(篠原 信:農業研究者)

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 編集者から電話がかかってきた。

「子育て本の内容とタイトル、『子育ては親の責任が9割』でどうでしょう?」

 私が「親の責任、3割か4割ってとこじゃないですかねえ」と答えると、少し拍子抜けした反応だった。

子育てに他人の力を借りるのは無理?

 しかし、編集者の考えも無理なかった。子育て本と言えば、親の子どもへの関わりに限定した記述ばかりなのだから。まるで、他人は子育てに口を出してはいけないといわんばかり。だから、親の責任が9割、という印象を持っても、不思議ではない。

 けれど、私はやはり、3~4割というところだと思う。もちろん、3~4割と言っても、ピラミッドで言うなら基礎の部分。きわめて重要だ。だが、それでも、残り6、7割は、他人との関わりの中で築いていくものだと私は考えている。

 子育て本(『子どもの地頭とやる気が育つおもしろい方法』朝日新聞出版)の執筆を進め、他人が子育てにどう関わるか、という内容に一章を割こうと提案すると、編集者から「東京などの都会では、子育てで他人の力を借りるなんて無理ですよ。むしろ『他人の力を借りなさい』なんて言ったら、余計なプレッシャーになります。それに、他人が子育て本を読むはずないじゃないですか」という指摘。確かに。結局、子育て本は、親にできることに限定して記述した。

 しかし、子育てには、どうしても他人の力が必要だ。子育て本を上梓してかなり長い間、「他人による子育て」を書けなかったことを悔いていた。どうしても書きたいという思いは、かろうじて「あとがき」にだけ現れているけれども。

 なぜ、子育てに他人の力が必要だと私が確信するのか。それは、私の両親の活動とも関係している。

 私の両親は、恐らく大阪で最初に、赤ちゃんを抱えるお母さんたちの交流の場(母親小屋)を設けた。赤ちゃんを抱えるお母さんたちは、孤独にさいなまれていた。首がすわらないうちは危険なので外出できない。3時間おきの授乳で、極度の睡眠不足。夫は毎晩遅くにしか帰ってこず、相談する時間も持てない。1カ月、誰とも話さずにいたら、声が出なくなったというお母さんも。

 母親小屋は、「赤ちゃん連れで遊びに来ていいですよ」としているだけの空間。お母さんたちにコーヒーやお茶を振舞い、育児の悩みをぶちまける時間を提供するだけ。たったそれだけのことでも、赤ちゃんと24時間「ふたりぼっち」の状態から解放され、大きな気分転換になるようだった。子育てに「他人」が必要な理由のひとつでもある。

「親には知られたくない悩み」もある

 もうひとつ、子ども側の事情から必要な「他人の力」がある。親にだけは言いたくない、知られたくない、ということが、子どもによってはある。

 私は小学校低学年のころ、ある日突然、クラスメートと遊んでもらえなくなった。その状態は数カ月か、1年か、記憶は定かではないが、かなり長期間にわたった。そのことを、決して親に告げることはできなかった。親に初めてそのことを打ち明けたのは、40歳を超えてから。

 休み時間になっても、ドッジボールに入れてもらえない。私は時間をもてあまし、学校のありとあらゆるところをぶらつくしかなかった。そのうち、「本を読む」という体裁のいい時間のつぶし方を発見した私は、図書館で本を読んで時間をつぶすようになった。

 学校から帰っても、遊んでくれる友達はいない。だから、家にある図鑑ばかり眺めて時間をやり過ごしていた。家にこもってばかりの私を親は心配し、「外で遊んでこい!」と家の外に出され、本はすべてダンボールにつめて押入れの奥にしまわれた。

 さてさて、時間をどうしてつぶしたものやら、私は困惑した。何しろ、クラスメートが遊んでくれないのだから、団地の中をうろつくだけではなかなか時間が進まない。夕食の時間まで一人、外をぶらつくのは、なんとも孤独でつらかった。けれど、親には、「友達が遊んでくれない」ことを言えなかった。言いたくなかったし、それを知ってほしくもなかった。

