山口県岩国市の小中学校で「スクールカウンセラー」が担当する「学級活動」の時間で行った授業が「問題」であるとされ、親からクレームが寄せられ、両校の校長が「授業内容を確認していなかった」として、児童生徒の保護者に文書で謝罪したとの報道がありました。

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 私はこの報道の内容に多くのレベルで大変強い疑問があります。かなり末期的なものも感じました。

 先にポイントを記すなら「授業に不安を感じている」とクレームを寄せた親のリアクションが、まずかなり「不安」であること。

 さらにそれに対して「授業内容を確認していなかった」と答えた学校サイドのリアクションに対しても同じような不安を覚えます。

 では、事前に「授業内容を確認」して検閲、削除していればよかったのか、と問われれば、そこで止まる程度に、場当たり的な対応にしか見えません。

 一体何が「問題」とされたのでしょうか?

 スクールカウンセラーが授業で子供たちに問うたのは「トロッコ問題」と呼ばれる、世界的に広く知られた、本質的に重要な問題でした。

 これは、例えば自動運転車の安全アルゴリズムを考えるうえで、義務教育レベルを含めあらゆる次世代国民が必ず考えなければならない、AI時代、IoT時代の基本的な厳しい問いにほかなりません。

 全国民が学ぶべきである理由は、あらゆる人が歩行者として自動車・自動運転車と関わらざるを得ないことだけからでも明らかでしょう。

 この問題の源流を「白熱探訪」してみましょう。

トロッコ問題を全国民が学ぶべき背景

スクールカウンセラー」が語った「トロッコ問題」に言及する前に、一つ喫緊の事例を記しておきましょう。

 9月に千葉県で起きた大停電や、九州などを襲った強風被害など、気候変動と公共インフラ、施設や家屋の老朽化に伴う災害は、明らかな甚大化の傾向を見せています。

 大規模災害はいつ襲ってくるか分からない。

 被災現場での救急救命にあたっては。トリアージ(triage)と呼ばれる「選別」が行われます。「識別救急」という訳語が用いられる場合もあります。

 トリアージは、大事故や大規模災害などの現場で、一度に多数の傷病者が出た際、有限な医療リソースを最大限に活用するべく、国際的に取り決められています。

 担架もベッドも、酸素マスクも点滴も、野戦病院的な現場にある設備は限られている。その中で

〇 ほぼ無傷の人、あるいは軽傷で、処置の必要がない人・・・緑、黄

☆ 処置によって症状の軽快、特に生命を救うことが可能な緊急患者・・・赤

★ すでに助かる見込みのない重症患者・・・黒

▲ 死亡者・・・黒

 とを区別するもので、付記した「色」は、けが人や患者に付すタグの色、「赤」の人を優先してケアすることになっています。

 我が国では特に1995年阪神・淡路大震災以降、広く社会に知られるようになりました。

 医療リソースや人員が極端に不足すれば、適切なケアによって救うことが可能な急患も、結果的に全く手当を受けることができず、死亡してしまうことがある。

 しかし、まだ生きているのに「すでに手当しても助からない」として黒のタグを付けるという判断を下さねばならない局面も、あらゆる被災地、あらゆる緊急の局面で、全国民が問われる可能性がある。

 こうしたシリアスな現実を念頭に、以下のカリキュラムを検討してみましょう。

究極の選択はいつでもやって来る

 岩国で問題とされた授業は今年の5月、小学校5、6年生と中学2、3年生合計331人を対象に行われたもので、以下のようなプリントが配られたそうです。

トロッコが進む線路が先で左右に分岐しており、トロッコは猛スピードで進んでいる。

一方の線路の行く先には5人の人が縛られて横たわり、また他方には1人が縛られている。

分岐点にはレバーを握る人物が描かれ「あなた」はそこにいるものと考えましょう。

トロッコにはブレーキがついていない。あなたがこの状態を何もしないで放置すれば5人が犠牲になる可能性が高い。

ここであなたがレバーを引けば、5人は助かり、代わりに今現在は100%助かる1人が犠牲になるだろう。

こんな状況で、あなたはどうするか?

レバーを引くか。引かないか?

 と問うものだったといいます。

 マイケル・サンデルの「白熱教室」同様、こうした問いは一つの正解を求めるのではなく、複数の可能性のどれも正解ではないわけで、答えのない、でも現実に私たちが直面せざるを得ない重要な問題に向き合う際、必ず考えねばならない本質的な倫理の問いを含んでいます。

 さて、6月になって、この授業を受けた(小学生の)子供の保護者から「授業で不安を感じている」との問い合わせが、小学校と市の教育委員会にあったそうです。

 そこで児童・生徒に対して「緊急アンケート」を実施したところ、小学校で数人の児童が「不安」を訴えたとのこと。

 市教委は、県が今年から始めた心理教育プログラムの一環で、カウンセラーによる授業については資料や内容を学校側と協議、確認してから実施するはずであったが、協議・確認というプロセスを経ていなかったことが判明し、その手続きの瑕疵について「謝罪」した、という報道なのですが・・・。

 では、事前に内容を確認していればよかったのか?

