前回出稿したロンドンブーツ1号2号、田村淳大学院「入院」の議論に、予想を超えてポジティブなご意見を多くいただき、感謝しています。

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 慶應義塾関係者も目を通してくださり、ご意見もいただきました。改めてお礼を申し上げます。

 具体的なケースに即してお話しましたが、この問題は決して慶應義塾に限ったことなどではありません。

 日本の多くの高等教育機関、例えば私が所属する東京大学などにも当てはまる共通の根が様々に存在しており、前稿ではそのほとんどを略さざるを得ませんでした。

 そこで、より教育の本質に遡り、島国日本が抱える高等教育の本質的な病と、その克服に向けてのレシピという観点から、考えてみたいと思います。

少子高齢化で崩壊しつつある高等教育

 今まで、様々な場所で言及してきたことですが、議論の出発点ですので、改めて「学習指導要領(http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/1384661.htm)」から話を始めたいと思います。

 日本の初等教育、中等教育は「学習指導要領」によって教育課程の基準が定められています。

 具体的に初等教育とは、小学校の6年間を指す言葉で、また、中等教育は2つに分けられ、前期中等教育とは中学3年間、後期中等教育とは高校3年間を指します。

 近年は中高一貫の6年制教育を「中等教育学校」が増えてもきています。こう考えると分かりやすいですね。

初等教育 = 小学校 6年
中等教育 = 中等学校 6年

 これに対して「高等教育」とはざっくり言って「短期大学」「高等専門学校」「大学」そして「大学院」で実施されるものと考えてよい。

 この「高等教育」つまり「ざっくり言って大学以上」の教育には、学習指導要領はないわけです。

 「これとこれは絶対に教えなければならない」といった規範、基準が存在しない。

 同じ大学卒といっても、法学部を出た人と医学部医学科を出た人の受ける教育の共通部分は、ある種の語学とか教養科目を超えてはほとんど存在していない。

 やや大鉈を振るうなら「基準がない」わけです。

 その大学学部卒という「基準のないキャリア」に代替するものとして、25年に及ぶプロ野球選手生活など、特殊な経験と蓄積を評価することも、組織の長ないし教授会が承認すれば可能ということになる。

 そういう流れの議論でした。

 つまり国の定める学力の基準は「高等学校」までの「教育指導要領」までしか存在していない。ここに注目する必要があります。

 なぜと言って、この水準が「大学入試」を決定しているのですから。

大学入試の「理科」は原則
中学の数学で解ける

 やや余談ですが、私の書く文章は毎年あちこちの大学入試で出題され、一昨年は早稲田文学部まで出題してくださったおかげで(?)このコラムも中学高校生の読者があることを私なりに認識しており、話題の選定など気を遣うようにしています。

 その意味で、大学受験を控えた高校生などの読者に役に立つ、また親御さんを含めて知ってほしいと思う情報も少し記したいと思います。

 大学受験は「学習指導要領」のシバリ、とくに「教科の縦割り」でがんじがらめになっています。

 例えば、数学の試験問題を開いたら、そこに「英語」で問題が印刷されていた・・・などということはあり得ません。

 英語の問題を開いたとき、そこに数学の知識が必要とされる問題も、まずもって出されることはない。

 原則、出題してはいけない、出題できないのです。

 この事実をよく知ってほしいと思うのはサイエンス、例えば大学入試の物理や化学の入試で、これらの入試に計算問題が出題されますが、そこで用いられる中に、高等学校の範囲の数学は、ほぼ使われることがありません。

