実業界のお歴々が金で勲章にありついた!!  一世を聳動した売勲事件の立役者・賞勲局総裁天岡直嘉とは如何なる人物であったか。筆者は事件担当の社会部記者。

初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「勲章高く売ります」(解説を読む)

「勲章をやるから金を寄越せ」

 売勲事件、すなわち動章瀆職被疑事件の発覚端緒は、天岡直嘉氏の義弟長島弘等の手形詐欺容疑事件の取調べからだった。起訴はされなかったけれども増田次郎氏らの取調べから、天岡、鴫原亮暢らの動静が次第に判明するに至り、堤清六、横田永之助と次々召喚取調べて行くうちに、渡辺孝平、兵藤栄作、熊沢一衛らの五私鉄疑獄関係容疑者とも結びつき、果ては東京商工会議所会頭藤田謙一氏の線までが浮び上って来た。

 ついに事件のピーク天岡直嘉賞勲局総裁が瀆職罪で起訴収容されるに及んで、世間では“売勲事件”と悪しざまに呼ぶようになり、“売勲”といえば金で勲章の売買をやっている犯罪内容であるような印象を与えた。勲章とは勲功を表彰して贈与される賞牌である。この事件の場合「勲章をやるから金を寄越せ」「金をやるから勲章を出せ」というような露骨な犯罪ではなく、また売勲という言葉そのものが国民の栄典を傷けること甚だしい、というのでその社会的、国家的影響を慮って、事件の呼称につき、検察当局でも頭を捻った揚句売勲という言葉を使わずに、“勲章瀆職事件”と呼ぶことに改めた。

「“流星”は“隕石”になった」桂太郎の女婿になるも……

 勲賞疑獄事件の中心人物、元賞勲局総裁天岡直嘉とは一体どんな人物であろうか。日露戦争の開戦から終結まで、4年7ヵ月の内閣を担当した桂太郎、田中義一両陸軍大将は、共に長崎閥山県有朋の直系であり、切っても切れぬ因縁にあった。桂太郎の愛婿天岡直嘉は、高等学校時代から田中の家に出入していた。

 彼は明治13年生れの東京府士族、明治39年東大法科を優等で卒業し、内務省属を振出しに、第三次桂内閣のとき内閣書記官、法政局参事官から、大正6年8月には一躍して、逓信省為替貯金局長になった。岳父桂太郎の威光七光り、如何によく出来た秀才であるとは言え、当時官界の人々には、大きな流星がとんだ、そのときの閃光に眼がくらむほどだった。

 それが桂公の歿後には一向に光を見せず、“流星”は“隕石”になったとも噂された。震災で貯金局の原簿が焼けてしまった。1階の倉庫にあったこの原簿を運び出さないからといって、局長の責任というのも可笑しな話だが、自己宣伝の下手な彼は敢て弁解しようともしなかった。いやそれどころか、震災直後、役所の自動車で乗り廻している途中、困っている人を拾って送ってやる人情味もあった。だが自悟徹底でもない。だから技量やひがみでくる反対派に乗ずべきいい機会をあけっ放しにしているようなものであった。彼はよく遊んだ。しかし人の噂さなど一向に気にしなかったらしい。

47歳でフラフラ 多額の借金を背負うことに

 彼にはとりわけ仲のいい1人の女性があった。新橋で喜利勇と呼ぶ美妓で、長唄の名手だったが、2人の恋は彼が貯金局長から総裁になってからも続いていた。大正12年の震災当時のどさくさに、喜利勇は輝子夫人公認で、天岡の本邸に引取られて暮したことさえあるという。鳴かず飛ばずの官界生活18年、清浦奎吾内閣の大正13年6月休職となった。彼が貯金魔といわれた吉川長之助に担がれて、十数万円の負債が出来たのもその当時のことである。

