(柳原 三佳・ノンフィクション作家)

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 10月2日に行われた関西電力の記者会見。

 社長や会長自らの言葉によって次々と明らかになる高額な金品受領の実態には、怒りを通り越して唖然としてしまいましたが、「菓子折りの下の金貨」や「金の小判」なるものが登場したときには、さすがに耳を疑いました。

 はからずも「越後屋、おぬしもワルよのう・・・」という、あのお決まりのセリフが脳裏に渦巻き、時代劇のワンシーンを見ているかのような錯覚に陥ってしまったのですが、同じように、あのフレーズを頭の中で反芻された方は多いのではないでしょうか。

幕末の大問題は「日米通貨の不公平な交換比率」だった

 大判や小判といった金貨は、もともとは江戸時代の日本に流通していた貨幣です。

 徳川家康が「三貨制度」、つまり、金、銀、銅という3種類を使って貨幣制度を統一し、全国に広がっていったのです。

 ところが幕末になって、異国人が日本に頻繁に訪れるようになると、幕府はある大きな問題に直面することになります。

 この当時、日本の金銀貨と外国の貨幣の交換比率は平等とは言えませんでした。つまり、アメリカ人が使っているドルを、日本で良質の小判に換金すると、それだけで彼らはとても得をし、逆に日本からは良質の金が流出していく、という理不尽な現実があったのです。

「開成をつくった男・佐野鼎(さのかなえ)」は西洋砲術や航海術の専門家でしたが、彼が1860年に記した『万延元年訪米日記』の中には、このことに関してかなりの行数を割いて解説するくだりがあります。

『分析に因る日米金銀貨の比較』と題された章の中から、一部抜粋してみたいと思います。

<ヒレドルヒアに逗留中、御勘定方の役々、その金座に行かれしことあり。これ金銀の貨幣を彼我比較せん為なり。>

「ヒレドルヒア」とは、アメリカの古い都市であるフィラルフィアのことです。この文章にでてくる「金座」とは、今でいう「造幣局」のことです。

遣米使節団に与えられたフィラデルフィアでのミッション

 じつは、幕府にとって使節団をアメリカに派遣する目的は、首都・ワシントンで日米修好通商条約の批准書を交わすことだけでなく、むしろフィラルフィアでの交渉にあったと言っても過言ではありませんでした。

 ときの大老・井伊直弼は、後に勘定奉行を務めることになる小栗上野介に、日米両国の通貨の交換比率を是正するよう命じていたのです。

 では、具体的にどのような不公平があったのか?

 佐野鼎は、日記の中でこう指摘しています。

<異国は殆ど一般に貨幣の価(あたい)甚だ卑しく、これに反して我が邦は極印(ごくいん)を以て通用するがゆえに、古代の金銀は位上品にして目方も多けれども、近代のものは品位稍(やや)良からざるものあり。>

 つまり、外国の貨幣の値打ちは一般的に低いけれど、日本の貨幣には極印という偽造防止のための刻印が施されているため、古い時代の金銀貨は金の含有量も多く良質だというのです。

『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著・講談社)の中には、佐野鼎が使節団の仲間たちに、幕末期における日米通貨の交換比率の違いについて説明するこんなくだりが出てきます。

「佐野さん、本日、お奉行たちは金銀舗なるところへ出向かれているそうですが、聞くところによれば、わがほうの小判とアメリカの貨幣を溶かして分析し、その値打ちを比べるとか?」

 鼎は早速、説明を始めた。

「日本の小判とアメリカが使っているドルの交換比率にはかなりの差があり、現状ではアメリカ側が有利になっているので、お奉行方はそれを是正し、公平に取引ができるようになさるおつもりなのです」

「それほどわが国は不利な状況に置かれているのですか」

「そうです。現状を言えば、アメリカ人は日本でドルを小判に交換するだけで、その金を三倍に増やすことができるのです」

「なんと、貨幣を交換するだけで、三倍に・・・」

 実際に、使節たちがアメリカの軍艦ポーハタン号に乗り込んで横浜港に停泊した際、同艦のアメリカ人水夫たちは競うように上陸して、ドルを日本の小判に交換していたと言います。

 佐野鼎はさらにこう説明します。

「日本の小判は非常に品質が良く、金の含有量が多い。これをアメリカに持ち帰れば、日本で交換したときの価格の三倍で売れるのです。アメリカ人は価値の低い貨幣を使って我が国の貿易港で物品を購入するので、我が国においてはその損失著しく、近い将来、日本の庶民は疲弊するであろうと・・・」

アメリカの造幣局で徹底的な分析を行わせた小栗上野介

 日米貨幣の交換比率の不公平について熟知していた佐野鼎ですが、彼は下級の身分であったため、直接造幣局には出向いていません。実際にアメリカ側との折衝を行ったのは、使節団のトップである、正史・新見豊前守、副使・村垣淡路守、目付・小栗上野介の三使と、勘定方の役付でした。

 フィラルフィアに到着して4日目の午前九時、造幣局に出向いた三使らは、「通貨の欠片を溶かしただけでは正確に分析できない、どれだけ時間がかかってもよいので丸ごと溶かして調べてほしい」と申し出、頑としてその主張を譲りませんでした。

 日本の小判には金のほかに多量の銀が含まれているのに、ドル金貨にはわずかな銀しか含まれていないことを知っていた彼らは、この不公平を是正すべく、暗黙の抗議を行っていたのです。

 結局、アメリカ側はその申し入れを受け入れ、金以外の金属の含有量についてもすべての分析に応じることに了承します。

 日本のトップたちは、昼食時もホテルには戻らず、従者に飯と魚を届けさせ、午後6時までその場にとどまって分析結果を見届けたそうです。

 そして、長時間の分析の結果、日本側は交換比率に大きな不公平が存在することをアメリカ側に確認させ、毅然とした態度で、「今後は適正な交換を行うべきだ」と主張しました。

 この訪米中には正式合意に至りませんでしたが、アメリカ側は日本側の主張の正当性をようやく認めるに至ったのです。

 幕末、日本という国の将来を背負っていた彼らが、アメリカという大国の圧力に屈せず、私利私欲など一切関係なく、毅然とした態度を貫いたというこのエピソード・・・、冒頭の「金の小判」のエピソードから、ふと思い出した次第です。

 佐野鼎や小栗上野介がもし今の世に生きていて、あの記者会見を見ていたら、どんな風に思うのでしょうね。聞いてみたい気がしました。

11月10日(日)、富士市にて柳原三佳氏も登壇する「佐野鼎講演会」が開催されます(定員250名、入場無料、要事前申し込み)。詳しくは富士市ホームページをご覧ください。
http://faq.city.fuji.shizuoka.jp/webccgjpub/dtil/000131/DTL000131734.htm

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