惜しくも準優勝に終わったが、今年の甲子園で星稜高・奥川恭伸投手はさらに評価を高めた。もともと高校四天王の一角に挙げられ、今秋のドラフト会議での1位指名は確実視されていたが、複数球団による競合は避けられない情勢となった。

 星稜といえば、歴史に残る箕島高との延長18回の死闘など、北陸地方では名の知れた名門。春夏通じて初の優勝が期待されたものの、最後は履正社に屈して1995年に続く準優勝となった。

 OBで最も名前があるのは巨人、ヤンキースなどで活躍した松井秀喜甲子園でもラッキーゾーン撤去後初アーチや、5連続敬遠などの伝説を数多く残し、1992年ドラフト1位で巨人に入団。長嶋茂雄監督の指導の下、日本人最高のスラッガーへ成長していった。

星稜高校プロ第一号は?


 そんな名門高からプロ野球選手第1号となったのは、中日で一時代を築いた小松辰雄だった。2年夏の甲子園はエースとして準決勝進出に導く活躍をみせた。星稜は2度目の夏甲子園出場だったが、その名を全国に轟かせた。

 3年時は春夏とも1回戦敗退だったが、自身3大会連続で甲子園出場。星稜が甲子園常連高の仲間入りを果たす最初のきっかけとなった。

 1977年ドラフト2位で中日に入団。1994年に引退するまで17シーズン、毎年1軍で試合に投げ続けた。150kmを超す剛速球が最大の武器だった。通算432試合に登板し、122102敗50セーブ防御率3・44の成績を残した。

 キャリアハイと言えるのは1985年。33試合に投げ17勝8敗1セーブ防御率2・65で、14完投の一方で救援登板も8試合あり、まさに大車輪の活躍を演じた。最多勝最優秀防御率最多奪三振、そして沢村賞とタイトルを総なめした。星稜OBのプロ1号であり、最高の投手は小松、という評価に異論を挟む余地はない。奥川は、この大先輩の残した実績に挑むこととなる。

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他の主なOB

 過去にドラフト1位指名されたのは2人だけしかいない。松井と、もう一人が慶応大を経て2001年に近鉄を逆指名して1位入団した山本省吾だ。

 高校2年時にエースとして、星稜を夏の甲子園初の決勝進出へ導いた。今大会の準優勝はその時以来、2度目となっている。身長1m77と大柄ではなく、高校卒業はプロではなく慶応大へ進んだ。東京六大学リーグでは通算55試合に投げ、21勝14敗、防御率2・23の数字を残した。

 技巧派左腕として先発、中継ぎこなすバイプレーヤーとして活躍。分配ドラフトを経てオリックスに移った後の2008年には、30試合で唯一の2桁となる10勝を挙げ、6敗、防御率3・38。オールスターに初出場し、初めて規定投球回にも達した。横浜、ソフトバンクを経て2013年限りで引退。通算287試合で40勝42敗2セーブ防御率4・41という生涯成績だった。

 他にもダイエー盗塁王に輝いた村松有人外野手、同じくダイエーで3年連続2桁勝利を挙げた村田勝喜投手、南海・ダイエーで内外野こなす万能選手だった湯上谷ひろ志、伝説の箕島戦の先発出場メンバーであり中日・広島で代打の切り札だった音重鎮、同級生で現在も現役で活躍中の楽天・島内宏明外野手と巨人・高木京介投手ら、ファンに愛される個性派も数多い。

 星稜史上3人目となる1位指名でプロの道に進むであろう奥川。偉大な先輩たちの後を追い、追い越すことができるか。

※健康、ダイエット、運動等の方法、メソッドに関しては、あくまでも取材対象者の個人的な意見、ノウハウで、必ず効果がある事を保証するものではありません。

[文/構成:ココカラネクスト編集部]

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