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嶋津輝の小説は、この息が詰まる世の中の、数少ない救いなのだ。
「オール讀物」2018年10月号に掲載された「一等賞」という作品を読んだとき、そんなことを思った。初の単行本となる『スナック墓場』にも収録されている短篇である。

みんながみんな不完全だから誰も捨てられない
「一等賞」の舞台は、東京のどこかにあると思われる商店街だ。主人公のユキは生まれたときからその近くに住んでいて、母親に言われてしょっちゅう買い物に来ていたし、今はそば屋でアルバイト中だ。ユキの家の並びにあるアパートにアラオさんという中年男が住んでいる。アラオさんは若いときに酒で体を壊してしまった人だ。今は酒を止めているのだが、ときどき発作が出る。そうすると幻覚を見てしまうらしく、アパートを飛び出して商店街に現れるのである。
しかし商店街の人々は決してアラオを邪険にはしない。発作を起こしていないときのアラオは「肉屋や豆腐屋で、一緒に住むお姉さんの分も含めた御菜を買って帰る」おとなしい人だし、そのお姉さんは「駅の向こうの信用金庫の窓口に若いころからずーっと座っていて、にこにこと感じの好いひと」なのである。
混乱したアラオは商店街の北側入り口から現れて、南側の端まで行き、戻ってくる。その間にひとびとが話しかけてやることで次第に困惑の度合いが目減りするのだ。一致団結した店主たちの連携プレーが、アラオを守って家に連れ戻す。

──「今日も、無事帰りました」
大きな声でそう告げると、肉屋のおばさんたこ焼き屋の親父らが、いっせいに頷いた。
「よかったよかった」
「今日は素直だった」
「すんなり進んだね」
みな、安堵の声をあげる。店に戻っていく酒屋のおじさんの背中が見える。

心温まる人情劇、と言ってしまうとごくありきたりの小説に聞こえるだろう。だが、「一等賞」は、昔はこんな人情が溢れた商店街がありまして、という懐古調からは程遠い。現代は完璧さが求められる時代だ。自助努力が貴ばれる反面、弱さや能力の欠如といった自分の責任ではどうしようもないことまで批判の対象にされる。そんな中で、いや、そもそも完璧であることのほうが難しいのだし、そうじゃない人間がたくさんいる世の中じゃないですか、と控え目ながらも反論を試みているのが嶋津輝という作家なのだと私は思う。その表明の仕方も大袈裟に異議を申し立てるという感じではなく、そうっとしているのが穏やかで好ましい。他の場所では知らないけど、私たちのところではこうしてますから、とアラオさんをこっそり守ってやっている商店街のひとびとは、みんな作者の分身なのだ。

読者の生活を楽しくさせてくれる文章がいっぱい詰まっている
表題作の「スナック墓場」は、今はもうないスナック波止場という店で働いていた三人、雇われの立場だった美園ママとハラちゃん、視点人物の克子の三人が店の同窓会として集まって、みんなで競馬に行く、という話である。なぜ波止場が墓場になってしまったのかというのがこの小説の肝なので、あえて書かない。色気で売るような店ではなくて、常連同士が恋の鞘当てをして雰囲気が悪くなるようなことなど決してなかったスナック波止場である。こう言ってはなんだが、三人ともそういう雰囲気からは程遠く、常連の電気屋からは「用心棒」とあだ名をつけられていた克子である。何も突出したところはないが居心地のよさこそが店の美点であった、ということが三人を巡るエピソードで語られていく。すべすべとした手触りのようなものを読者に感じさせる短篇で、いろいろ仕掛けはあるけど、最後に印象に残るのは女三人の吹っ切れたような表情である。

そうだ、清潔感だ。嶋津輝の描く人物たちはみな、どんな暮らしをしていても襟垢のない服を着ているようなこざっぱりした印象を与える。中には癖のある人物も出てくるが、ねっちりとしたところがない。彼らを描くときに嶋津は茶目っ気のある表情をさせることを忘れない。そのひとびとがぽしょぽしょと話しているところを読むだけで楽しいのである。
『スナック墓場』には「一等賞」と同じような商店街のひとびとが出てくる話が多数収められている。第一回林芙美子文学賞の最終候補に残った「カシさん」はクリーニング屋店主夫妻の話で、カシさんというのは衣服一式を持ってくる女性客の名前だ。下着まで持ち込まれるので、それはやっていないんです、と店主の男は狼狽する。「米屋の母娘」は、怪我をした母親の見舞いに来た男が、米屋が売っている安い弁当を買うというお話だ。男には少々Mっ気があって、女性からそっけなく扱われるのが好きなのである。その米屋で店番をしている娘が木で鼻を括ったような態度で、男はどきどきする。
どれもこれも大きな事件が起きるわけではなく、こうした店頭の情景がただ綴られるだけである。しかしその筆致がふくよかなので、読まされてしまう。物語の筋を追うことに汲々とせず、文章を味わわせる作家なのである。ところどころに置き色のように目を引く描写があって、はっとさせられるのがいい。

そういえば、冒頭で紹介した「一等賞」には、子供のころのユキが「貧しくも健気な人間ごっこ」に熱中する、というくだりがあった。熱中するあまり、「買って帰らないと父親に殴られる可哀相な子」の演技にはまってしまい、酒屋が黙って安く売ってくれるようになったりするのである。佐々木愛の「ひどい句点」と同時にオール讀物新人賞を獲った「姉といもうと」の主人公である里香にもそういうところがあり、幸田文の『流れる』を読んで自分と同じ読みの主人公・梨花に感情移入し、女中として働こうとするのである。こういうキャラクターのおかしさも、嶋津は武器にしている。

「姉といもうと」も非常に心地よく、読者に穏やかな喜びをくれる小説だ。里香は妹の多美子と二人暮らしだ。とある事情があって多美子は手指の多くが欠落しているのだが、それを不利と感じさせないように日常生活を送っている。家事も、最初は里香がずっとやっていたのだが、あるときから多美子が自分でやると言い出して、そうしている。表層的なことはあくまで見かけにすぎなくて、本質は全然違うのだと作者は読者に告げる。「これほど指の少ない女の子も滅多にいないが、二十代でありながらこれほど泰然とした女性というのも、同じくらいまれなのだと」里香は多美子のことを思っている。
里香と多美子がこれからのことを楽しく話し合いながら終わっていく、この小説の結びは本当に美しい。不意の事情で夜っぴて仕事をすることになった二人だが、やがて朝が来て二人の長い夜は終わる。作者はこんな文章を最後に置いた。
──今日は始まったばかりだけど、これから二人で眠るのだなあと、里香はぼうっとした頭で思った。
(杉江松恋 タイトルデザイン/まつもとりえこ)

※『スナック墓場』のような優れた短篇をもっと読みたい人のために、おまけ動画を準備しました。よかったらこちらもご覧ください。

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