古今東西どの国の海軍にも、いわゆる「強運艦」とされる艦艇が見られるものですが、一方で、どうにもツイていない艦艇もまた見られるものです。フィリピン近海の海底で発見された旧海軍の重巡洋艦「最上」は、どうやら後者のようでした。

生まれた時からいろいろツイてない!

太平洋戦争中の日本海軍には、いわゆる「強運艦」と称揚される艦艇が数隻見られました。なかでも駆逐艦「雪風」は、ロケット弾が直撃しても不発に終わるなど、神がかったその強運ぶりで広く知られます。

一方で、どうにもツキに見放されたとしか思えない艦艇も何隻か存在しています。2019年9月9日(月)、アメリカの実業家だった故ポール・アレン氏の調査チームがFacebook上で発見報告した、フィリピン近海1450mの海底に眠る重巡洋艦「最上」は、そこに名を連ねる1隻といえるでしょう。

「最上」は、当時の列強各国海軍の、おもに補助艦艇の保有数を制限した「ロンドン軍縮条約」の規定で軽巡洋艦に分類されるよう、主砲は15.5cm砲を搭載するように設計されました。しかし貧乏だった日本海軍の、武装をギリギリいっぱいまで載せるという悪い癖が出ます。基準排水量8500トンの船体に、前部砲塔レイアウトにはかなり無理が見てとれるような、15.5cm砲三連装砲塔が全5基15門とテンコ盛り。しかも軍縮条約失効後は、すぐに20.3cm連装砲塔に更新して重巡洋艦に変身できる「あざとい」設計でした。なお、海軍の正式艦種類別では、軽巡洋艦のままで最後まで押し通しています。

当時、鋼鈑をつなぎ合わせるのはリベット打ちが主流でしたが、「最上」は軽量化しようと最新技術の電気溶接を採用します。ところが技術力が足りませんでした。完成前公試では船体の外板にシワが寄ったり、亀裂が生じて浸水したり、歪みを生じて砲塔が旋回できなかったりといったありさまで、対策工事が必要になります。

15.5cm三連装砲塔は、のちに戦艦「大和」の副砲になるなど優秀な武装でしたが、重巡洋艦向けの20.3cm連装砲塔よりも重く、それを5基も載せるなど、もともと無理のあるものでした。「最上」の進水日である1934(昭和9)年3月14日の2日前、3月12日には水雷艇「友鶴」が転覆した「友鶴事件」が発生し、緊急調査が行われた結果「最上」も重心が高く復元力不足であることが判明、重心を下げる工事も追加されます。結局、就役時の基準排水量は計画の8500トンから1万1200トンまで増加してしまいました。

外した魚雷の先に陸軍舟艇…ツイてない!

「最上」は1935(昭和10)年7月28日に就役し第四艦隊に配属されますが、やっぱりツイてません。9月26日、艦隊演習中に台風に遭遇して大きな被害を出した、いわゆる「第四艦隊事件」に巻き込まれます。「最上」も台風の強烈な波風により前部構造物がひずんで第二砲塔が動かなくなってしまい、また改修を受けることになります。そんなこんなで繰り返された改修費用は、建造費の50%にもなっていたとか。

ところが乗組員の評価は上々でした。南方作戦を意識してか、通風はよくなり一部には冷房が設置されました。兵員に特に喜ばれたのは、居住区がハンモックから三段式鉄製ベッドになったことでした。

太平洋戦争が始まると、南方方面の上陸作戦支援に参加します。1942(昭和17)年2月28日ジャワ島攻略作戦におけるバタビア沖海戦で、「最上」は敵艦に魚雷を発射しますが、外れた魚雷が陸軍の特殊船「神州丸」と輸送船2隻、病院船、掃海艇の5隻に命中してしまいます。「神州丸」は上陸作戦における重要な揚陸艦で、しかもジャワ島攻略作戦を担う第16軍司令官 今村 均陸軍中将以下、司令部要員が乗っていました。今村中将も海に投げ出され、救助されますが、長距離通信用無線機や暗号書、また今村中将が大切にしていたという重要文化財級の銘刀が海没してしまいます。

陸軍が着底した「神州丸」をサルベージした際に、日本海軍の九三式魚雷(酸素魚雷)と思われる破片を発見し、調査した結果「最上」が発射した魚雷による「戦果」と判明しました。命中率のよくない魚雷が同時に5発も味方に命中してしまうなど、不運としか言いようがありません。海軍は陸軍に謝りましたが、今村中将は快く許したそうです。

あの「陸奥」爆沈事故にも遭遇…ツイてない!

不運は続きます。1942(昭和17)年6月には、ミッドウェー島攻略部隊の支援として出撃しますが、「赤城」「加賀」など正規空母4隻を失って撤退する際、アメリカ潜水艦からの回避行動中に、同じ最上型重巡洋艦の2番艦「三隈」と衝突してしまいます。このあと空襲を受け「三隈」は沈没、「最上」も大破します。

「最上」は佐世保に帰り着き、修理と同時に空母戦力補完のため航空巡洋艦に改装されることになります。後部砲塔が撤去され水上機用甲板が増設され、最大11機の水上機を搭載できるようになりました。

1943(昭和18)年6月8日、「最上」は広島県柱島泊地で、戦艦「陸奥」の謎の爆沈に遭遇します。このとき、敵潜水艦の攻撃と早合点して、あわてて爆雷2発を投射したのも「最上」でした。

1944年(昭和19)年10月のレイテ沖海戦では、3機の水上偵察機を発進させてアメリカ艦隊の偵察情報をもたらしましたが、海戦は日本海軍の負け戦で、「最上」も砲撃戦で大破炎上、そこへ今度は重巡洋艦「那智」がぶつかってきました。駆逐艦「曙」が「最上」の救援に駆け付けますが、さらに空襲を受けるなど被害は拡大し、10月25日、「最上」は「曙」により雷撃処分されます。

色々ツイていない「最上」艦でしたが、レイテ沖海戦で発進した水上機は偵察後、「最上」に帰艦するのではなく、ミンドロ島の陸上基地に向かうよう指示されており、「最上」はこの段階で最期を予感していたのかもしれません。ちなみに“ツイていた”水上機は偵察結果を「最上」に通信筒で投下して任務を果たし、無事ミンドロ島にたどり着いています。

1935年7月の就役直後に撮影された、旧日本海軍の重巡洋艦「最上」。換装前の主砲、15.5cm砲三連装砲が見てとれる。