「いだてん」第33話「仁義なき戦い」が放送されました。

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先週「ムッソリーニに譲ってもらおう」という嘉納治五郎の突然の思い付きにより始まった、オリンピック招致のための作戦。岸亡き後IOC委員を引き継いだ副島道正、そして駐イタリア大使であった杉村陽太郎の2名は、昭和10年ムッソリーニと会見することになったのです。

副島は当初、招致に積極的ではなかった?

副島道正とアンリ・ド・バイエ=ラトゥール(1936年)(Wikipediaより)

オリンピック招致に向けて尽力するすべての人の期待を背負ってムッソリーニに会いに行った副島道正ですが、実のところ、「開催権はイタリアに譲ったほうがよい」と考えていたのだそう。

副島道正はケンブリッジ大学卒の伯爵で、貴族院議員として、また実業家として活躍していました。過去には宮内庁で東宮侍従・式部官を務めた経歴もあります。

岸にかわってIOC委員に選出された副島は、前年の昭和9年昭和天皇の弟にあたる高松宮宣仁親王に謁見し、心中を語っていたことが『高松宮日記』に記録されています。

副島は日本にオリンピックを開催するためのスタジアムを建設するだけの予算がないことを見抜いており、すでに準備が進んでいるイタリアに譲ったほうがいいという考えだったようです。また、渡航前の11月の段階で副島の体調は悪く、血圧は200。交渉役の副島自身、万全な体調ではなかったことも心配の種だったことでしょう。

それでも、嘉納治五郎の教え子として、また岸清一の友人として、役に立ちたいという思いがあったのでしょう。

ムッソリーニとの会見でオリンピック招致に尽力

ドラマで描かれたとおり、副島はムッソリーニとの会見直前に急病(肺炎およびインフルエンザ)により倒れてしまいました。インフルエンザというと今でも生死にかかわることもある病気ですし、そのうえ肺炎を併発していたとなると本当に大変な状態であったことがわかります。

病をおしてまでムッソリーニに会おうとしたこと、これがムッソリーニの心に響いたようで(実際は政治的思惑があったと思われますが)イタリアは日本に開催権を譲ると約束します。

ただ、イタリアIOC委員はムッソリーニの意見であっても認めない姿勢であり、その後ひと悶着……。副島は再びムッソリーニに念押しをして、ようやく譲歩されます。

この日本の行動IOC総会で問題になったのは言わずもがな。ドラマのとおり、スポーツの場に政治を持ち出したことが批判され、結局開催国決定は次年に持ち越されることになります。

それでも「イタリア辞退」の流れをつくった副島の功績は大きく、昭和15(1940)年の東京オリンピック招致の立役者であることは間違いありません。

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