の中の統一」がインドネシアの国是であるはずなのに、圧倒的多数のイスラム教徒によってあらゆる規範が都合よく解釈され、「無言のゴリ押しによるイスラム優先」という風潮が、昨今のインドネシアで顕在化していることを改めて印象付ける事態となっている。

人気説教師による十字架批判

 問題となっているのはイスラム教の説教師であるアブドゥル・ソマッド師(42)。テレビや雑誌などに頻繁に登場しては巧みな話術でイスラム教の説教を行う著名人で、インドネシアでは知らぬ人はいない人気説教師である。

 そのソマッド師がキリスト教十字架に関してコメントする映像が、8月17日にインターネット上に公開されると、瞬く間に拡散、「炎上」状態となった。

 映像の中でソマッド師は「十字架には異教徒あるいは不信心者の魔人、霊の様なものが宿っている。そしてそこにキリストの像があるからキリスト教徒は十字架を崇め祈るのだ。彼らとは異なり、我々イスラム教は偶像を排している」などと話している。

 これに対しキリスト教徒が多数のバタック族や東ヌサテンガラ地方の団体、インドネシアキリスト教学生組織などが一斉に反発の声をあげ警察当局に対して「宗教冒涜の疑いでの捜査」を求めて告発に踏み切った。

 告発を受けた警察はしかし「事実関係を確認して必要があれば捜査するが、現時点では詳細を調査中である」(国家警察リッキーナルド・チャイルル捜査本部長)と消極的姿勢を示す一方で「問題の映像をネットにアップした人物は電子情報法違反の疑いがあるので、こちらの捜査は鋭意進めたい」とし、発言者よりネットにアップした容疑者の捜査を優先させるような態度を取っている。

 こうした警察の慎重な姿勢の背景には、MUIというイスラム教組織が自らソマッド師から事情を聴くなど独自に動いていることに配慮した結果とみられ、警察の公正中立性への疑問の声も出ている。

 MUIインドネシア国内のイスラム教団体で構成される組織で、4月の大統領選挙で当選した現職のジョコ・ウィドド大統領とペアを組んで次期副大統領に決まっているマアルフ・アミン氏が議長を務めた組織。LGBTなどの性的少数者に対する刑罰導入支持やイスラム教徒のクリスマス祝い禁止、風疹・麻疹ワクチン接種禁止などのファトワ(宗教的見解)を出すなどしており、その政治・社会・文化への影響力はかなり大きい組織である。

開き直って逆ギレ会見

 一方、事実関係の調査に乗り出したMUIは、8月21日にソマッド師を呼んで事情を聴いている。そこでソマッド師は、問題の発言は3年前にスマトラ島リアウ州プカンバルのモスクで行った説教の一部で、集まった聴衆の中の女性イスラム教徒からの質問に答える形で話した内容だった、と説明したという。

 MUIのファミ・サリム副代表はCNNに対して「発言は社会の調和を乱すものではなく、ソマッド師独特の表現である」と擁護の姿勢をみせた上で、「全ての関連団体、組織は冷静に事態を見守り、宗教間の対立を激化させようとする扇動に影響されないようにしてほしい」と事態の沈静化を呼びかけた。

 MUIでの事情説明後に会見したソマッド師は「(問題のビデオは)女性信者からの『十字架をみると寒気がするのはなぜか』という質問にイスラム教徒として答えたものである」「私が話をしたのはモスク内部で、聴衆は全員イスラム教徒である」「イスラム教徒に説教したことが自動的に他の宗教の人々を冒涜することになるというのか」「何も悪いこと、間違ったことを言っていないのに謝罪する必要があるのか」と逆ギレ気味に開き直ってみせた。

イスラム教徒からも反発が

 こうしたソマッド師の態度にイスラム教徒の中からもわずかではあるが反発の声が上がっている。政権与党「闘争民主党(PDIP)」のイスラム教徒である幹部は「ソマッド師のこうした論法に従えば、他宗教の人がいない場面であれば、自ら信じるところとして他の宗教に関して何を発言しても許されることになる」と反論し、それはインドネシアの掲げる「多様性の中の統一」という国是とは相容れない「不寛容」を無用に煽るとしている。

 ソマッド師は同じ映像の中で「もしイスラム教徒が入院した際、もし病院に十字架があったらそれを覆わなくては、臨終の際に異教徒として死ぬことになる。また緊急搬送の際に十字架のある救急車で運ばれることや『ハレルヤ』などという言葉をかけられることを許してはならない。そうしたことはイスラム教では禁じられており、異教徒として死ぬことを意味する」などとも説教している。

 これも「生死の境という緊急時に救急車や病院でそんなことをすることがイスラム教徒にとって命より大切とは思えない」と穏健なイスラム教徒からも反発が出ている。

キリスト教徒からは「許そう」とも

 こうしたソマッド師の発言に対し、宗教差別、宗教冒涜として警察による捜査を求める複数のキリスト教団体がある一方で、「ソマッド師を許そう」と主張するキリスト教組織もある。

 「インドネシアキリスト教徒青年団運動(GAMKI)」のサハット・シヌラット事務局長は8月18日に地元メディア「ジャカルタ・グローブ」に対して「ソマッド師の発言はインドネシアイスラム教徒多数の考えを代表しているわけではないと思う。十字架に磔にされて死んだキリストは、この問題で彼を追及することを求めていないはずである。ソマッド師の発言は我々を確かに大変傷つけたが、彼を許す。宗教とは平和のメッセージを伝えるものであり、憎悪を広げるものではないからだ」との考えを示した。

 こうしたキリスト教徒側からの「寛容性」に基づく呼びかけに対しても、ソマッド師側は依然として「イスラム教徒がイスラム教徒に行った説教のどこが問題なのか」という姿勢を崩していない。

 インドネシアではイスラム教の説教師として広く支持され、特に若い青少年に対する影響力が大きいとされる人気者のソマッド師だが、宗教者として、そして教育者として、今まさに問われている問題の本質がどこにあるのかを理解しているのかという疑問の声も聞こえてくる

 宗教に関連する問題は扱いを間違えると社会の分断を招く恐れがあることから、ユスフ・カラ副大統領もいち早く「きちんとした事情の説明が必要になる」と早期の問題解決を求める態度を示している。

 このソマッド氏の発言問題では、ある意味で世界最多を誇るインドネシアイスラム教徒の宗教性、寛容性が試され、問われているとも言えるのだが、現在のインドネシアでは、そうした問題意識を持つことすら「反イスラム」という観念で押し潰されようとしているのが現実でもある。

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