(花園 祐:中国在住ジャーナリスト)

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 筆者の学生時代、ある日、友人とNHKの大河ドラマで誰を主役にしたら面白いかという議論をしたことがあります。お互いひと通り候補を挙げた後で、友人が「僕、甲斐宗運(かい・そううん)だったら全話録画して見るよ」とポツリと呟き、「俺も」と筆者がうなずいたところで議論は決着をみました。

 甲斐宗運とは、戦国時代の九州肥後(現熊本県)に勢力を敷いた阿蘇家の家老で、政治に外交に軍事にと三面六臂の活躍を見せた、文字通り阿蘇家の柱石となって支えた武将です。また、その忠義ぶりには狂信的なものがあり、他家へ内通(敵に味方の情報をもらすこと)した実の息子を誅殺するほどでした。

 そこで今回は、熊本県民と、筆者を含む某歴史シミュレーションゲーム経験者以外にはあまり知名度が高くないと思われる、甲斐宗運の忠烈無比な生涯について紹介しましょう。

どの戦でも鮮やかな勝ちっぷり

 甲斐宗運こと本名、甲斐親直(かい・ちかなお)は、阿蘇家重臣の甲斐親宣(かい・ちかのぶ)の子として1508年(もしくは1515年という説も)に生まれます。父の親宣は、阿蘇家が兄・惟長(これなが)と弟・惟豊(これとよ)の間で当主の座を巡り御家騒動が起きた際、惟豊を支えて当主の座に就けた功によって阿蘇家家老となった人物でした。

 この父の後を継いだ親直の名が歴史の表舞台に出るのは1541年、薩摩(現鹿児島県)の島津家に内通した阿蘇家家臣・御船房行(みふね・ふさゆき)の討伐戦でした。阿蘇家家老として御船家の居城、御船城を攻め立てた親直は巧みに敵軍を打ち負かし、首謀者の御船房行を自害させることに成功しました。

 この功によって親直は、阿蘇家からそのまま御船城の城主に任じられます。またこの頃に出家して、「宗運」と名乗るようになります(以下、「宗運」で統一)。

 それから少し時を経た1546年(時期については異説あり)、今度は宗運の娘婿でもある隈庄守昌(くまのしょう・もりまさ)が、島津家へ内通していたことが判明します。この報を受けるや宗運は、相手が娘婿だろうがお構いなしに攻め立て、3年後の1549年には居城の隈庄城を攻め落として守昌を一族もろとも誅殺しました。

 どの戦でも鮮やかな勝ちっぷりであったことから宗運の武名は轟き、他家からも大いに恐れられ、島津家からは「宗運がいる限り、肥後への侵攻はできない」とまで評されたと言われます。後にこの言葉は、そっくりそのまま現実となるわけですが。

息子であっても誅殺

 この時期の九州地方では、肥前(現佐賀県)の龍造寺家、豊後(現大分県)の大友家、薩摩の島津家の三強が勢力を競う状況にあり、その他の諸勢力は三強のいずれかの傘下につくことで存続を図っていました。特に阿蘇家の地盤である肥後は、ちょうど三強に挟まれた地域であっただけに、各勢力からの肥後国人への内通工作は盛んに行われていたといいます。

 大友家寄りの外交を続けていた阿蘇家内部でも、こうした内通工作が頻繁に起きていました。そして内通が発覚する度に、宗運は相手が旧知の間柄であってもことごとく誅殺することで、阿蘇家内部の動揺を抑え続けていました。

 その厳しさは、身内であろうと容赦がありませんでした。ある日、宗運の息子(次男、三男、四男の3人)が他家への内通を図っていたことがわかります。その際に宗運が取った処置とは、まず次男を誅殺し、逃げようとした三男も追って殺し、なんとか追手を免れた四男だけが落ち延びられたそうです。

 さらにはこの苛烈な処置に恐怖し、父を排除しようとした長男・親英(ちかひで)も、宗運は捕縛し、そのまま処刑しようとしました。ただ周囲から「嫡男なんだし」と止められたことで、二度と逆らわないよう誓わせてから許しています。