 トロッコ問題のような心理教育プログラムは、子供たちが今後、解決不能な問題に直面した際、心が折れないようにするうえで非常に重要な国際的にも認められた内容です。

 しかし、今後は「子供が不安になりそうだから、これはやめておきましょう」と「協議・確認」すれば、ことなかれでよかったよかった、万々歳とあいなるようなレベルの問題でしょう?

 本質的におかしいことが、冷静な多くの読者に、直ちにご理解いただけると思います。

インフォームドコンセント時代に不可欠
「トロッコ問題」教育

 例えば小学校保健体育的な授業があるとして、そこで性教育のカリキュラムがあるとしましょう。

 女子に対しては生理の現象を教え、どのように対処すべきかなど心構えからノウハウまで必要なことを教えたとします。

 子供が家に帰って「お母さん。血が出るんだって。怖い」と、不安を訴えたとしましょう。

 親が学校に対して「授業に不安を感じている」とクレームしたとしたら、これはどうなのか・・・?

 トリアージのような例を挙げれば分かるように、トロッコ問題的な判断は、あらゆる人が日常生活を通じて、様々な局面で問われることになります。

 私は2、3年前に下の奥歯を1本抜く措置を講じてもらいました。この際、抜いた後の歯を「ブリッジ」で補うとしたら、隣の無傷の歯に穴をあけて、橋を架ける必要がある、とインフォ―ムド・コンセントを受けました。

 先ほどのトロッコ問題とよく似た状況です。私は無傷の歯に影響を出したくありませんでした。

 結果的に、主治医の若い先生は工夫を考えてくれ、逆側の歯から大きな「ひさし」のような形で、「ブリッジ」ではない独自の歯科技工装備をデザイン、工夫してくれました。

 現在も無傷の歯は無傷のまま、抜いた歯の後には充填が入り、上の歯との噛み合わせなど、全体の経過も良好です。

 レバーが1本あり、それをどちらに切り替えるかで第三者の運命が変わる、という局面で、仮に5人の中に自分の家族や知り合いがいたらどうでしょう?

 あるいは、逆の線路に横たわる「一人」が自分の家族だったら?

 仮にあなたがそうでなかったとしても、逆側の「一人」にだって家族がいるはずです。その家族に対して、レバーを切り替えた人は、どのような説明ができるのか?

 当然訴訟を起こされるでしょう。それを引き受けるだけの覚悟はあるのか?

 トロッコ問題は、単にその状況を受け身で考えるだけではなく、様々なバリエーションを付加することで、倫理にまつわる重要な問題を教える非常に適切な教材です。

 それとともに、今日急速に普及しつつある自動運転車の事故回避アルゴリズムなどを設計するうえでも、最も初歩的な入り口を教える本質的な問になっています。

 子供を無菌培養のことなかれ教育で育てることは、社会に出た直後に心が折れて不適応になってしまう若者を作る。最短距離であるように思います。

 少なくともここ22年ほど、東京大学という個別の教育機関でしかありませんが、4年間を卒業して社会に出て、3か月と経過せずに会社を辞めてしまった若者など、10人や20人でない数の学生たちから、一人ひとり短くない時間の人生相談を受けてきました。

 もっと早くに心を折れない教育を受けていたら・・・と思うケースが非常に多い、これは紛れもない事実です。

 小学校長や教育委員会は「事前に協議や確認をしなかった、ごめんなさい」で、親からのクレームをやり過ごすようですが、今後は「トロッコ問題はやめておこう」で、果たしてよいと読者はお考えになりますか?

 この問いかけ自身が、もう一つ「トロッコ問題」になっているのにお気づきでしょうか?

 すなわち、「親から難癖をつけられそうな問題は、子供のために本質的に重要でも、触れないことにしよう。結果的に4~5人、心が折れて問題を抱える子供が出ても仕方がない」と日和見を決め込むのか。

「仮に数人不安だと訴える子供がいたとしても、それは生理の出血と同じことで仕方ない、当たり前のことなのだから、一人の不安クレームはあるとしても、100人の子供が心の折れにくい、強かな思考を身に着けられるような、心理教育プログラムを継続していこうではないか」

 こういう判断を下すのか。意思決定、とは常に一定以上の責任を伴うものです。

 この「トロッコ問題」教育プログラムを最初に受講する必要があるのは、学校や教育委員会、あるいは保護者の側かもしれません。

 ただ、一つここで問題なのは、こうした教育は、米ハーバード大学のサンデル氏のように、優れた指導者が行うことで有効性を発揮し、下手な先生が担当すると目も当てられないというリスクがあることも、注意しなくてはなりません。

ゆとり教育」を有馬朗人氏や寺脇研氏が導入した際には、すばらしいプログラムを念頭に置いていました。

 しかし、それを実施できるだけの準備の整った教員が日本全国に数えるほどしか存在せず、指導の実施体制も適切に敷かれなかったことから、いろいろな影響が出た経緯、多くの方がご記憶でしょう。

 つまり、これもまた「答えの一つに定まらない」典型的な現実社会の問題にほかなりません。そこでの倫理的判断を、不安の中でどのように下していけばいいのか・・・。

 本質的な問いは積み残されたままで、全く解決に近づいていないことに注意する必要があるでしょう。

(つづく)

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