 教科の縦割りが徹底しているからです。

 ということは・・・高校物理の内容は、ほぼすべて中学までの数学・算数で記述され、出題されているんですね。

 実際には力学など、微分方程式そのものですから、さっさと積分して解いたらよさげなものですが、そうはさせない。

 あれこれ「公式」をたくさん作って見せたりして、実に人工的で迂遠なことになっている。

 大学入試というのは、すべて、高等学校の指導要領に準拠して出題せねばなりませんから、理科に関しては、実際には中学レベルの計算しかさせない問題が出題されている。

 この事実に注目してほしいと思うのは、「ロンブー淳の大学受験」をきちんと考えたいからにほかなりません。

 彼が受験した青山学院の学部がどことどこなのか正確には知りませんが、その入試問題は基本、すべて「高等学校の学習範囲」から出題されています。

 文系を受けていれば、あまり計算は関係しないかもしれませんが、仮に理科であっても、出てくるのは小中学校の四則演算、三角関数も微分も積分も使われていません。

 これは、サイエンスとしてはそうとう「異常」なことで、特殊な島国の事情、文科省が決めた学習指導要領のシバリであると、正しく認識する必要があります。

 ロンブー淳が青学入試でクリアすべきだったのは、高等学校3年間で習う当該科目の実力テストですから、3~4か月の付け焼刃で挑戦しても、クリアするのは難しかったと思います。

 でももし、中学・高校レベルの算数・数学をクリアしていれば、理系の理科の問題も、計算という観点からは、何も恐れることはない。ちゃかちゃか計算すれば正解となります。

 それをクリアして、大学に合格すると、その先には「学力の品質保証」がなくなってしまう。ここに、日本の高等教育の抱える本質的な病があるわけです。

大学以降学力が伸びにくい日本の教育制度

 読者の中で、大学生生活を送られた皆さんには、ちょっと思い出していただきたいのですが、例えば大学学部の4年間で、「これは勉強したなぁ・・・」という思い出がどれくらいありますか?

 日本の大学は、一度合格してしまうと、社会勉強と称してのアルバイトサークル活動などが生活に重きをなし、2年も後期となれば就職活動で浮足立ち始め、単位は「リポート」で取れてしまうものも多く、地味な「学力」を伸ばすチャンスが著しく少なくなっている。

 これは否みがたい事実と思います。

 自分自身の経験で考えると、私の学んだ大学は入学時点では専門が決まっておらず、進学振り分けというシステムがありました。

 私が志望していた学科は、全体の平均点で9割程度取らないと進学できないので、定期試験の前には、当時は学内にあった寮の部屋と教室を往復するだけの生活で、無茶苦茶に勉強した時期もありました。

 しかし、その選抜に通ると、すでに仕事が動き始めていた音楽の実務で全く勉強しなくなり、2年後期から3年の1年間は、およそひどい落第生も演じたことがあります。

 そのままだと大学院に進むことができませんので、4年生の特に夏休みなどはまたしてもがり勉の生活を送り、大学受験の頃と同様、数学の演習問題を短時間で解けるようウオーミングアップしておきました。

 また、勝手知ったるメソッドで「実力」を上げるよう努力しました(大学生時代は、中学高校生に受験指導を家庭教師で教えていましたので、何をすれば合格答案を作成できるかは客観的に認識していました。後は努力するか、しないか、それだけの違いです)。

 その後の人生でも、怠けていたり、あるいは自分の勉強に時間や労力を使えない時期、例えば親の介護とかには停滞しましたし、必要があるときは一心不乱に勉強して・・・という断続で今に至っています。

 概して日本人学生の「学力」のピークは、18歳近傍にある、つまり高校から「一生を決める」大学受験のあたりで、最も能力が高く、その後は、ゆるやかな下降の一途を辿る傾向がみられる・・・。

 俗説かもしれませんが、一般的には妥当なケースの多い生活訓になっていると思います。

 多くの30代以上の社会人や主婦の方に、高校3年や大学受験の、例えば英語の問題を解いてもらうと、往生されることが少なくないでしょう(そういう評価を以前行って、本当に被験者さんたちに難儀された経験があります)。