 後に私が高校生になって、親が当時の出来事を話したのがきっかけで、なぜ遊んでもらえなくなったのか、原因がわかった。当時、地域で活発に活動していた宗教団体があり、父はそこの一人と衝突。すると宗教団体全体とケンカすることになった。たまたま、私と同じクラスだったガキ大将的な存在の子が、その宗教団体に所属する家だったらしい。その子が私を排除したというわけだった。

 そういえば、ある日突然いじめが終わったのは、そのガキ大将自ら、「これからは遊ぼう」と声かけしたのがきっかけだった。ちょうどその頃、親と宗教団体は和解したらしい。いじめがなぜ始まったのか、なぜいじめが突然終わったのか、私は長らく謎に思っていたのだが、高校生になって聞いた話で、ようやく氷解した。

 が、そのときになっても私は、親には話さなかった。まだ多感だった思春期に、他人とうまくやれていない時代があったと親に知られることは、苦痛でしかなかったからだ。

 40歳を過ぎてようやく、親にそのことを告げたのは、その宗教団体とのケンカで、私には何の悪影響も与えなかった、と親が勘違いしていることに気がついたからだ。「そんなはずないやん」と、私は愚痴っぽく、その当時に起きたことを話す気になった。けれど、話した後でもなお、気分のよいものではなかった。

「他人の海」に飛び込む勇気

 なぜ私は、親には話したくない、知られたくないと考えたのだろうか。いや、これは私だけではない。私が主宰していた塾で子どもたちを指導する中で、特に男の子の多くは、他の人には話せても、親にだけは話したくない、知られたくない、ということがある、ということを知った。特に知られたくないのは、クラスのみんなとうまくやれていない、ということだった。

 なぜ知られたくないか。子どもはみな、いずれは家を離れ、社会に出て行かなければならないのを知っている。「他人の海」に飛び込まなければならないことを知っている。そのとき、親の力を借りることはできないことも知っている。他人と関係を築き、生きていく力を身につけなければならない。

 けれど、クラスのみんなとうまくやれていないことが親に知られたら。親はもちろん心配するだろう。しかし、こればかりは親には何もできない。子ども自身がどうにかするしかない。そのことを、子ども自身がよく知っている。親にはどうしようもないことを、親に知られても仕方ない。むしろ、親がオロオロして「あなた、大丈夫なの?」なんて声をかけられても、困惑が強まるだけ。どうしたらよいのか分からなくて苦しんでいるのに、あれこれ言われたら、つらいのが倍加するだけ。だから親には知られたくない、言いたくない。

 そんなとき、助けになるのは、「赤の他人」だ。上述したように、社会に出るということは、「他人の海」に飛び込むことだ。たとえクラスの同級生とはうまくやれなくても、近所の大人、少し年上のお兄さんお姉さんなどが「おはよう!」と声をかけてくれたり、話しかけてくれたりしてくれたなら。ああ、自分も、「赤の他人」となんとか関係を作ることができるかも、という希望を抱くことができる。

「他人の海」に飛び込む勇気は、親にも、教育のプロ(学校の教師や塾の先生)にも、なかなか提供できないものだ。なぜなら、親もプロも他人ではないから。親はもちろん他人ではないし、プロは他人のようでいて、利害が絡んでいるから、純粋な他人とは言いがたい。

 特に利害も何もない他人。そうした「赤の他人」が、もし子どもである自分との交流を喜び、元気付けてくれたなら。「ぼくも他人と交流する力がある、どうにか社会に出て行けそうな気がする」という希望を持てるようになるだろう。

「他人の海」に飛び込む勇気を与えられるのは、まさに「赤の他人」だけだ。子どもに、良質な「赤の他人」でいられる大人が増えたなら、それは立派な子育てアシストになる。他人の中でもやっていけるという自信は、赤の他人にしか与えられないものだからだ。

「赤の他人」との接触で子どもは社会を学ぶ

 先日、電車で騒ぐ子どもに声をかけたエピソードをツイッターで紹介したら、リツイート5万件以上、「いいね」12万件以上の反応があり、いわゆる「バズった」状態に。テレビ番組「羽鳥慎一モーニングショー」にも紹介された。その内容を、かいつまんでご紹介しよう。

