日本史には何人もの英雄・色男が登場し、後世の男性がうらやましがるほど女性にもてた男もいました。しかし、交際した女性の数が具体的に残されているのは、おそらく平安時代歌人・在原業平(ありわらのなりひら)以外にはいないのではないでしょうか。

在原業平wikipediaより)

業平は平城天皇の皇子・阿保親王の五男でしたが、平城天皇は嵯峨天皇に譲位後、政権を取り戻そうと反乱を起こしますが失敗。上皇の関係者は処罰され、平城上皇自身は隠居生活をすることになります。

この事件によって、平城天皇の子孫たちが次期天皇候補から除外され、後続としても微妙な立場に立たされました。当時、皇位継承の可能性がないものは、「臣籍降下」することになっていました。

当時、皇族があまりにも増えすぎて、それが国家財政を逼迫していました。「臣籍降下」は皇族を減らすための苦肉の策だったわけですが、出世コースから外れてしまった業平は臣籍に下ったのです。

業平の人物像については「日本三代実録」という史料に残されていて、それによると容姿端麗で自由奔放、漢学には疎いが和歌に優れていたそうです。

業平が生きていた時代は、女性に和歌を送り、和歌が選ばれた男性だけが女性の家に通うことが許された時代、「和歌がうまい」というのは当時のステータスとして、「女性を口説くのがうまい」というのと同じことを意味していました。

一方で、漢学が得意ということは菅原道真でわかるように、学問一筋の学者タイプ。硬派なイメージです。つまり業平は、良家のボンボンでイケメンタイプ。勉強は得意ではないけれど、女の子を口説くことは超天才的な才能を発揮したということです。

実際、日本最初の歌物語である『伊勢物語』(10世紀前半に成立)の主人公とされ、清和天皇の女御だった藤原高子とも恋仲だったとされています。業平は高子をはじめ生涯に3733人の女性と関係があったといわれています。

ここまでみていくと、在原業平は血筋もよく、何不自由のない暮らしをしながら日々、好みの女性を物色している能天気な男のようなイメージがあります。

ところが…

ところが、素顔の業平は”多情の人”でもあると同時に、”多恨の人”でもあったようです。先述したように業平の祖父は、やらかしてしまった平城天皇。孫でもある業平は出世コースから完全に外されてしまっていました。そんな業平でも25歳になるとようやく従五位に叙せられました。

それでも業平には希望があったようです。ときの皇太子・道康親王の長子・惟喬親王の生母・静が、業平の妻の実家から出ていたため、道康親王が即位して惟喬親王が皇太子になれば、業平の境遇も一気に変わる可能性がありました。

850(嘉祥3)年、仁明天皇が崩御し、道康親王が即位しました。後の文徳天皇です。ところが、文徳天皇が皇太子にしたのは惟喬親王ではなく、同年に誕生したばかりの第四子・惟仁親王(のちの清和天皇)でした。惟仁親王の母親・明子の父親は、時の権力者・藤原の良房で、若い天皇にとっては良房は外舅。良房の権勢の前に不本意な立太子が余儀なく行われたのでした。

とうとう出世のための希望が潰えた業平は以後、その絶望から気を紛らわすかのように和歌と恋愛の道に突き進むことになりますが、それでも栄華を追う夢は捨てきれなかったようです。

伊勢物語』第97段には、業平が良房の栄華がいつまで続くように“おべっか”を使ったと思われる和歌も残されています。業平がその生涯に得た最高位は53歳のときに任ぜられた右近衛中将でした。

在原業平は後に、六歌仙三十六歌仙の一人として選ばれています。彼の生きた時代、その晩年たるや、どんな心持だったのでしょうか。

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