徳川と豊臣の大戦、大阪の陣戦国時代に終止符を打つ緊張感たっぷりの戦において、とんでもないやらかしをした武将がいました。

その者の名は薄田兼相(すすきだかねすけ)で豊臣陣営の武将でした。

今回は兼相のとんでもエピソードをご紹介します。

 『魁題百撰相:薄田隼人』/Wikipediaより

豊臣家で実力を発揮した兼相

兼相が歴史の表舞台に登場するのは豊臣秀吉の時代で、その前のことははっきりしておりません。秀吉の元では馬廻衆として活躍します。

馬廻衆は武芸に秀でたエリートが任命されるもので、兼相は豊臣家では重宝されていたことがわかります

 豊臣秀吉像/Wikipediaより

また、兼相は体が大きいことが功を奏し、相撲では負けなしでした。2、3人がかかっても負けることのなかった兼相は、いつの間にか「鬼薄田」と呼ばれることになりました。

豪傑でも性欲には勝てず…

秀吉の死後は豊臣秀頼に兼相は仕えます。やがて豊臣家と徳川家の対立は避けられることができなくなり、慶長19年(1614)大阪冬の陣が勃発します。

豊臣軍は来たる徳川軍に向けて大坂城の付近に砦を造ります。その中で最大なものが木津川の辺りに作られた博労淵砦(ばくろうぶちとりで)でした。

最大ともあって博労淵砦は器量のある者が守るべきとの声もあり、抜擢されたのは兼相でした。

徳川軍は博労淵砦に苦戦を強いられたので、夜襲を仕掛けて攻め落とすことにします。銃弾が飛び交う中、徳川軍は木津川を渡河し博労淵砦に辿り着きます。

徳川軍が博労淵砦に攻撃をしている中、肝心の兼相はというと何と遊郭にいました。兼相が遊郭で酒と女に浮かれ不在だったので兵の統制が取れず、博労淵砦は陥落してしまいました(博労淵の戦い)。

このような失態から兼相は「橙武者」と罵られることになります。橙は酸味が強く食べられないため、正月の飾りにしか使えない「見掛け倒し」という意味合いで使われました。

最後に見せた勇姿が漢前すぎる!

汚名を返上する機会をうかがっていた兼相は慶長20年(1615)に起きた大坂夏の陣で活躍します。

この時兼相は後藤又兵衛の援軍として出陣しますが、濃霧によって到着が遅れてしまいます。兼相が戦場だった道明寺に着いたころ、又兵衛は8時間の奮戦の末、討ち死にしていました(道明寺の戦い)。

ここで兼相は潔く散る覚悟を決め、味方が退却している最中30人の手勢で伊達政宗水野勝成に立ち向かいます。

乱戦の中、兼相は馬上で大太刀を振るい討ち死にしました。この奮戦によって兼相の汚名は返上されることになりました。

狒々を討伐した伝承も…

兼相は前半生が不明な点が多いので、前身が岩見重太郎(いわみじゅうたろう)とされています。重太郎は妖怪 狒々を退治したことで知られています。

 『今昔画図続百鬼』より「狒々」/Wikipediaより

この話は重太郎が信州に来た時、風水害と流行り病で苦しむ村を見つけたことから始まります。

その村では娘を生贄にして風水害と流行り病の流行を止めていることに対して、重太郎は疑問に思います。

重太郎は「神は人を救うものだ」と言うと自らが生贄を入れる用の辛櫃(からひつ)に入り、やってきた狒々を討伐していました。

最後に

どんな人でもやってはいけないところでやらかしてしまうと汚名は避けられないのは事実です。特に兼相はやらかしの度合いが全く違いますね。

しかし、ここぞというところで汚名を返上すべく奮戦し討ち死にした姿はどうしてもカッコいいと思ってしまいますね。

参考:長谷川ヨシテル『ポンコツ武将伝』

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