 電車の中ですっかり楽しくなってしまった子どもは、親がいくら注意してもなかなか静まらない。乗り合わせた大人は、「早く静かにさせろよ!」という不機嫌な視線を送るだけで何もしない。このままでは、短気な人がその親子を怒鳴りつけそうだな、という空気を感じ取った私は、その子どもに直接、「楽しいところごめんな。実はな、電車の中には疲れたおじさんがたくさんおってな、ちょっと眠って休みたいねん。悪いけど、静かにしてくれるかな」と話しかけた。キョトンとする子ども。けれど、ピタッと静かにしてくれた。

 私が電車を降りる間際、その子どもに「ありがとう。よう静かにしてくれたな」と声をかけた。また見知らぬ大人に声をかけられた、と緊張する子ども。けれど、しっかりとうなずいてくれた。お母さんも、私に会釈してくれた。

 電車の中で騒ぎ続ける子ども(ただし泣いている子は別)は、なぜ親の「静かに! 皆さんに迷惑でしょ!」という注意を聞かないのか。電車に乗り合わせている人たちが「背景」になりきっているからだ。背景でしかないものに配慮するということが、子どもには意味がよく分からない。

 そんな子どもに私は、「背景」からヌッと飛び出してきて、「実は人間でした」とばかりに現れ、子どもに直接声をかけたから、子どもはビックリしたのだろう。「あれ! 生きている人間が飛び出してきた!」と。

 一度、こういった経験をした子どもは、お母さんの「静かに! 迷惑かけちゃダメ!」という注意が劇的に効くようになるように思う。「他人」は人間であり、生きており、たまに自分に直接関わってくることがあり、その人にも感情があるということに気がつくからだ。

 他人も生きている。そのことに子どもが気づくには、親からの言葉かけだけでは不足だ。なにしろ、現代日本では、親以外の他人は「背景」になりきり、まったく子どもに関与しようとしないのだから。他人が生きている人間だ、と気づくことができる体験が、決定的に不足している。

 ほとんどの子育て本が、「育児は親の責任」としているため、なんだか、他人が口出しすべきでないかのような「裏のメッセージ」を嗅ぎ取ってしまう。けれど、子育ては、親だけではできない。良心的な「赤の他人」がいて初めて、子育てはうまくいくのではないだろうか。

「子は社会の宝」なら他人の子どもの子育てにも関わるべきではないのか

 ふと考えると、幼稚園や保育園が新設されようとする際、「騒音公害だ」と訴えて、建設に反対する地域住民のニュースが流れている。子どもに厳しい大人ばかり、という印象が強く、「良心的な赤の他人」なんてことを期待する方が無理、という意見もあるかもしれない。

 しかし考えようによっては、「赤の他人」は子育てに関与してはならない、という、暗黙のルールを多くの人が感じ取っていることが、原因となっていないだろうか。幼稚園や保育園の子どもに、赤の他人である私が声をかけたら、不審者と思われないだろうか? そう思うと、怖くて子どもに関わることができない。

 だから、何か不満があれば親や教育関係者に怒鳴り込むしかない。子どもに直接触れ合う機会がないため、子どもに愛着を覚えることがない。「赤の他人」を子育てから拒絶したことで、今の子どもへの厳しい空気が醸成されたのかもしれない。

 子どもは社会の宝、と言葉では言う。ならば、赤の他人でも、子育てに何らかの関わりがあってもよいはずだ。本稿で述べたように、親には提供できない、赤の他人だからこそ提供できる子育てアシストがある。そのことをもう一度見つめなおし、赤の他人でも子育てをどうアシストできるか、子どもにどう関与できるのか、考え直してもよいのではないだろうか。

 もちろん、子どもが犯罪に巻き込まれてはいけない。いろいろ難しい問題があり、単純にはいかない。けれど、「赤の他人」をすべて犯罪者予備軍のように捉えるのは、子育てをいびつなものにするように思う。「赤の他人」が子どもたちにできることはなにか。それをもう一度、議論し始めてもよいのではないだろうか。

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