 大正14年1月の内閣更迭の前日、藤村逓相と衝突して依願免本官の辞令一本で馘首された。それからの4年間、別に公職につくでもなく浪々の身を、47歳でも三十位にしか受けとれぬ若さで粋な彼は、暇にまかせ、新橋あたりで得意の長唄を、三すじの糸にのせたりして、憂さを晴らしていたが、芸には自信満々の彼も、ふえる一方の借財の方はどうにも整理がつかず、困窮その極に達していた。

 天岡が多額の負債を背負うに至ったのは、同郷の田中守平および辻嘉六らに欺かれ、同人らの手形に裏書きしたのにはじまる。しかもその債務は概ね高利貸に負担したもので、利息高率で額は急増、請求は苛酷で支払に苦しんでいた。

負債に負債を重ね、ついに破産申告「財政の急を救って欲しい」

 ちょうどそのドン底にいた昭和2年2月頃、旧知の間柄の鴫原亮暢なる人物が仙台から上京し、天岡に「木材の取引を始めたいのだが、こんどの事業には、有力会社が後援してくれるよう斡旋して欲しい」と願い出た。その言葉を信用した天岡は鴫原が前科者であることを知らず、巧みな言辞を信用し、鴫原と共に奔走した。だが鴫原の事業は中途で一頓挫を来した。当時既に天岡に1万円もの不渡手形のあることを、他から聞いて知っていた鴫原は、天岡にそれとなく聞いてみると、不渡手形どころか、すでに破産申請を受けていることがわかった。

 鴫原は天岡の窮状に深く同情し、自分の事業が成功したならば、大いに援助しようといった。鴫原は保険会社の代理店なども営んだことがあり、保険勧誘などで、口実を設けて人を説得するに妙を得ていたが、天岡は凄く鴫原の義気に感じて親交を結んだ。ところが、天岡は、その負債のために同年4月初め、ついに破産の宣告を受け、鴫原に対し、何とかして財政の急を救って欲しい、と求めた。

 鴫原はちょうど、自分の事業が一頓挫を来した際ではあり、事業の方を断念して、一意天岡のために、財政整理に尽そうと約束し、約数ヵ月間、麻布本村町の天岡の私邸に同居して、主として破産届出以外の債務凡そ4万5000円の整理に当った。一方、天岡の破産事件は義弟長島弘等からの尽力によって、一応債権者側との間に示談が調い、同年5月23日漸く破産の宣告は取消された。

破産申告からわずか4日後に「賞勲局総裁」任命の急展開

 人間の運命の岐路、人生の浮沈というものは、まことに測り知れぬものである。若槻内閣総辞職のあとをうけて、政友会総裁田中義一を首班とする内閣が4月20日に成立するや、悲運窮境のドン底にあった天岡直嘉は、破産宣告取消後、僅か4日目の同年5月27日、資源局長官になった字佐美勝夫のあとを襲って賞勲局総裁に任命されるに至ったのである。現総理鳩山一郎氏は、田中内閣組閣と同時に内閣書記官長となったが、天岡賞勲局総裁は、鳩山氏と同じ東大法科出身であり、一学年上の兄貴として、大学時代から親交の間柄であった。

 天岡が、ひとたび賞勲局総裁に就任するや、債権者の督促は再び急となった。彼は義弟長島弘に示談の前後措置を奔走させる一方、ますます鴫原を重用し、日夜自己の身辺に近づかせて、賞勲局総裁室や自邸に出入させ、あたかも、自分の私設秘書的役割を演じさせ、あるときには債権者に折衝させた。天岡は久しく債務に苦しめられて債権者の名を聞くさえ慄然たる有様だったので、その整理を鴫原に任して遠ざかった。またあるときは、鴫原に旨を含めて知名の政治家や実業家を訪問させ、自分のために援助を乞わさせた。

