サミュエル・エトオについて語った宮澤ミシェル
サミュエル・エトオについて語った宮澤ミシェル

サッカー解説者・宮澤ミシェル氏の連載コラム『フットボールグルマン』第116回。

現役時代、Jリーグ創設期にジェフ市原(現在のジェフ千葉)でプレー、日本代表に招集されるなど日本サッカーの発展をつぶさに見てきた生き証人がこれまで経験したこと、現地で取材してきたインパクト大のエピソードを踏まえ、独自視点でサッカーシーンを語る――。

今回のテーマは、サミュエル・エトオについて。今年9月、その選手生活に幕を下ろしたエトオ。彼の全盛期の活躍ぶりは今でも鮮烈に記憶に残っていると宮澤ミシェルは語った。

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サミュエル・エトオが今年9月に引退したね。2010年W杯南アフリカ大会ではカメルーン代表として日本代表と対戦したし、それ以前にはバルセロナスペイン)やインテルイタリア)などのビッグクラブで活躍したから、多くのサッカーファンに馴染みがある選手だったね。

昨シーズンは2月までカタールリーグプレーしていたのは知っていたけど、彼がまだ38歳だっていうのには少し驚いたな。だって、エトオの存在を最初に知ったのは1998年のW杯フランス大会だからね。あの大会から20年以上が経っているのに、まだ38歳なんだぜ。

この大会は私にとっても大きな転機だったんだよな。現役引退して初めて解説者として携わった大会だからね。だから、カメルーン代表でデビューしたエトオのことはチェックしていたし、2000年シドニー五輪でのパフォーマンスもすごかったのを、よく覚えているよ。

2002年のW杯日韓大会にもカメルーン代表のひとりとして来日して、大分県中津江村(当時)にもやってきた。エトオが引退したことで、いまの現役選手のなかには、2002年W杯に出場した選手はいなくなったんじゃないか?

エトオが選手として脂の乗った時期に迎えた2010年W杯南アフリカ大会は、長友佑都が密着マークしてエトオを封じたけど、あの時のカメルーン代表は内紛を抱えていて決してプレーしやすい状況ではなかった。そんな中でも、エトオは脅威となるプレーを随所で見せていたんだよね。あの時の日本代表のCBが田中マルクス闘莉王中澤佑二のコンビじゃなかったら、勝ってなかったかもしれないよ。

W杯ではパッとしなかったエトオだけど、クラブでは圧巻だったよね。とりわけ、世界最高峰のFWへと駆け上がっていった2000年代プレーは、いまでも鮮明に記憶に残っているよ。

マジョルカでブレイクした頃のスピードは圧巻だったし、バルサではロナウジーニョとどうしてコラボができるのか不思議なプレーを何度も見せてくれた。ロングレンジのドリブルから、ズコーンと思いっきりシュートを打つかと思いきや、シュートをチョコンとグラウンダーで転がしたりして。スピードの印象が強すぎるけれど、実際には予測のつかないストライカーだったよ。

バルサは2007年にティエリー・アンリ(~2010年/2012年引退)を獲得したけれど、スピードのあるストライカーを獲得する方針ができたのも、もしかするとエトオの成功があった部分もあるんじゃないかな。

エトオで思い出したけど、昨季限りでペトル・チェフも引退したんだよな。チェコ代表では目立った印象は残せずに、代表レベルではジャンルイジ・ブッフォンイタリア)の後塵を拝したけれど、クラブレベルでは2000年代は世界最高のGKと言って間違いない存在だったよ。

デカイし、シュートストップの俊敏もあるし、DF陣へのコーチングも上手い。無敵感が漂っていた絶頂期の2006年10月に、プレミアリーグで頭蓋骨陥没骨折。復帰してからはヘッドギアがトレードマークになったけど、大怪我をする前と同じように接触プレーでも勇敢だったのがすごかったな。

でも、そうした往年の名手たちが、ピッチを去ったことを、各国リーグの今シーズンの戦いを見ていると忘れちゃうんだよな。それはバルサ16歳のアンス・ファティのような新たな魅力あふれる選手が次々と現れるからなんだ。もちろんレジェンドたちの引退は惜しみつつだけど、新たなスターの誕生にも心躍らせてサッカーを見ていければと思うよ。

構成/津金壱郎 撮影/山本雷太

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