(佐藤 けんいち:著述家・経営コンサルタント、ケン・マネジメント代表)

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 前回のコラム「悲壮な肉弾戦で惨敗、『ノモンハン事件』の教訓とは」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/57544では、いまから80年前の「ノモンハン事件」(1939年)を取り上げた。満洲国(当時)とモンゴル人民共和国(当時)の国境紛争が、それぞれその背後にいた日本とソ連の本格的な全面戦争に発展し、実質的に日本の敗北に終わった「戦争」のことである。2019年の現在でも、この失敗から得ることのできる教訓はきわめて多い。

 とはいえ、負けた戦争ばかり取り上げていると、正直いって気が滅入ってくるだろう。戦争には勝ち負けはつきものだが、負けたからといってすべてが終わってしまうわけではない。逆に、たとえ勝っても慢心して負けにつながることも多い。戦争に限らず、ビジネスや人生においても同様だろう。もちろん、戦争に勝った場合も、成功要因を的確に分析した上で、「勝って兜の緒を締めよ」と肝に銘じるのは当然だ。

 ノモンハン事件で無謀な作戦を実質的に主導したのは、関東軍参謀(当時は陸軍少佐)の辻政信(1902~1968年)であった。現在でもネガティブなイメージがつきまとっているが、参謀として立案し指導した作戦が、すべて悲惨な結果に終わっているわけではない。日本側が圧勝した作戦もある。「作戦の神様」というニックネームが生まれたのはそのためだ。

 あまり言及されることがないのが不思議だが、1941年12月8日、「真珠湾攻撃」とほぼ同時に開始され、太平洋戦争の緒戦で大英帝国と戦ったマレー攻略作戦」と、その直後の「シンガポール攻略作戦」では、文字通り圧勝しているのである。マレー半島への上陸開始からわずか70日間で当時世界最強で難攻不落といわれた「シンガポール要塞」を陥落させたこの作戦は、パーフェクトゲームといってよいほどだ。

 今回は、「マレー作戦」(マレー攻略作戦とシンガポール攻略作戦の両方を含む。以下同様)と圧勝をもたらした作戦の策定にあたった陸軍参謀の辻政信について取り上げ、歴史的事象の評価と、それにかかわった人物の評価の難しさについて考えてみたい。

英国がシンガポールに要塞を建設した理由

真珠湾攻撃」は、海軍航空隊による米国ハワイの真珠湾の奇襲攻撃である。作戦開始の暗号文「ニイタカヤマノボレ1208」と、「ワレ奇襲ニ成功セリ」の返電「トラ!トラ!トラ!」でよく知られている。

 ところが、ほぼ同時(正確にいうと真珠湾攻撃開始より若干早い)に開始された「マレー作戦」は、大英帝国との戦争であった。真珠湾攻撃と違って、あまり言及されることがないのは、米国との戦争のイメージが濃厚な「太平洋戦争」という名称が災いしているためであろう。「太平洋戦争」からは、英国と全面戦争したというイメージが湧きにくい。日本が戦った戦争をより正確に言い表しているのは「大東亜戦争」のほうである。

 真珠湾攻撃とおなじく、マレー作戦もまた奇襲から戦争が開始された。戦争開始後になったが、「開戦の詔勅」による「宣戦布告」は米英2カ国に対して行われている。そのときから日本国内では、「鬼畜米英」というスローガンが叫ばれるようになった。

 そもそもなぜ日本は、太平洋で米国と戦っただけでなく、東南アジア(当時は「南洋」といっていた)で英国と戦争するに至ったのか。その背景について簡単に見ておこう。

日露戦争」(1904~1905年)で辛くも勝利できたのは、ユーラシア大陸を挟んで反対側にある英国との同盟が大きな意味をもっていたからだ。ところが、講和交渉の仲介を買って出た米国は、戦後の満洲における利権をめぐって日米間でコンフリクトが生じたこともあり、日本を「仮想敵国」と見なすようになる。帝国海軍もまた、太平洋の覇権をめぐって米国を「仮想敵国」とみなすようになった。