「叙勲して欲しいなら天岡のために、少くとも5万円位出すべきだ」

 堤清六、増田次郎、渡辺孝平、兵藤栄作等からの金集めに弄した口実は、或る点まで鴫原の欲する儘の方法に依ったものである。こうして、その間屢々、2人は相携えて柳暗花明の巷に出入りし、遊興を共にしながら、百方金員の調達に腐心したが、金は思うようには集まらなかった。玆で2人は謀議を凝らした。天岡直嘉は鴫原亮暢と相通じ、やがて来るべき11月の御即位の大礼に際し、それ以前に叙勲、表彰の御沙汰がある。これについては賞勲局総裁として叙勲、表彰の手続に関与するのを幸い、恩典に浴した人々から、自己の職務上の労に対する報酬としての賄路収受を共謀し、或は同趣旨の単独収受を決意するに至った。

 天岡は昭和2年8月、北海道へ行ったとき、函館市で、日魯漁業株式会社取締役堤清六と知合ったが、堤に別懇な間柄の鴫原の口添えで、3回に亘り、職務に関係のない援助金合計7000円と、さらに1000円を貰っている。

 越えて昭和3年1、2月頃、鴫原は堤を訪れて、頻りに援助を乞うたが、堤が肯んじないので、鴫原は堤氏に対して、暗に、天岡を援助すれば、その援助によって、叙勲可能の旨を仄めかし、極力援助の承諾を得ることに努力していたが、同年4月東京府知事から堤に対し、行賞の件についての履歴書の提出を求めたので、堤はその頃から、自分も恐らくは叙勲表彰の恩典に浴するにちがいないと推知して、鴫原に対し、天岡総裁の尽力を懇請するに至った。

 鴫原は天岡から正式書類提出前の内示、忠告をうけ、堤に伝えると共に、会社に行き、「叙勲して欲しいなら天岡のために、少くとも5万円位出すべきだ」と告げて賄路を要求、同年9月堤清六に報酬として1万円を贈賄すべき旨を約諾させた上、同年11月3日、同会社で、報酬金の内金(賄路)として金5000円を収受、同月10日堤清六は勲三等に叙された。

援助を諦めかけていた人からの「叙勲表彰に尽力されたい」

 大同電力株式会社取締役増田次郎氏は天岡直嘉の岳父桂太郎の知遇をうけ、その邸に出入していたので、天岡とは、その頃から特に親しい間柄だった。桂太郎の歿後、増田は福沢桃介に起用されて、電気事業に携わるようになったが、たまたま天岡は増田の依頼で、大同電力会社と自分の知人の田中守平との間の紛争や、増田が取締役であった天竜川水力電気会社と、天竜川流域住民との間の紛争を調停したりして、その都度相当の謝礼を受けていた。

 こんな因縁関係から、天岡は昭和2年4月、破産宣告をうけての困窮中にも、鴫原亮暢を派し、財政上の救援を求めること数十回に及んだが、増田は僅かに数百円を与えたに過ぎなかった。これには流石の天岡も、増田からの援助を断念した。

 ところが、昭和3年4月、賞勲局総裁となった天岡が大阪からの帰途、車中で増田とひょっこり出会った。その時、増田は天岡に対して「大同電力の福沢桃介が近く電気事業界から隠退するから、その叙勲表彰に尽力されたい」と懇願した。天岡はすかさずこの機を捉えて、鴫原を使い、福沢の叙勲に尽力すべき旨を暗示して賄路を要求した。

「それでは足らぬ」実業界の惑星・福沢桃介にも勲章を売りつける

 鴫原は数回足を運んだが、増田氏は遽かにはその要求に応じなかった。ところが、福沢挑介氏が隠退し、増田氏がその跡を襲って同社社長に就任した直後の昭和3年6月頃、福沢桃介がその筋の達しにより叙勲、表彰に関する履歴書および功績書を逓信省に提出したので、増田は福沢が叙勲表彰の恩典に浴すべきことを推知し、こんどは自分の方から態々賞勲局に出かけて行って、再度天岡にその叙勲に尽すべきことを請託、天岡はこれを引受けた。

