弁当屋やコンビニエンスストアに、量り売りの惣菜コーナーが置かれていることがある。「エビとブロッコリーサラダ」に手が伸びると、「ブロッコリーよりエビ多めで」と、つい欲が出てしまう。私たちは「エビ」という食材に対して、相当な価値を感じているのかもしれない。

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 だが、そのエビはどこからやってきたのかを知っている人は多くないのではないか。国産ものなのか、輸入ものなのか。養殖ものなのか、天然ものなのか・・・。実は、日本人が大量にエビを消費するようになったのは戦後であり、そこには日本発の養殖技術が世界に広がったという経緯があるのだ。

 今回は「エビ」に光を当てる。前篇では、日本人がいかにエビと接してきたか、その中で「エビを育てる技術」がどのように確立されたのか、その歩みを追ってみたい。そして後篇では、現在のエビ生産で主流となっている養殖に対して、どのような研究開発がなされているのかを伝えることとする。

江戸時代、天ぷらの流行でエビが庶民の食材に

 エビが日本の書物に初めて現れるのは、733(天平5)年成立の地誌『出雲国風土記』においてとされる。出雲以外の国の「風土記」も作られたが、完全な形で現存するのは『出雲国風土記』だけだ。

 島根県に現在もある中海の産物を伝える記述には、「入鹿(イルカ)・和爾(ワニ)・鯔(ナヨシ)・須受枳(スズキ)・近志呂(コノシロ)・鎮仁(チヌ)・白魚(シラウオ)・海鼠(ナマコ)」などと並ぶ中に「鰝鰕(エビ)」も出てくる。これらは朝廷への献上物だったとされるが、当時からエビが海産物として獲られていたことがうかがえる。

 エビは古くから「縁起もの」ともされてきた。陽や命を連想させる鮮やかな「緋色(ひいろ)」とよばれる赤身、長寿を想起させる長いひげ、そして甲冑のような硬い殻などがその由来だ。伊勢神宮では、神に供える酒食「神饌(しんせん)」の中に「鰕(エビ)」の丸身が含まれていた。これはイセエビと考えられる。武士たちの間でも縁起のよい食材として広まっていった。

 エビが庶民の食材となったのは、江戸時代とされる。江戸前の海では、アナゴやキスなどの魚のほか、シバエビなども豊富に獲れた。江戸っ子たちは、これら魚介類を衣に包んで揚げ、天ぷらとして食べるようになった。また、鎌倉沖で獲れたイセエビは「鎌倉蝦」とよばれ江戸に送られ、江戸町人の胃袋に収められたようだ。

戦後、漁業の近代化などによりエビの消費量は急増

 こうして辿っていくと、「やはりエビと日本人は切っても切れない縁」という気がしてくる。だが、現代に入り戦後ほど日本人がエビを大量消費している時代は、これまでなかった。

 経済学者の村井吉敬が著した『エビと日本人』によると、1人あたり1年に食べるエビの量は、戦前は300グラムだったが、1986年には3キロになったという(いずれも有頭エビ重量)。2010年代は魚介類離れなどで消費量は減ったものの、それでも戦前に比べたら現在の日本人はエビを大量に食べている。

 どうして戦後、日本人のエビの消費量は急増したのか。村井が第一に挙げる要因が「漁業の近代化」である。

 エビ漁業の近代化で特筆すべきは、エビの人工飼育技術や養殖技術が開発されたことだ。そこでここからは、日本での代表的な2種類のエビ、つまりイセエビとクルマエビについて、人工飼育や養殖の歩みを辿ってみたい。

イセエビはいまだ養殖技術が確立されず

 イセエビの養殖技術は、まだ確立されていない。ただし、イセエビの生活環のうちの一部を飼育にして、安定供給を図るための研究には歴史がある。「日本における海産魚介類の種苗生産研究の歴史は、イセエビから始まった」という見方もあるくらいだ。

 中でも、ふ化した直後のイセエビ幼生を飼育して稚エビに仕立てることは、イセエビの安定生産にとって重要な技術となる。その研究は1898(明治31)年、水産講習所(現在の東京海洋大学)の服部他助と大石芳三によるふ化試験に端を発する。彼らは幼生を脱皮、成長させることに挑んだものの、うまくいかなかった。幼生が何を餌としているのかもまだ分からなかったのである。

 イセエビの幼生を脱皮させることに成功したのは、1958(昭和33)年のこと。静岡県水産試験場と東京大学の共同研究で、野中忠、大島泰雄、平野礼次郎の3氏が、イセエビ幼生の餌を突きとめたのである。その餌はプランクトンの一種「アルテミア」の幼生であり、これをイセエビ幼生に与えて1個体で2度の脱皮を成功させた。その後、全国各地の研究所で、他にも餌になるものが次々に見出されていった。