 遠くない将来に日米戦争となった場合、日本と同盟関係にある英国との戦争を回避するため、米国は「日英同盟」に横やりを入れてきた。その結果、「ワシントン海軍軍縮条約」(1922年)の成立とともに、「日英同盟」が破棄されてしまう。これ以降、日本と英国の関係は微妙なものとなっていった。

 英国は、将来的な日本からの攻撃に備えるため、大英帝国にとってアジア地域における戦略的要衝であったシンガポール島に、1923年から10年計画で要塞の建築を開始した。シンガポールは、西に英領インド(当時)、南に英連邦オーストラリアニュージーランド、東に蘭領東インド(現在のインドネシア)、北に仏領インドシナ(現在のベトナムなど)に囲まれており、インド洋と太平洋の結節点として、大英帝国の領土だけでなく、アジアにおける西欧列強の植民地支配の中心に位置して、にらみをきかせていた(下の地図)。

 海からの攻撃に備えて万全の守りを固めていたシンガポール要塞は、当時は世界最強で難攻不落とうたわれ、「東洋のジブラルタル」と呼ばれていた。「ジブラルタル」とは、地中海の出入り口にある英国の海外領土のことだ。1713年に領有を開始して以来、現在に至るまで英国はスペインへの返還を拒否している。

 シンガポール要塞は、文字通り鉄壁の守りであり、まさかシンガポールが陥落しようなど、誰も想像すらしなかったのである。

「マレー作戦」を担当することになった辻政信

 とはいえ、シンガポール要塞にも弱点があった。海側、つまりマラッカ海峡に面して砲台が並んでいたが、陸側つまり北面のマレー半島からの攻撃は想定していなかったのだ。まさか、マレー半島のジャングルから敵が攻撃してくることなどあるまい、と。

 シンガポール防衛の責任者であった英陸軍のパーシヴァル中将は、シンガポール防衛のためにはマレー半島側にも要塞が必要だと主張していた。だが、英国のシンガポール総督は、「民心に不安を与える」という理由で反対したため、要塞建築は行われなかったのである。「希望的観測」が油断と慢心を生み出したのだ。白人による日本人に対する優越意識もあずかっていたことであろう。

 この弱点を見破って、意表を突いたマレー作戦を考え抜いたのが辻政信である。ノモンハン事件以後のキャリアを振り返ると、その意味が見えてくる。

 ノモンハン事件後、中国の漢口駐屯の第11軍司令部付けに左遷されていた辻政信は、満洲事変の主導者である石原完爾中将に心酔して私淑しており、石原が主導する「東亜連盟」運動の活動をみずから先頭に立って中国現地で推進していた。これが石原の宿敵である東條英機からにらまれる原因となり、さらに台湾に飛ばされることになる。だが、この台湾赴任がマレー作戦の立案とシンガポール陥落につながったのである。「災い転じて福となす」というべきか、「人間万事塞翁が馬」というべきか、何がどうなるかわからないものだ。

 欧州でふたたび大規模な戦争が勃発し、日米開戦の可能性が高まりつつあった1940年、南方での作戦展開の可能性も出てくるであろうという理由で、台湾軍第82部隊の名称で研究部が設置され、辻政信はその研究部員として赴任することになったのである。マレーフィリピン、蘭領東インド(現在のインドネシア)、ビルマ(現在のミャンマー)にわたる南方作戦における戦闘方法の研究や資料の収集・調査がその任務であった。

 そもそも帝国陸軍が「仮想敵国」としていたのは一貫してソ連(=ロシア)であり、寒冷地のシベリアでの戦闘は想定していても、赤道直下の熱帯のジャングルでの戦闘は、まったくの想定外であった。その南方作戦を6カ月以内に報告書にまとめろ、というのがミッションであった。辻政信自身、1952年に出版した『シンガポール-運命の転機』で、手探り状態から始めた研究は、まったくの「泥縄式であった」と回想している。