 昭和3年9月29日福沢桃介は勲三等に叙せられ旭日中綬章を賜った。天岡は右叙勲に関し、10月上旬になって始めて増田から謝辞を述べられたので、当然の賄路はあるものと期待していたところ、その後、増田からは何の音沙汰もないので業を煮やし、「福沢氏の叙勲のために尽力したが……」と、鴫原をして執拗に、天岡に対する援助金を求めさせた。ついに増田はその要求を容れ、自分の恩人である福沢桃介の叙勲についての尽力に酬いるためのお礼として、500円だけ提供しようと約束したが、天岡は「それでは足らぬ」と、さらに鴫原を使って賄路増額の要求を出し、ついに貫徹、同月27日付、三菱銀行丸の内支店宛1000円の小切手を収受した。贈賄者側の増田氏はこの事件で不起訴となっている。福沢諭吉の養子であり実業界の惑星福沢桃介翁は昭和13年2月5日71歳で死亡、増田氏も昭和26年1月15日、82歳という高齢で逝った。

「総裁は巨額の負債があり、金がなくて困っているから……」

 鴫原亮暢は函館市に居住中、北海道鉄道株式会社取締役渡辺孝平、同社監査役兵藤栄作らと識った。殊に兵藤とは親交があった。渡辺は自分が北海道における造林事業等で功績があったため、函館市役所から北海道庁に表彰方の上申書類が提出されたことを聞知し、親友の兵藤に告げたところ、兵藤は、鴫原が天岡賞勲局総裁の私的秘書役の如き地位になり、賞勲局に出入していることを知っていたので、昭和3年8月4日、和田倉門内の賞勲局で、鴫原に会い、なるべく早く、御大礼前に藍綬褒章を授与されるよう斡旋されたいと依頼、その指示に従い、渡辺は兵藤と共に鴫原に会い、自分の履歴書や功績調査を手渡した。

 鴫原から右書類の内示を受け、兵藤らの請託を伝えられた天岡は昭和3年10月、褒章を賜るべきものと認めて奏請し、御裁可を得て、翌11月5日藍綬褒章が授与されたが、天岡は謝礼があると聞くや、「総裁は巨額の負債があり、金がなくて困っているから……」と、すでに渡辺の表彰を申請して来た直後の10月16日、鴫原にその意を含めて催促させ、ついで奏請を了った直後の同月23日、手続を終った旨を告げて、同様の要求をしたという御念の入りようだった。

 兵藤は渡辺にその旨を話して自分で1500円を調達し、天岡が褒章綬与に尽力した報酬として、賞勲局で鴫原に手交した。この贈収賄事実も、第一、第二、共に認められて上告棄却、渡辺、兵藤共に原審刑が確定した。

「どうも色々有難う」“勲章を買った”者の末路とは

 天岡は貴族院議員藤田謙一とは特に昵懇の間柄だったが、大正15年7月、財政窮乏を訴えて5000円、さらに同年末と昭和2年末に2000円宛の援助を受けていた。藤田は、自分が弘前市における育英事業に貢献したというので、同県庁から主務省に対し、自分を表彰上申することになったことを聞き知るや、天岡が賞勲局総裁の地位にあるのを幸い、なるべく早く叙勲の恩典に浴しようと欲して、昭和3年4月初旬その旨を懇請、天岡は尽力を約束した。昭和3年12月28日藤田は勲三等に叙された。

 藤田は大いに感激し、従来の援助のほかに、天岡がとった職務上の尽力に対する謝礼の趣旨を含めて、叙勲直後の同月30日早朝、暮の忙わしい中を、麻布本村町の天岡邸に行き玄関で「どうも色々有難う」と厚い礼を述べて、現金5000円を手渡した。藤田も上告棄却、執行猶予ではあるが有罪の判決が確定して位階勲等を褫奪、同時に、貴族院議員を失格した。氏もすでに亡き人である。

