前回、1964(昭和39)年の「東京オリンピック」に合わせ整備が進んだ環七通り。しかし実際には、オリンピック会場へ行くためこの道を使う人はほとんどいませんでした。ではなぜ、環七がオリンピックを機に整備されたのでしょうか。

オリンピック会場へ行くために使われなかった環七

1964(昭和39)年の「東京オリンピック」では、東京の町の大改造が行われ、首都高速道路、それにいわゆる「オリンピック道路」の建設・整備などが行われました。

この時の「オリンピック道路」とは、青山通り・玉川通り、環七通り、目白通り・笹目通りが一般に挙げられています。

ここで立ち止まって考えてみましょう。「環七」はオリンピックにとって必要不可欠だったのでしょうか。環七通りは主に南北の移動、それ以外のオリンピック通りは主に東西の移動道路です。

確かに環七沿線には駒沢オリンピック公園競技施設、馬事公苑覆馬場、および少し離れますが戸田漕艇(そうてい)場といったオリンピック会場があり、それらと羽田空港を結ぶ道路となっています。

当時はまだ成田空港ができていないので、国際便は羽田発着です。環七はこうした立地のため、オリンピックに合わせて開通または拡幅させた道路の一つとして、一般常識のように語られているわけです。

ですが、通常羽田空港に到着した旅客は、選手なら選手村へ、観光客なら都心のホテルへと向かうはずです。競技会場へいきなり向かう人はほとんどいないでしょう。選手村は代々木にあります。代々木や都心へは首都高速東京モノレールを使い、環七は使いません。

選手村や都心のホテルから駒沢オリンピック公園、馬事公苑へは、青山通り・玉川通りを利用します。拡幅整備されたこれらの道路は、「オリンピック道路」の名にふさわしいものです。同じくボート競技の戸田漕艇場や朝霞射撃場へは目白通り・笹目通りを利用します。こちらもまさに「オリンピック道路」です。いずれも主に東西の移動です。

しかし、環七沿いにあるこれらのオリンピック会場へ行くのに、環七はほとんど使われないのです。「空港と駒沢オリンピック公園、戸田漕艇場を結ぶのに便利なのでオリンピック道路として開通させた」という説明をよく見かけますが、それは間違いと言えるでしょう。

選手村は代々木ではなく、朝霞に設ける予定だった

ではなぜ、環七がオリンピックを機に整備されたのでしょうか。謎解きの鍵は、選手村予定地の変更にあります。

1964年の「東京オリンピック」は、1959(昭和34)年5月のIOC総会で開催が決定されました。それを受け、当初選手村を、埼玉県朝霞の米軍基地キャンプドレイク・サウスエリア(現・陸上自衛隊朝霞駐屯地など)に計画します(1960年12月組織委員会決議)。この場合、当時未開通の環七は、羽田空港から選手村、そして選手村から各競技施設などを結ぶ超重要道路となります。都心の北西にある選手村から環七での南北の移動が必要となるわけです。

朝霞に選手村を設けた場合、主会場から約20キロ離れていてやや遠いのですが、各オリンピック道路が整備され適切な交通整理が行われれば、自動車で約40分で行けるということで、問題なしとされました。

当時日本政府は、キャンプドレイクの他に、米軍の兵舎・家族用居住宿舎などとなっているワシントンハイツ(現・代々木公園など)の返還も米国に求めていました。都心にあるワシントンハイツの返還は可能性が低いと踏んでいたようですが、予想に反して1961(昭和36)年12月、米国がワシントンハイツ全面返還に応じる回答を出してきました。

それにより選手村を代々木のワシントンハイツの地に変更します。やはり朝霞よりこちらのほうが、開会式の行われる国立競技場(神宮外苑に隣接し現在、新国立競技場が建設されている地)ほか多くの会場へ便利な立地です。

オリンピックに役立ったか不明だが、オリンピックが環七開通に役立った

環七の計画は昭和戦前からあり、大田区の一部では戦前に一部開通していました。ですがその後、用地買収難などで、なかなか進捗しないものでした。

選手村が都心の代々木へと変更になった時点で、南北の移動がなくなり環七のオリンピックでの重要性は低くなりましたが、工事は計画どおり進められ、羽田空港から北区北部まで、環七の西半分の区間はオリンピックまでに開通します。「オリンピックを成功させよう」という合い言葉のもと、困難な用地買収を進展させ、機に乗じて完成させてしまった形です。

環七(西半分)は、前回の「東京オリンピック」で実際に役に立ったかどうかは大いに疑問なのですが、オリンピックが環七開通の役に立つことになりました。

駒沢オリンピック公園。環七近くにあるが、この施設に行くのに環七はほとんど使われなかった。遠くに環七も写っている(画像:東京都)。