(乃至 政彦:歴史家)

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確証のない肖像画たち

 近年、かつて教科書にも載っていた著名な歴史人物たちの肖像画が「実は別人だった」と判明するケースが続出している。

 例えば、巨漢の印象が強い武田信玄像(高野山成慶院蔵。衣装の家紋などから畠山義続説が浮上)、騎馬武者姿の足利尊氏像(京都国立博物館蔵。画像上部に袖判のように押された花押が息子の義詮で、尊氏配下の高師直説が浮上)、束帯姿の源頼朝像(京都神護寺蔵。冠の様式が鎌倉期と異なるなど、諸問題が指摘され、足利直義説が浮上)に対し疑義が唱えられている。

 また、三方ヶ原で敗戦した家康が絵師に描かせたというしかめ面も、実は別の人物画だったものが、ある時期からなぜか逸話を盛られて家康像にされてしまったことが明らかにされた。家康が自己反省のため肖像画を描かせたという伝説自体、作り話だったのだ。

 織田信長上杉謙信の肖像画はさすがにほぼ間違いないものが多いが、彼らでも一部怪しい画像もある。根拠の曖昧な言い伝えは一から見直す必要があるだろう。

実は別人? 光秀の肖像画

 さて今話題の惟任光秀(1528~1582)ではどうだろうか。惟任というとわかりにくいかもしれないが、明智光秀のことである。実は、彼の肖像画も大いに揺れている。その問題を指摘したのは橋場日月氏である(『明智光秀 残虐と謀略』祥伝社新書・2018)。

 本徳寺(大阪府)蔵の明智光秀肖像画は、実はまともな論拠が何もない。例えばその衣装に象られている家紋は明智一族の「桔梗紋」ではなく、光秀と何の関係もない「変り陰雪持ち笹紋」である。また、画像上部に「賛」として像主の戒名と人物説明が付されているが、これが光秀とまるで一致していないのだ。

 耳目を疑うかもしれないが、この人物を光秀とする論拠は戒名の「輝雲道琇禅定門」の輝と琇の文字に「光」と「秀」があるからというだけであるらしい。

 わたしもこれを知った時は驚いた。識者たちはこんなトンデモまがいの説明を基にこの画像を明智光秀だったことにしているのだ。

 なお、この「輝雲道琇禅定門」には同寺に位牌が残されており、そこではこの人物が慶長4年(1599)にこの寺を建立したと書かれている。光秀が亡くなったのはこれより18年前の天正10年(1582)である。

 それに肖像画の賛では、この人物が安定した生活を捨てて仏門に入ったと記している。光秀が出家したことなどなく、信長に臣属してからは安定した生活などなく、常に行政、築城、出陣などに携わり、多忙を極めていたのは周知の通りである。

 光秀の戒名は「明窓玄智禅定門」または「明叟玄智大居士」と伝わっている。これと同じか、よく似た戒名のある肖像画があればいいのだが、あいにくそうした都合のいい画像は見つかっていない。

 だからと言って光秀と全く関係ない「輝雲道琇禅定門」を、「さして根拠はないけれど、とりあえず光秀ということにして、これからも流用して構わない」ということにはならないだろう。

隠された謀将の実像

 なお、光秀には由緒の確かな木像がある。慈眼寺蔵の「明智光秀坐像」である。

 まず、この木像には桔梗紋が刻まれている。戒名も「明叟玄智大居士」とあって、「明」「智」の二文字が含まれている。成立時期は不明だが、伝来通り光秀の姿を現したものと見ていいだろう。この姿はフロイスが『日本史』に記録した次の光秀評と比べて違和感がない。

 裏切りや密告を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己れを偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。

 フロイスの光秀評は、件の肖像画とイメージが一致しないせいか軽視される傾向があるけれども、わたしは相応に的確だろうと見ている。光秀には謀将としての証跡が、良質の史料にいくつも残されているからだ。

 以上、光秀のイメージ刷新をはかって、私見をいくらか書かせてもらった。ここから始まる光秀論に関心を持った方は、『信長を操り、見限った男 光秀』河出書房新社)を手に取ってほしい。同書では、これまで誰も語っていない史観を提示している。そこに惟任光秀、織田信長羽柴秀吉足利義昭らの新たな姿を見て楽しんでもらえれば幸いである。

 また、皆さんからの反響に応じ、こちらでも光秀や信長、もしくは上杉謙信などのコラムを掲載するかもしれません。お楽しみに。

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