(PanAsiaNews:大塚智彦)

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 インドネシアで30年以上にわたって独裁体制を敷いてきたスハルトが大統領を退任したのが1998年。それ以降、徐々に進展してきたインドネシアの民主主義が、ここにきて後退しかねない事態が相次いでいる。

刑法改正案に国民が猛反発

 インドネシアのジョコ・ウィドド大統領9月20日、記者会見を開き、国会での可決が目前となっていた刑法改正案について、審議・採決を当面見合わせるよう求める異例の要請を議会に対して行ったことを明らかにした。

 というのもこの刑法改正案には、報道の自由を抑制する内容が含まれており、国民の間で猛烈な反発が広がっているのだ。最近は刑法改正に反対する民衆によるデモ隊が、連日、国会前に押し寄せる事態になっている。

 しかも、4月に実施された大統領選・総選挙で選出された新議員による国会が10月1日に招集される。そのような状況もあり、「(現国会の)任期満了直前に反対論が強い法案を拙速に採決する必要性はない」という政治的判断が、ジョコ大統領側に働いたのだと見られている。

 刑法改正案の中で国民が問題視している点は主に、①正副大統領、政府、裁判所、公的機関などへの侮辱、虚偽報道、不確実な情報の流布、死者の名誉棄損、宗教への侮辱といった「報道や言論の自由」に対する罰則強化、②配偶者以外との性的関係の禁止、未婚カップルの同居、人工妊娠中絶手術の禁止など「基本的人権」に関する規制強化、③企業犯罪取り締まりの強化、だ。

 このうち「報道・言論の自由」を脅かすとされる条項に関しては、「インドネシア独立ジャーナリスト連盟(AJI)」が「報道に携わる者を犯罪者に陥れる可能性があり、報道の自由を損なうものである」として反対を表明。

 雑誌「テンポ」が9月16日号の表紙に、嘘をつくと鼻が長く伸びるというピノキオになぞらえたジョコ・ウィドド大統領のイラストを掲載したが、刑法が改正されると、こうした表現も「大統領に対する侮辱」の対象となる可能性もあるという。

 さらに「婚外者との性的関係」や「婚外カップルの同居」についてはLGBT(性的少数者)の人権や個人のプライバシーを著しく侵す可能性があるとして、人権保護団体やLGBT団体が採決に反対している。

 また「婚外者との性的関係」や「婚外カップルの同居」に関しては、外国人観光客にも適用される可能性があるという。そのため「個人のプライバシーを侵害するものである」との法律学者の指摘や「海外からインドネシアを訪れる未婚カップルの観光客などの減少につながるかもしれない」という観光面への影響を懸念する声も出ている。

100年前の植民地時代の現刑法

 実は現在施行の刑法は、今から約100年前、オランダ植民地時代の1918年に導入された「旧法」だ。そのことからヤソナ・ラオリ法務・人権相は、「現代の社会にマッチした刑法に改正するのが目的である」と改正の正当性を強調している。

 さらにヤソナ大臣は、「全ての条文に議員の全員が賛成している訳ではない」と慎重論があることを認めつつも、「全員の承認を得ようとすればいつまでも改正はできない。多数の賛成で採決することに問題はない」として、あくまで改正法は議会多数の賛成に基づいて可決成立されるとの立場を繰り返し強調している。

 刑法改正法案は9月18日に議会の法務委員会では可決されており、24日の本会議で可決成立する予定となっている。ジョコ大統領はそこに「待った」をかけたわけだ。もしそこで成立した場合は、準備期間を経て2021年から施行されることになる。

 こうした国会の動きに対し、民衆の抗議運動もさらに活発化している。言論の自由LGBTの基本的人権などを訴える団体メンバーや学生組織は、国会正門前や日曜日に歩行者天国となるジャカルタの目抜き通りスディルマン通りなどで抗議の集会やデモ、パフォーマンスなどを繰り広げて国民世論に反対を訴え続けている。デモの影響で国会周辺の交通は連日マヒ状態に陥っているほどだ。

大統領、国会に「採決延期」を要請

 前述のようにジョコ大統領は、議会での採決日が目前に迫った20日、ジャカルタ南郊ボゴールにある大統領宮殿で記者会見を開き、このように語った。

「議会での刑法改正案の審議の成り行きを注意深く見ている。法案の一部についてあらゆる方面から反対の声が上がっていることも知っている。その上でいくつかの条文に関してはさらなる検討、議論が必要であると思うに至り、大統領として法務・人権相に対して現議会で採決することを延期するよう議会に対して求めるよう指示した」