 在籍した部員は10名で、それぞれ研究項目を分担して行うことになった。辻政信が担当したのは、全般の編成、装備と戦法、そしてマレーの兵要地誌であった。なぜマレーの担当になったのか詳細はわからないが、それが幸運をつかむカギとなったわけだ。

 どんな任地に配属されてもけっして腐ることなく、与えられた任務をのめり込むようにして徹底的にこなし、逆境をチャンスに変える。変わり身が早いという言い方も可能だろうが、きわめてポジティブで強いメンタルの持ち主であったと言わざるを得ない。転んでもただでは起きないのである。

 台湾軍研究部は1941年7月に閉鎖され、辻政信大本営参謀として呼び戻されることになった。ノモンハン事件でコンビを組んでいた関東軍時代の上官からの強い引きがあったからだが、それだけが理由だったわけではない。当時の陸軍においては希少な南方作戦の専門家となっており、余人を持って代えがたい人材となっていたからだ。何がチャンスになるのかわからない以上、与えられた任務には全身全霊をもって取り組むべきだという教訓でもある。

マレー作戦」に話を限定すれば、ノモンハンの汚名を十二分にそそいだと言えよう。陸軍幼年学校時代以来のロシア語畑で、ソ連との戦いに命をかけていたがノモンハンでは敗れ、泥縄式で研究したマレー戦では英国に勝利したという皮肉な結果となったが、辻政信本人にとっては起死回生となったことには変わりない。だがその後の展開を考えると、日本国民全体にとって幸福な結果をもたらしたかどうかは、議論のわかれるところであるが。

シンガポール陥落、電撃戦で劇的な勝利

 先にも触れたように、マレー作戦から11年後の1952年に『シンガポール-運命の転機』というタイトルで回想録の戦記を出版している(現在は『シンガポール攻略』というタイトルで毎日ワンズから2009年に再刊されている)。

 作戦内容をごく簡単に記せば、以下のようになる。

 マレー半島東岸から陸軍部隊を3つにわけて急襲上陸させ(先陣部隊は陽動作戦のためタイから上陸してマレーに入った)、英領マレーを南下しながらクアラルンプールを陥落させ、南端のジョホールバルまで攻め込む。周到な準備の上、ジョホールバルから海路をはさんで対岸にあり、防備が手薄なシンガポール北岸から敵前上陸して一気に本丸を攻め落とすという作戦である。結果としては、想定よりはるかに短い70日間でシンガポール陥落が実現できたのである。電撃戦であり、劇的な圧勝であった。

 勝者となった日本側からみれば、意表を突いた見事なまでの作戦計画をベースに、第25軍司令官の山下奉文中将の統帥のもと、陸軍部隊どうしに先陣争いで競争心をあおったこと、自転車を利用した銀輪部隊の活躍、工兵部隊の活躍などだけでなく、現場レベルでの陸海空(空は、陸軍の航空部隊と海軍の航空部隊)のまれにみる統合が勝利をもたらした。

 よく知られているように、陸海軍はお互い対抗意識が強く、それが日本全体を破滅に導いた一因となったわけだが、マレー半島の上陸作戦においては、海軍艦艇と潜水艦による護衛と、陸海の航空兵力による航空支援が不可欠であり、陸海空の息の合った連携は、絵に描いたような成功例となった。また帝国海軍が、英国艦隊の2隻の戦艦を撃沈したことは、戦略上も心理面でも大きな効果をあげている。