 そして1987(昭和62)年、北里大学の橘高二郎が、イセエビ科ミナミイセエビの幼生を初期段階のフィロゾーマ期から、次の段階のプエルルス期へと変態させる「幼生の完全飼育」に成功した。翌1988(昭和63)年には、三重県水産技術センターの山川卓らのグループが、イセエビで幼生から稚エビまでの飼育を果たしている。各研究では、ムラサキイガイの生殖腺を餌として選定したことや、水質管理を十分に行ったことが成功要因として挙げられている。

 その後も、研究者たちのイセエビの養殖実現化に向けて挑みつづけているが、幼生の期間が300日以上と長いこともあり、まだ実現していないのが現状だ。

クルマエビは「父」の功績により養殖が実用化

 クルマエビのほうは、戦前より養殖への道が確実に開かれていった。その成果は、「クルマエビの父」ともよばれる水産学者の藤永元作の功績なしにはなし得なかったものだ。

 藤永は1903(明治36)年、山口県萩町(現萩市)に生まれた。1933(昭和8)年に東京帝国大学農学部を卒業すると、日本水産の前身である共同漁業に入社。下関市の早鞆水産研究所に所属し、クルマエビの研究に着手した。明治時代からクルマエビの飼育が行われていた長崎県の天草地方にも出向いてクルマエビの生態を研究し、それらの成果を養殖技術の確立に向け注ぎ込んだ。そして早くも1934(昭和9)年にクルマエビの人工孵化を成功させている。

 1940(昭和15)年には人工孵化したクルマエビを成エビにまで育成することにも成功した。人工孵化から育てた成エビに産卵させて、その卵をもとにふたたび人工孵化させることを「完全養殖」というが、藤永はその可能性を切り開いたのである。

 戦後、1949(昭和24)年になると、藤永は水産庁に入り、調査研究部長として米国、カナダ、ソ連などとの漁業交渉などを担当する。その間もクルマエビへの想いは失われなかった。水産庁勤務時代には、千葉県に研究室を自費で設立し、クルマエビの研究を続けた。

 藤永には、クルマエビを「安く食膳に供しよう」という夢があったという。1959(昭和34)年には水産庁を退庁し、その夢に向け翌1960(昭和35)年には養殖会社を設立し、稚エビの生産を始めた。そして、1963(昭和38)年、山口県秋穂町(現山口市)にて瀬戸内海水産開発という会社を立ち上げ、クルマエビの養殖事業を本格化させる。

 その後も、藤永はクルマエビの養殖技術を極めていった。1964(昭和39)年、「生態系方式」とよばれる、海の生態系を凝縮させたようなクルマエビの種苗生産モデルを築いた。ついにクルマエビ養殖事業が採算に乗ったのは1970年代のことという。クルマエビに対する執念、いや愛を持ちつづけた藤永は、養殖技術を世に遺して1973(昭和48)年、71歳で永眠した。

養殖技術が世界へ、そして日本は大量輸入国に

 藤永元作により築かれたクルマエビの養殖技術は、1970年代から80年代にかけて海外に普及していった。その対象はブラックタイガーやバナメイエビなど、他のクルマエビ科にも広がった。

 1960年代初頭、日本人が食べていたエビのほぼすべてが国内産だった。だが、2017年時点では、輸入エビの量は国産の10倍を超え、日本人の食べているエビのほとんどが外国産となった。その過程では、1961(昭和36)年のエビ輸入自由化や、日本の大手水産会社や商社などによる冷凍エビの積極的な買付け・輸入などの要因もあった。それとともに、日本で確立されたエビ養殖技術が海外に普及したことも、「国産から輸入へ」そして「消費量の増加」という大きな変化をもたらしたのである。

 2000年代に入ると、世界での養殖エビ生産量が、天然エビ水揚量を追い抜き、現在その差は広がっている。途中、エビの感染症「早期死亡症候群(EMS)」が世界各地で蔓延し、危機もあったが、2018年の養殖エビ生産量は過去最高の約450万トンにまでなった。

 日本人とエビの関係は、戦前までは細く長く、ほぼ日本国内のみで続いてきた。だが、戦後、日本発の養殖技術をきっかけのひとつとして、太く、世界と関わるものに変貌したのである。いまや、私たち日本人のエビ食を、海外との関係なしに語ることはできない。

 こうした状況の中、現在もエビ養殖関連技術を開発し、それを海外でも使ってもらうことで日本として貢献しようとする取り組みがある。後篇では、現代のエビ養殖をめぐる研究開発に光を当てたい。

(後篇へつづく)

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