 そう言って、実質的な採決延期要請を行ったことを明らかにした。

 さらに大統領は「議会も私と同じ思いであることを信じており、刑法改正案に関しては次の国会で審議を深めることとしてほしい」と述べた。

 大統領の異例の要請に従うのであれば、24日に予定される採決は見送られ、4月の総選挙で当選した議員による10月1日からの新議会で審議が継続されることになる。だが、そう簡単に事は進みそうにない。

 この大統領会見を受け、同じ20日、改正推進派はすぐさま反対の論陣を張った。政府の刑法改正素案作成委員会のディポネゴロ大学元法学教授のムラディ座長が法務・人権省で会見し、「刑法改正は30年間検討されてきたことである。この改正は修正とかではなく植民地時代の影響を完全に排する新法というべきものである」と改正法案の必要性を力説したのだ。大統領の可決見送り要請についても、「先に延ばすのはいいが、もしそれで可決成立しないとなると、インドネシアは依然としてオランダ植民地であることになる」「独立から74年を迎えた独立国として今こそ独自の刑法を持つべきである」などと述べて、大統領の見送り要求を牽制するような発言を繰り返した。

 議会の各政党の反応はどうか。21日までに与党のイスラム政党「開発統一党(PPP)」と「ナスデム党」が大統領の延期要請に賛成する意向を示した。しかし野党の「福祉正義党」は「まだ議論の時間はある。その間に議論を尽くして予定通りの採択をするべきだ」として大統領の要請を拒否する姿勢を示している。

 国会のファフリ・ハムザ副議長(福祉正義党)も21日、「大統領は過去40年間、刑法改正を検討してきた人々の声にも耳を傾けるべきであり、採決は予定通りに行われるべきだ」との立場を明らかにしている。

 大統領からの異例の要請、それに対する各党の異なるスタンス、そして国民の中の反対論の高まり――。24日の採決予定日を直前にして国会が紛糾するのは必至の状況だ。今国会での改正案がどう扱われるのか、予断を許さない状況となっている。

汚職捜査機関の弱体化法案も可決

 インドネシアの民主主義を後退させかねない動きは他にもある。

 インドネシア国会は9月17日大統領直轄の独立機関である「汚職撲滅委員会(KPK)」の実質的な権限弱体化を含む「KPK法改正案」を可決、成立させたのだ。

 1998年に崩壊したスハルト長期独裁政権の「負の遺産」とされる「汚職・腐敗・親族主義(KKN)」の根絶がインドネシア民主化の大きな指標とされ、2003年の発足以来KPKは現職の閣僚、国会議員、高級官僚、国立銀行頭取、政党党首、大使、司法関係者、地方議会議員などの汚職容疑者を数多く摘発してきた。

 KPKには独自の捜査権、逮捕権に加えて公訴権も与えられており、依然として汚職の風潮が完全に払拭できないインドネシアでは旧弊を引きずっているとされる警察や検察、裁判所などとは確実に一線を画したKPKは「最強の捜査機関」といわれ、汚職とは無縁の一般国民から絶大な信頼と支持を集めている。

 ところが同僚議員や国会議長らが次々と汚職容疑者になることに「危機感」を抱いたためか、KPKを独立機関ではなく、政府の一機関として監視委員会の下に置くことや情報収拾にための盗聴など通信傍受を行う場合の関係機関からの承認義務付け、さらに公訴に際して最高検との協議義務付けなど、その独立性を実質弱体化する法案が成立してしまった。

 KPK改正法についても人権団体や各種団体などから激しい反対運動が起きたものの、国会は実質2日の審議で可決成立させるという「暴挙」(インドネシアの多くのマスコミによる表現)に出るなど、9月末に迫る現議員の任期満了を前に各種法案の「駆け込み採決」が続いている。

インドネシアの民主主義はどこに向かおうとしているのか

 ジョコ大統領は、KPK改正法について与えられている大統領の法案拒否権は行使せずに「法案の一部修正」を求めただけで、ほぼ原案通りの可決となってしまった。

 こうした現政権、現議会の任期切れ間際に相次いでインドネシアの「民主化への逆行」を象徴するような政治の動きに対し、主要紙「ジャカルタ・ポスト」は21日、オーストラリア国立大学の政治学者らの分析を引用しながら「インドネシアの民主主義は過去20年で最低水準に低下」という見出しの記事を掲載した。

「刑法改正」「KPK法改正」など、このところの目まぐるしい政治の動きはまさに今、インドネシアの民主主義が危機に直面していることを表し、学生らによる国会前などでの「反政府、反議会」運動はそうした危機感が国民の間に広がっていることを反映したものといえるだろう。スハルト元大統領の長期独裁体制により、インドネシアには不正や汚職が蔓延った。その反省から民主化が推し進められてきたはずだ。それがこの「逆行」だ。

 どこへ行こうとしているのか、インドネシアの民主主義よ。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  インドネシア、汚職捜査機関が「骨抜き」の危機に

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