 伊勢電鉄取締役熊沢一衛は天岡総裁とは一面識もなかったが、本籍地三重県三重郡河原田村村長が、三重県知事へ、社会事業に功績があるものとして表彰方を上申。ところが、熊沢の知人で賞勲局総裁とは懇親の間柄にある沢田由己弁護士から、表彰方を頼んでやろうといわれた。天岡総裁と沢田弁護士との間にはすでに謝礼の黙契があったらしい。

 昭和3年11月20日、陛下が宇治山田市へ行幸の当日、能沢に藍綬褒章を綬賜され、伝達の手続が完了するや、天岡は丹羽錠二郎なる者から5000円の支払要求があり、督促厳重だったので、熊沢からの賄路をその支払にあてようとして、沢田弁護士に依頼、同弁護士12月7日、「天岡氏が債権者から差抑えられるかも知れぬ」と告げ、謝礼6000円を能沢に懇請して、明治銀行東京支店宛の小切手を受取り、天岡本人へ直接手交した。熊沢は最後審まで争って懲役6ヵ月(3年間執行猶予)で一審懲役2ヵ月(3年間執行猶予、求刑10ヵ月)で一審より重い判決をうけた。

遂に捕まった2週間後、恩人・田中義一が急死

 天岡直嘉は賞勲局総裁になってからの昭和2年10月中、日活社長横田永之介と、ある人の紹介で交際を求められて相識ったが、横田は、自分が教育映画に貢献した故で、京都府知事から主務大臣に、御大礼に際しての表彰上申があったことを聞知し、天岡総裁の尽力によって叙勲の恩典に浴そうと欲し、昭和3年8月頃、麻布本村町の天岡邸を訪ねて、総裁として自己の権限内で尽力しよう、との約束を得たが、昭和3年11月10日勲五等に叙されたので大欣び、同月13、4日頃、京都岡崎法勝寺公園前の自分の別邸で、当時御大礼のため京都に出張、横田別邸に泊っていた天岡総裁に、謝礼として内祝名儀で金1000円を贈った。

 天岡直嘉はどこまでも悲劇的な人物であった。瀆職罪として当時の市ケ谷未決監に起訴収容されたのが昭和4年9月12日、それから僅か17日目の9月29日に、彼を失意のドン底から賞勲局総裁の顕職に就かせて呉れた恩人田中義一が頓死している。

「八方から債鬼が迫り」売勲事件のあまりにも悲惨な後日談

 しかも彼が収容されたその同じ日に、東京府商工銀行から抵当権の執行を申立てられた。その物件というのが桂公の長女、輝子夫人と華燭の典を挙げたとき、岳父から結婚の引出ものとして贈られた平家建木造土蔵付三棟(62坪)と宅地(300坪)であった。これは天岡が在官中の大正13年、貯金魔吉川長之助に担がれて出来た借財の穴埋めに、東京府商工銀行丸の内支社から借りた2万円が支払えず、さらに1万円の利子さえ嵩んで3万円にもなり、その抵当に入っていたものだが、このほかにも在官中振出した手形の債権差押えが数件あり、売勲事件の余りにも悲惨な裏面を物語っている。当時天岡総裁の窮迫は非常なもので、ひとたび獄舎の人となった彼の麻布本村町144の本邸には、八方から債鬼が迫り、検事もその惨めさには同情していた。その“天岡御殿”は同年12月中に競売に付することに決定した。

 然し債権者側の人情味から、彼の保釈を俟ってからの執行にしようと延々になっていたが、さていつ未決を出られるものやら果てしがないというので、昭和5年2月13日正午から東京区裁判所で競売に付された。ところが正午近く江村判事係りでいよいよ競売を開始すると、一向に買手がつかず、やむを得ず一時延期して、改めて競売のやり直しということになった。