島津の北進に対抗

 三強が拮抗していた九州地方でしたが、1578年の「耳川の戦い」で大友家が島津家に大敗して以降、パワーバランスは大きく崩れ始めます。大友家の肥後への影響力が弱まったことで、1580年には隈部親永(くまべ・ちかなが)をはじめとする龍造寺家、島津家寄りの肥後国人が連合軍を組み、大友家寄りの阿蘇家へと襲いかかってきました(且過瀬の戦い)。

 しかしこの戦いにおいても宗運率いる阿蘇家は、果敢にも降雨中に川を渡って相手の意表を突き、見事大勝利を収めています。

 しかしこの時期には、もはや大友家の衰退に歯止めはかからず、時局を見た宗運は翌1581年、阿蘇家の同盟相手を大友家から龍造寺家へと鞍替えさせています。

 一方、この時期、阿蘇家と長らく同盟関係にあった同じく肥後国内の相良家は島津家の軍門に下っていました。その相良家の当主である相良義陽(さがら・よしひ)は1581年、島津家の命令で阿蘇家へと侵攻することとなります。

 宗運と義陽はかねて親しい間柄であったとされます。島津家の命令とはいえ、阿蘇家への侵攻は相良家内部でも深い葛藤があったと言われます。そのせいか、この「響野原の戦い」で義陽は、宗運率いる阿蘇家に攻め立てられながらも撤退しようとせず、座して死を待つかのように陣地内で討たれています。このような義陽の最後を聞いた宗運はその死に涙するとともに、「これで島津に対する防波堤(相良家)を失った」と阿蘇家の行く末を案じていたと伝えられています。

天下統一の時局を正確に読む

 相良家との戦いに勝利した後、肥後への圧迫を続ける島津氏に対して宗運は和睦を申し出ます。ただこの和睦は時間稼ぎが目的で、宗運はわざと和睦条件を間違えたり、交渉中にもかかわらず和睦成立祝いの品を送ったりして、意図的に交渉を長引かせていました。

 というのも宗運は、京都周辺の中央政局における織田家(後に豊臣家)の躍進ぶりから、天下統一は近いと予測していたからです。このまま天下人が九州にやって来るまで島津を抑え、持ちこたえさえすれば、阿蘇家を存続できるという展望を持っていたようです。

 結果論で言えば、その後の歴史は宗運の読み通りとなります。1586年には豊臣秀吉が九州征伐に赴き、このとき秀吉に従った九州各地の領主はそのまま土地の領有権が安堵(あんど)されました。

 しかし宗運は時局を正確に見据えながらも、秀吉の到来を待つことなく1583年(1585年という説もあり)に没します。そして臨終の際は上記展望に従い、「島津家には決して阿蘇家から仕掛けず、守りに徹し続けよ」と、後継者の親英に言い含めたそうです。

 なおこの宗運の死については、かつて内通のかどで実父を宗運によって誅殺されていた親英の妻が、娘(宗運の孫)を使って毒殺したという説があります。

思いは実らず阿蘇家は滅亡

 宗運死後の阿蘇家ですが、当主の惟将(これまさ)が1583年に亡くなり、跡を継いだ弟の惟種(これたね)も翌1584年に亡くなりました。惟種の子の惟光(これみつ)がわずか2歳で継ぐことになり、連続の代替わりの上に幼少の当主とあって、阿蘇家では不安が大いに高まっていたことでしょう。

 こうした中、甲斐家を継いだ親英は1585年、宗運の遺言を守らず島津家に攻め込んでしまいます。攻める口実を得た島津家は肥後へと進軍し、阿蘇家は当主の惟光が逃亡したことで、その大名としての歴史を終えます。豊臣秀吉の九州征伐(1586年)まで、あと1年を控えての出来事でした。

 その文武両道ぶり、外交センスもさることながら、主家のためには実の息子すら刃にかけた宗運の忠節ぶりは、日本史全体で見ても際立ったものがあります。なにより、実質的に島津家の北進を防ぎ、九州統一を阻んだ張本人でもあるだけに、その歴史への影響力も決して小さくはないと思える人物です。

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