カナダ出身の人類学者、ウェイド・デービスは1998年、自身の著書「Shadows in the Sun」で、大西洋に消えたあるイヌイットの老人の話を書いた。
それによると、「老人は家族に引き止められるもイグルーから出て、排便した大便に唾をかけながら研いでナイフを作った。完成したナイフで犬を引き裂き、肋骨をソリに仕立て、皮で他の犬をつなぐと、闇の中へ消えていった」という。
この逸話はデービスが老人の孫を名乗る人物から聞いた話で、彼自身も作り話である可能性を認めているが、同時期にデンマークの探検家で文化人類学者のピーター・フロイヘンも、北極で雪に閉ざされたとき、自分の排泄物でチゼル(のみ)を作ったと、同様の逸話を残している。
果たして本当に、人間の大便でナイフが作れるのだろうか?この逸話が大好きなアメリカの人類学者は実際に検証実験を行った。その結果は?
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研究者が体を張って検証開始
デービスが紹介したこのエピソードは、学会のみならず、ポップカルチャーの世界でも広く知れ渡るようになった。
この話に興味がわき、人類学者の道を志すきっかけになったというアメリカ・ケント州立大学のメティン・エレン氏は、最新の調査機器がそろった実験室を構えるようになった今、ついにその噂を検証してみることにした。
まずエレン氏は、牛肉・七面鳥・サーモン・スズキ・ミートボール・ソーセージ・サラミ・卵といった、北極圏でよく食べられる肉と脂肪たっぷりの食材を8日間食べ続けた。
「タンパク質や脂肪酸たっぷりの食材ばかり食べるのは予想以上にキツかったです」とエレン氏は述べる。
一方、同僚のミシェル・ベッバー氏は比較のために、ヨーグルト・レンズ豆・米・チーズバーガー・ベーグル・クリームチーズ・スパゲティといった、一般的な西洋の食材を食べ続けた。
そしてその間、大便が出るたびにそれを集めては凍らせた。
「笑えますよね。こんなすごい研究室があるっていうのに、その週はずっと自宅にいて、エチケット袋を手に大便を集めていたんですから。結構うんざりしました。」
大便ナイフの切れ味のほどは?
集めた大便はセラミック製の型に詰めるか、手作業でナイフの形に整えられ、それからカチコチに凍らせた後、仕上げに研がれた――大便ナイフの完成だ。
さすがに犬を殺すわけにはいかないので、豚の皮と筋肉と腱で試すことにした。豚肉は屠殺直後のような温かいものではなく冷蔵品で、大便ナイフは使用する前にドライアイスでマイナス50度まで冷却された。
さて、切れ味はどうか?
「心からうまく切れますようにって願っていましたよ。」
ところが...
エレン氏らの期待もむなしく、研究室の理想的な環境であっても、型で作ったナイフもお手製のナイフもちっとも切れなかったそうだ。ナイフを当てるとすぐに解けてしまい、大便の茶色い筋がつくだけだった。
皮の下についていた皮下脂肪ならどうにかそぎ落とすことはできたが、それでもナイフはすぐに解けてしまい使えなくなった。
「人間の大便が凍らせるとこんなに硬くなるなんて驚きました。こりゃあ、上手くいくかもしれないぞって思ったんです。だから余計にがっかりしましたよ。」
大便ナイフはまったくの都市伝説だったのか?
大便ナイフがダメなら、フロイヘンが伝えた話もやはり都市伝説に過ぎないのだろうか?
確かにその話も本人が述べているだけで、証拠も何もない。だが、必ずしも作り話とは限らないだろう。
チゼルはイヌイットの生活環境で、肉を切るのではなく、雪を削るために使われていた。まったく同じ条件であれば、きちんとチゼルとして使えた可能性はある。
今回実験には失敗してしまったエレン氏だが、こうした話は、先史時代の先住民たちが排泄物で驚くべき道具を作り出すことができたことと関係しているのではと睨んでいる。
実際、実験は10度程度の室内で行われたものだ。したがって、さらに寒い環境でなら違う結果になった可能性はある。
この検証は現代社会への警鐘を鳴らす意味も
また今回の事例には、もうひとつ別の側面がある。
デービスが伝えたイヌイットの話は、彼が名声のある人物であることもあって、きちんと検証されないまま語り継がれてしまった。
問題は、一度きちんと検証されていない話を使い出すと、滑りやすい坂道のように、さらに別の未検証の話で塗り固められがちになるということです。データがなければ、ある事例を証明するために、人種的な偏見のような、社会にとって有害な話まで持ち出されることがあります。
科学ならこうした都市伝説をきちんと確認できます。フェイクニュースの時代、しっかりしたデータとエビデンスに基づく科学がこれまで以上に必要とされているのです
大便の話から、現代社会に対する思いもかけぬ大切な教訓がひり出されたようだ。
この研究は『Journal of Archaeological Science』に掲載された。
References:arstechnica / written by hiroching / edited by parumo
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