 この因縁付きの邸宅は4回の競売にも買手がつかず、同年3月11日第5回目の競売を行った結果、誰も買手が無いので、債権者東京府商工銀行ではついにあきらめ、最低価格2万4300円で自己競落をした。未決収容中に家までも取られた天岡は、163日目に当る昭和5年5月20日、市ケ谷の未決監を出て、麻布竜土町12の仮宅に淋しく帰った。

 彼は引かれて行く日、「人は裏面をみるとみな悪いことのある者なのだから決して裏面のことは考えず表面だけを見て暮せ」と家人に言い残したという。だが、諸疑獄連座の収容者中最後まで残され、酷寒の監房に悶々の日を送った天岡総裁は、小川鉄相と同じように、はじめは頑強であったが、最後には翻然悔悟したものか、罪は罪としてハキハキと自供した。当時は未決で、皮肉にも三・一五、四・一六事件などで検挙された共産党被告の独居房に挟まれた独居房の中で起居していた。

没収された勲章 残ったのは「回収する必要のない」外国勲章のみ

 天岡は昭和4年11月9日付の官報で発表された特旨叙位15名のうち、3名の1人として従三位となった。当時、いかに未決中とはいえ、瀆職容疑で収容中の問題の人物の叙位だというので、時節柄注目されたが、事情を聞くと、彼は官を辞するとき、すでに位を進められることになっていたのが、後日発表の運びになったものだということであった。この問題の定期叙勲が獄中に達せられたとき、流石に彼は終日感泣していたとの事である。

 天岡は昭和9年9月28日、大審院刑事第二部菰淵裁判長から上告棄却の言渡を受け懲役2年(未決拘留100日通算)追徴金1万4250円の原審刑が、確定、これによって獄中に在って昇叙された問題の従三位も、位階令第八条第一項により、その位を失った旨が、同月30日の官報で宮内省宗扶寮から発表された。彼は翌10年10月11日夕刻淋しく下獄した。服役して10日目の同月21日、東京高検を訪れた十蔵寺弁護士の手を通じて、自分が今まで佩用していた勲二等瑞宝章、勲三等旭日中綬章、並に賞勲局総裁当時拝受した大礼記念章等16個の勲章を同検事局執行部に提出したが、イタリースペイン等の外国勲等については別に褫奪の適用がないので返された。

満洲の剣道道場をたたみ「天岡総裁暗殺計画」を画策した男も

 天岡賞勲局総裁の勲章疑獄事件に憤然として、満洲で開いていた剣道の道場をたたみ、天岡総裁を殺害しようと上京した男があった。七生義団員武田事、藤田九万里といい、天岡の動静を窺ったが、彼の収容で計画は一頓挫を来した。ところが昭和5年2月27日保釈出所となったので、藤田は斬奸状を懐ろに短刀をのんでうろうろしているところを中野警察署員に捕ったのである。中村検事から殺人予備罪で起訴されたが、犯行の動機をきくと、同人はシベリア出征の功により勲八等に叙され大喜びであったところ、天岡賞勲局総裁らの勲章疑獄が発生して痛憤やる方なく、ひと思いに天岡を刺殺しようと狙ったものであった。

 豊多摩刑務所で服役中だった天岡直嘉は、昭和11年10月27日、1年振りで仮出所した。五私鉄疑獄事件の小川平吉とは併合審理で、一審以来被告席を同じくして来たが、小川らは一審無罪、二審は逆に有罪となった。上告審では、昭和9年9月28日大審院菰淵裁判長から、小川元鉄相らの五私鉄事件のみに対して事実審理開始の中間判決があり、天岡らの勲章疑獄事件は上告棄却となって、同じ法廷に明暗2つの模様が描き出された。小川らは一審無罪の判決が言渡されたとき以上の喜びようであり、そのざわめきのうちに天岡はいつの間にか法廷から姿を消していた。彼は1人淋しく下獄した。そして一応罪の償いを終って更生の日を迎えた。

(青山 与平/文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件)

天岡直嘉氏 ©文藝春秋