江戸時代、幕府公認の遊郭と言えば、江戸・吉原。この他にも京都・島原、大阪・新町があり、この3つを三大遊郭と呼んだりもします。

無論、男の性欲をこの三つの幕府公認遊郭だけでまかなうことなどできなかったわけで、全国には女郎屋や芸妓屋が集まった非公認の遊郭・花街が無数に存在していました。こういった場所を岡場所(おかばしょ)と呼びます。

『深川の雪』喜多川歌麿

では、岡場所はいったいどんな場所に作られていたのでしょうか?

旅の拠点となる「宿場」には飯盛女

江戸時代には町と町を結ぶ街道が徐々に整備されていきましたが、街道には街道を利用する者たちの拠点となる、宿場が置かれることになります。

宿場には、宿泊施設である旅籠屋の他にも、茶店、居酒屋、さまざまな飲食店が立ち並び繁華街となります。そうした人が集まるところにはやがて女郎屋が登場し、岡場所となります。

歌川広重東海道五十三次」より藤沢宿

宿場で客に春を売る女郎たちの多くは、「飯盛旅籠」と呼ばれる旅籠屋で働くことが多かったのですが、飯盛旅籠とは、表面上はお店の配膳などの仕事をする女性として雇い、幕府には内緒で女郎たちを働かせていた旅籠のこと。

こういった飯盛旅籠で働く女郎を飯盛女と呼びました。実は幕府も飯盛旅籠の存在を知ってはいましたが、飯盛旅籠も一応は宿屋として機能していたため、宿場が正常に機能するためにも必要だったのです。

後に幕府は飯盛旅籠の運営をほぼほぼ認め、飯盛旅籠1軒に付き2人の女郎までならオッケーご…というような規制をもって許可します。その人数規制も歳月が経つにつれ、徐々に緩和されていったそうです。

神社やお寺の門前町には茶屋娘に扮した女郎が

岡場所は宿場の他にも、人気のあるお寺や神社の側に出来ることも多かったそうです。

現代ではパワースポット巡りや御朱印集めなどの人気もあって神社仏閣に参拝に行く人が増えていますが、江戸時代の人々にとって、神社やお寺へ参拝することはとても日常的なことでした。そのため、神社やお寺に参拝に来る人をターゲットにした女郎屋などが徐々に門前町に集まり、岡場所となるのです。

歌川広重「江戸名所 上野東叡山境内」

門前町が岡場所になりやすかった理由のもうひとつには、神社奉行が管轄する”門前町”と、町奉行が管轄する”町人地”の境があいまいな事があり、取り締まりが行き届かない場合があったそうで、その問題によって岡場所が生まれやすかったこともあるそうです。(参考: 色街文化と遊女の歴史)

宿場では、女郎は主に飯盛旅籠で商売をしていましたが、門前町では主に茶屋で商売をしていました。もちろん門前町には普通の水茶屋もありましたが、それとは別に、茶屋娘に扮した女郎が働く「色茶屋」があったのです。

門前町という土地柄、僧侶もそういった色茶屋を利用していたようですが、僧侶の中には男色を好む者も少なくなかったため、男性が相手をする「陰間茶屋」なども存在しました。

ちなみに女犯を犯した僧侶には、こんなキツい刑罰が待っていました。

関連画像