 一方、敗れた側の英国には、指揮官の能力の問題のほか、まさか攻めてくることないだろうという楽観的観測と、日本軍の実力が高いはずがないという固定観念があったこと、欧州戦線と「二正面作戦」を強いられ、アジアには主力部隊を割くことができなかったこと(この点は、とくに戦車と航空機について言える)が大きい。しかも、現地の英印軍の7割はインド人の下士官と兵で構成されており、日本軍が行った工作対象になっていたこと、要塞で守られているという前提があり、シンガポール島内には多くの一般市民を多く抱えていたため、軍事作戦の自由度が低かったことなどをあげられるだろう。戦艦レパルスと戦艦プリンス・オブ・ウェールズ(英国では皇太子の別名でもある)が、帝国海軍の航空部隊によって撃沈された心理的ダメージも大きなものがあった。

 シンガポールで8万人、さらにマレー半島では5万人が投降したシンガポール陥落についてチャーチル首相(当時)は、「英国の戦史上、最悪の敗北」だと述べている。現在に至るまで、この評価が変わることはない。

 辻政信の『シンガポール-運命の転機』(1952年)は、1960年に英国で英訳版が出版されている。

 英国では「史上最悪の敗戦」をテーマにした出版物は非常に多いのだが、現在でも "Japan's Greatest Victory, Britain's Worst Defeat: Capture and Fall of Singapore, 1942" (=『日本にとって最高の勝利は、英国にとって最悪の敗北』)とタイトルを変更して流通しており、内容に関する評価は高い。

 ところが、せっかくの圧勝を台無しにしてしまったのが、シンガポールを占領後に発生した「華僑粛清事件」である。中国本土の「抗日運動」との関係から、シンガポール在住の華僑から抗日分子をあぶり出し粛清する目的であった。陥落後の混乱状況のなか、数千人規模で華人系市民が虐殺される事態となってしまったのだ。辻政信が指示を出したとされているが、とりわけ軍規遵守にきわめて厳格であった彼が、この件ではなぜ強硬な主張を行っていたのか、理解に苦しむところがある。

 シンガポールマレーで投降した捕虜に関しては、英豪軍の白人捕虜は悪名高い「泰緬鉄道」の建設労働を強いられ、1万人以上が病死するという惨事を招いている。これが戦後長く、英国人やオーストラリア人の対日感情悪化を引き起こしていた。

 一方、マレー作戦の開始から行われた工作により、英印軍から投降したインド兵を組織して、日本軍の指導のもとに「インド国民軍」(INA)が結成されている。軍事力によるインド独立に向けた中核となり、ビルマから英国の植民地であったインドへの侵攻を企てたインパール作戦にも参加することになった。インド独立に果たした役割は大きいとして、インド国内におけるインド国民軍の評価は高い。

強運の持ち主だった辻政信

 参謀でありながら、つねに最前線に出ることを自らに課していた辻政信は、軍人生活において7回負傷し(かなりの重傷も含む)、5カ国の弾丸の破片が体内に残っていると豪語していたらしい。強運の持ち主であることは確かなことだ。

 マレー作戦のあとは、フィリピンに送り込まれて「バターン死の行軍」にかかわりガダルカナルでは無謀な作戦で玉砕を招き(ただし、海軍側に大きな問題があったことは、公平を期して記しておかねばならない)、インパール作戦の失敗後にビルマ戦線を立て直すため送り込まれたが、本格的に反攻してきた英軍によって押し返され最終的に撤退、その際には日本軍に反旗を翻したビルマ国民軍(BNA)の銃撃によって右手右足を負傷している。日本の敗戦は同盟国タイのバンコクで迎えることになった。最終的な階級は大佐で44歳になっていた。

 シンガポールでの「華僑粛清事件」の件もあり、英軍から戦犯として指名され、逮捕されたら死刑は必至だった。だが、日本の軍司令官とタイ政府の了解を得た上で、僧形になって地下に潜ることを選択、バンコクで華僑を対象に情報工作活動を行っていた中国国民党の手引きでラオスからベトナムを経て雲南省から中国に入り、中国国民党政府の首都であった重慶から南京へと潜行、その地で中国国民党の軍事顧問として活動している。