 日本の大学は「入口管理」はあっても「出口管理」がありません。

 だから、東大に入ったけれど、途中で続かなくなって辞めたという人を「東大中退」などと書く。

 前回も指摘したことですが、こんなマンガみたいな話が成立するのは「出口管理」のない日本社会だけの話であると、正しく認識する必要があります。

 具体的に示すなら、例えばスティーヴジョブズという人物がいました。正直私はあまり感心しない人物ですが、彼を紹介する英文のウィキペディアWikipediahttps://en.wikipedia.org/wiki/Steve_Jobs)を見ても、アウトラインの中に「学歴」などは書いてありません。

 本文を追っていくと 1972年に「Reed College」に進学したもののdropping outと書いてありますが、それは履歴書に書けるような経歴ではなく、本人も生涯、大学は卒業していないという認識でした。

 いちど合格さえすれば、後は学費さえ払っていればほぼ自動的に卒業できる=実質的に学力が伸びる場と日本社会が認識していないのが、島国における「大学」の本当の実力であること、厳しい現実ですが、これを直視しなければならないと思います。

 日本の大学院入試で、「少なくとも大学学部は卒業してきてね」というとき、それは大学学部卒業の学力を前提とするのではなく、中学高校程度のテストで達成度6割程度はクリアしててほしいんだけど・・・というような低空飛行になっている場合も、決してないわけではない。

 ロンブー淳の「青学入試」や「慶應大学院入院」で問われるべきなのも、日本社会の現実として、大学学部レベルの実力ではなく、高等学校までの学習指導要領で測って6割程度の達成度を求めるというものです。

 とりわけ大学院の場合は、その先で「研究成果」を出さねばなりませんから、基本的な知的足腰が求められるというものだと思います。

 早稲田大学で修士を取った桑田真澄投手の場合も、高校までの学力をきちんと努力して身に着けたうえで、自身の投球やチームの戦力分析など、プロとして全力で取り組んできた25年があれば、今日のぬるい大学生活4年分など比較にならない、厳しい目と判断力が備わっていて当然、ということになるでしょう。

 国際社会の一線では日本人の学力についていくつか定評があります。

 例えば、中学から6年間学んでいるはずなのに、なぜか誰も話せないし書けない聞けない不思議な日本人英語とか・・・。

 キャリアとしての日本の学歴はとても通用するものになっていません。

 英国のオックスフォードやケンブリッジ、米国のハーバードやMIT(マサチューセッツ工科大学)のように強力なOBOGのネットワークが全世界に張り巡らされているわけでもない。

 あくまで、島国の中だけ、「ローカルな何かに、ちょっと役立つ場合があるかな?」という程度のものに、著しく縮小してしまっている。

 問題を直視すると、やや厳しい実情を見出さないわけにはいきませんが、そういう現実の中で今私たちの日本は、ゆっくりと各種の地盤沈下を続けています。

 例えば、コンスタントに進み続ける少子高齢化、高度成長期以来の老朽化したインフラストラクチャーに気候変動で大型化した台風が襲いかかれば、現在も続く千葉大停電のような複合災害も発生します。

 また、子供たちの学力低下も、大学院の研究能力の低下も、様々な統計が差し示しているかと思います。

 それがポストトゥルース時代のグローバル標準だ、などと開き直られてしまうと、昭和の高度成長期に生まれそだった前世紀の遺物としては、すみませんでしたとしか言いようがありません。

 前稿にも記した通り、大学院は「研究」するところです。ロンブー淳の特別な進学に関しても、固有の経験を生かした、価値ある研究のアウトプットを出してもらいたいと思います。

 逆に、芸能人がテレビ番組の企画で大学受験し、その先での行動として取り沙汰されるようなことは、誤解も招きかねませんし、慎重な見解とならざるを得ません。

 原点に戻った質実剛健の努力、まかり間違っても人気取りのようなおかしな勘違いには、流れてくれるなよと思うのも、率直なところと言わざるを得ません。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  ロンブー淳の大学院「入院」は「入学」ではない

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