出渕裕氏のデザインしたロボットといえば、「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」(1988年)のνガンダム、「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」(1989年)のアレックス、「機動警察パトレイバー」(1988年)のイングラムなど、現在でも新たに商品化される超人気メカが多い。
しかし、10代でアニメ業界に出入りするようになった出渕氏は主役ロボットではなく、1話かぎりで倒されてしまう敵側のロボット、俗に言う“やられメカ”専門のデザイナーとして制作現場で重宝された。その長い仕事歴の裏には、物語や作品に対する独特の美学が息づいていた。

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僕が描いていたのは、絵コンテ用のアイデアラフだった


── 出渕さんが敵メカをデザインしたのは、「闘将ダイモス」(1978年)が最初でしたね。デザインするとき、長浜忠夫監督から何か特別なオーダーはあったのでしょうか?

出渕 最初、「ダイモス」の敵メカは、聖悠紀さんが描いてらしたんです。ただ、聖さんは宇宙船などは描けても、敵メカはあまり得意ではないようでした。次に蛭田充さんが敵メカを描いて、その後を自分が引き継いだ形です。受験生だったころ、ファンとしてスタジオ見学に行ってそれまで描いていたものを見せたら、「やりませんか?」と声をかけてもらった感じです。長浜さんは裏表のない人ですから、こちらで描いたものを「いいねえ」とストレートに誉めてくれて、それですっかり気分がよくなってしまって(笑)。今にして思うと、長浜さんは山田風太郎の小説に出てくるような怪忍者のような、毎回違う殺陣を構成できるアイデアが欲しかったのでしょうね。

── 当時のロボットアニメは、主役メカはスポンサーさえ許可すれば、後は何も問われなかったと思うのですが?

出渕 ええ、確かに「ダイモス」はそうでした。しかし、長浜さんが唯一、主役メカに注文をつけたのが「ダイモス」だったと聞いています。「顔をゴツくしないでほしい、シャーキン(「勇者ライディーン」のプリンス・シャーキン)みたいなスマートな顔にしてほしい」と注文したんだそうです。でも、体はトレーラーですからね。なんかアンバランス(笑)。当時の主役メカとしては、ちょっと異色な顔面ではないでしょうか。

── 「ダイモス」の後が「未来ロボ ダルタニアス」(1979年)、「宇宙大帝ゴッドシグマ」(1980年)と、毎年、敵メカを専門的にデザインするようになりますね。

出渕 そうは言っても、僕は絵を描くのが好きなだけのド素人。それと、意外に思われるかもしれませんが、主役メカをデザインしたいなんて微塵も思っていませんでした。「仮面ライダー」で言うと、新しいライダーを自分で考えるよりも、脳内で新ショッカー怪人デストロン怪人を考えるのが好きな子どもでしたからね。当時、大河原邦男さんから「出渕くんも主役メカをデザインできるようにならないとね」と言ってもらえて、「そうですね、ありがとうございます!」なんて答えながらも、内心では「本当は敵側だけやっていたいんだけどなー」と思っていました(笑)

── どうして、主役メカはイヤだったのですか?

出渕 うーん……。多分、自分からすると、つまらなかったからでしょうね。作品の世界観をつくるのは、(単一のヒーローではなく)たくさん出てくるキャラクターだと思うんです。戦隊ヒーローでいうと、戦闘員こそが作品の世界観を体現している……と考える性質なので。「機動戦士ガンダム」だって、あの世界を代表しているのは、ガンダムではなくてザクですよね。汎用性があって、視聴者が作品のイメージをつかみやすいアイコンができれば、8割方、僕らの仕事はうまくいくんです。本当は「ダイモス」の敵メカにはみんな翼をつけたほうが良いのに、と思っていました。

── ああ、敵のバーム星人は羽が生えていますからね。

出渕 そう、別に飛ばなくてもいいから、デザインとして翼を背負っていたほうが、統一感が出ますよね。途中からの参加だったので、既にその案は実現できない感じでした。最初から参加していればそのように提案したはずだし、何体かは翼のある敵メカも描きました。あと、「ダイモス」は途中から、敵メカが単なる「戦闘ロボ」から「メカ戦士」に強化されたんです。それで、ビジュアル的に合体メカのようなコンセプトを打ち出した感じでした。……確か、美形のゲストキャラが出てきたときには、更にスペシャルな敵メカ感が出るように心がけたかな。「ダイモス」は、長浜さんが女性ファンを意識したせいで、美形キャラゲストが多かったんですよね。

── 敵メカはプロットを読んで、デザインしていたのですか?

出渕 プロットというか、シナリオの第1稿です。今のように熟考する時間はなくて、発注から数日でアップしないといけませんでした。何しろ敵メカというのは、毎週出てきますから。ただ当時はラフデザインで良く、コンテマンが「こんな殺陣ができるよね」と芝居を組み立てるためのアイデアを提供するという側面も強かったですね。(作画監督の)金山明博さんが描きやすいように、こちらのラフデザインをクリンナップしてくれるシステムでした。自分で清書するようになったのは、「無敵ロボ トライダーG7」(1980年)からですね。ですから、「ダイモス」で僕が描いていたデザイン画は、飽くまで作画用のアイデアラフといった感じです。当時はデジタルではないし、今のように整えられた線ではなく、鉛筆タッチでもドンと来いというタイプの作画マンが多かった気がします。

── 敵メカの中には、「スター・ウォーズ」に登場したダース・ベイダーストームトルーパーパロディまでありましたね。

出渕 それは「最強ロボ ダイオージャ」(1981年)の頃ですね。「ダイオージャ」は宇宙の水戸黄門なんだから、そういう敵がいても許される世界観だろう、と勝手に解釈して。確か吾妻(ひでお)さんのパロディもやった気が……。良くも悪くも、おおらかな時代だったんですよ(笑)
その頃の僕は、ずっとサンライズの第2スタジオにお世話になっていました。「ダルタニアス」の途中で長浜さんが抜けて、監督が(佐々木)勝利さんに代わって、その後、「トライダー」も「ダイオージャ」も勝利さんが監督でした。そのあとで2スタへ新しい路線として入ってきたのが、富野(由悠季)さん。そのまま僕は、「戦闘メカ ザブングル」(1982年)に参加するわけです。つまり、僕が作品ごとに移動したのではなく、2スタの作品や人が入れ替わっていったわけです。特に、人とのつながりが大きいと思います。「ダルタニアス」までのサンライズ2スタは、東映の下請けというか制作現場でしたから、後に戦隊物に呼んでくださる鈴木武幸さんとか飯島敬さんといった東映のプロデューサーとも知り合いになれました。
>> “やられメカ”から世界観を構築する――。出渕裕の仕事と美学【アニメ業界ウォッチング第57回】 の元記事はこちら
“やられメカ”から世界観を構築する――。出渕裕の仕事と美学【アニメ業界ウォッチング第57回】