 4年間にわたった潜行生活については、1950年に出版されベストセラーとなった『潜行三千里』(現在は毎日ワンズから再刊)に記されている。冒険活劇のような手に汗握る内容で、じつに痛快な読み物だ。『大本営参謀は戦後何と戦ったのか』(有馬哲夫、新潮新書、2010)の「第6章 第3次世界大戦アメリカ必敗論を説いた男-辻政信ファイル」によれば、辻政信の潜行記録は、ほぼすべてが事実の裏付けがとれるという。中国国民党と米国の陸軍情報部は連携しており、CIAファイルに記録が残っているためである。

 極秘に日本に帰国後は、英国から追跡されながら国内で潜伏生活を送っていたが、1949年に戦犯指定が解除された。『潜行三千里』がベストセラーになったことによって知名度があがっていたこともあり、その余勢を駆って出身地の石川県から衆議院議員に無所属で立候補し、6万票を超える最高得点で当選している。その後、自民党に所属したが、超大国の米ソいずれにも依存しない「自衛中立」を主張して、米国ベッタリの岸信介を批判して除名された。その後、参議院に鞍替えして、全国区で第3位当選を果たした。

 1961年には、現職の参議院議員でありながら、内戦状態で混乱するラオスに僧形で単身潜入したが行方不明になり、1968年に死亡宣告が出されている。ラオスで共産ゲリラに捕まって処刑されたという説が有力だが、中国共産党に引き渡されて雲南省に軟禁され、その地で没したという説もあり、現在でも依然として謎は解けていない。強運の持ち主であったが、毀誉褒貶相半ばするだけでなく、ジェットコースターのような振幅の激しい人生を走り抜いた人であった。

歴史は多面的かつ複眼的に見ることが重要

 辻政信の『シンガポール』(1952年)には、「運命の転機」という副題がついている。日本が軍政のもとシンガポールを支配した期間は、わずか4年間にしか過ぎない。だが、シンガポール陥落という「戦闘には勝ったが戦争には負けた」にもかかわらず、世界史的にみたら、きわめて大きな変化をもたらすことになったからだ。

「アジア人のためのアジア」と「大東亜共栄圏」をスローガンにして大戦に突入した日本だが、結果としてインドパキスタン、セイロン(=スリランカ)、ビルマ(=ミャンマー)、インドネシアベトナムラオスカンボジアマレーシア、そしてシンガポールが独立していったことは、世界史上の大きな出来事であったというべきである。

 それは、大英帝国の終焉を早めたことによってもたらされた。大英帝国は最終的に1956年に終わった。大日本帝国の崩壊(1945年)から9年後である。第2次世界大戦の結果、日英という「植民地帝国」が共倒れとなり、植民地所有を否定した米ソが2大超大国として台頭し、冷戦が始まるキッカケになったということも可能である。

 このように、日本によるシンガポール陥落は、西欧列強の白人によるアジア人支配を終わらせることにつながった点において、アジア人の覚醒を呼び覚ました日露戦争と並んで評価されるべきなのである。日本史にとっての意味と英国史にとっての意味が真逆になるだけでなく、日本史にとっての意味と、東南アジア史、そして世界史にとっての意味にも大きなズレが生じるのだ。

 歴史的な事象というものは、どの立場から見るか、どの部分を中心に見るか、どの時点で見るかによって、まるで違った様相を呈してくることがある。事実は1つだとしても、その解釈が異なるのは、ある意味では当然だ。どんな解釈であっても主観的だからだ。事実とその解釈は別物と考えなくてはならない。

 多面的かつ複眼的に見ることが大事なのだ。さらに時間がたって振り返ってみたとき、また違う解釈が主流になっている可能性も否定できない。ノモンハン事件も、シンガポール攻略も、また辻政信という人物の位置づけも、評価は揺れ続けることだろう。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  悲壮な肉弾戦で惨敗、「ノモンハン事件」の教訓とは

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