一昨年の性スキャンダルで昨年は授賞が見送られたノーベル文学賞

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「本年度は昨年の分と合わせてポーランドオーストリアの作家が受賞」などという、およそ何の意味もない報道というに値しない文字列はここでは無視することにしましょう。

 2018年の文学賞オルガ・トカルチュク、2019年の分はペーター・ハントケが受賞しました。よく考えられた授賞と思います。

 また冒頭にもう一つ記しておきたいと思いますが、この先、当分は日本からのノーベル文学賞受賞者は出ないでしょう。

 というのも国際バランスを見れば明らかだからです。次にあるとすれば10年程度先、1960年代以降の世代で該当する活躍をする人があれば出るかもしれません。

 日本国内でよく取り沙汰されるような人名があるのは、もっぱら関連企業が売り上げを伸ばすための話題作りで、ノーベル賞を出す側の都合とはおよそ無関係です。

 こういうタイミングですから記しておきますが、「ナニナニ賞」というのは基本、すべて「パブリシティ」広告です。

 今回もノーベル文学賞としては、ほとんど廃止の危機にあったわけですから、懸命のPRに務めているわけで、よく売れる流行作家などは関係ありません。

 というのも、出し元の企業などの財務を見てみれば一目瞭然で、社会貢献の損金あるいは広告費として処理される場合が少なくない。

 ここ30年ほど、私もいろいろな賞をいただきましたし、またお出しする側に回りもしました。

 褒賞というのは、社会にインパクトを発信するために行うわけであって、日本でも年末に、いろいろな「なんとか大賞」を出しますが、そこに思いがけない顔ぶれの芸能人やスポーツ選手、作家・知識人からときには政治家までが一堂に会する。

 しかもそれを、頼みもしないのに大手メディアがやって来て、大々的に報じてくれる。

 もし同じ規模のPRを、お金を払ってパブリシティとして打つなら、とてつもない天文学的な数字が必要で、それに比べれば「**文学賞」の50万、100万円なんていう金額は何でもないようなものに過ぎません。

 若い人(ばかりでなく、イイとしをしたおっさんおばはんまで)が賞を欲しがる傾向を目にします。

 しかし、こういうものにスレてしまった個人の観点からは、間違ってもそんなものを人生の何らかの価値やら目的やらに設定しないように、あくまで実質本位の人生を送るよう、とりわけ音楽の学生諸君には、常々強調しています。

 また、賞というのは、それがもの欲しそうに露骨に見える人には、絶対に行きません。

 例えば、ドナルドダックに類似した名前の人物が平和賞を欲しがっても、未来永劫そういうことはない。

 PR、宣伝費という観点から考えるだけでも、それではショックがありませんから広告費支出としての意味を成しません。その意味で、今年の文学賞は実に考えられた選択をしたと思います。

 オルガ・トカルチュクに関しては回を改め、今回は2019年度の分としてノーベル文学賞を受賞したペーター・ハントケに絞って、しかも冷戦崩壊後の旧ユーゴスラビア紛争に限って、時代の中の「文学」あるいは「芸術」を考えてみることにしましょう。

非難轟々の「ノーベル文学賞受賞者」

 いまだかつて、発表直後からこれほど非難されたノーベル賞受賞者はいなかったように思います。

 あるとすれば平和賞、例えば、佐藤栄作が「非核三原則」の首相としてノーベル賞を受けたときには、悪い冗談だと思った、というような話なら、当時を知る人から聞いたことがあります(私自身は小学生でしたので、よく分別がついていませんでした)。

 ではサイエンスなら大丈夫かというと、決してそんなことはなく、第1次世界大戦で毒ガスを開発、自ら陣頭に立って作戦を指揮した「化学兵器の父」フリッツ・ハーバー(1868-1934)のノーベル化学賞受賞(1918)は、100年前に轟々たる非難を浴びました。

 それに近いかもしれない、でも本質的に異質な批判が、今回のペーター・ハントケへの授賞と言えるでしょう。

 ハントケは冷戦体制が崩壊したのち、旧ユーゴスラビアの分裂、内戦状態の中で、東側のセルビア、とりわけそこで非人道的な独裁者とされたスロボダン・ミロシェビッチを擁護する「ような」発言を続けました。

 ミロシェビッチを裁く法廷にも弁護側証人としての出廷を要請(されますが、それは断っているようです)など、旧東側に同情的な日本のつまらない表現をこういうときに使うなら、極めて「さよく」的な作家として知られています。

 ミロシェビッチに迫害された旧アルバニア系、イスラム系の有識者を中心に、轟々たる非難が沸き起こっています。

・・・と、ここで不謹慎なことを書いてしまうなら、こういう受賞者を選んだことで、ノーベル賞サイドは「文学賞セックススキャンダル」を、かなり有効にかき消すことに成功した面があるとも言えそうです。

NATO軍は永遠の正義か?

 ペーター・ハントケは1990年代の旧ユーゴ内戦時、悪名のみ高かったセルビアを擁護する勇気ある発言を続けました。

 それはまるで、第2次世界大戦後に、ナチスドイツヒトラーを擁護するのにも似たものとして受け止められ、非難を轟々と浴びました。

 でも彼は、その主張を撤回しませんでした。それによって身の危険にさらされたことも少なくないはずで、現在はフランスでひっそりと暮らしていると伝えられます。

 以下、やや私自身のハントケに関する思い出を含めて記すことをお許しください。

 1990年代・・・当時私は20代後半から30代前半で、極めて尖がった前衛の音楽家として活動を始めた頃でした。

 1996年以降はとりわけ「現代思想」「ユリイカ」「ICマガジン」「武蔵野美術」といった媒体にコンスタントに寄稿して理論的な骨格も固めながら、芸術とその倫理にまつわる基礎的な仕事を進めていたので、ハントケのこの当時の行動はよく覚えています。

 前回の東京オリンピックの年度に生まれた私にとって、ハントケはまず何と言ってもティーンの時代「観客罵倒」のドラマティストでありました。

 次いで20歳を過ぎる頃、つまり冷戦最末期、ハントケと言えばヴィム・ヴェンダースと組んだ「ベルリン天使の詩」の作家・詩人でした。

 ハントケは、いまだ壁に隔てられていた東西ベルリンで撮影された映画にこんな書き出しの詩を寄せました。

Als das Kind Kind war,
ging es mit hängenden Armen,
wollte der Bach sei ein Fluß,
der Fluß sei ein Strom,
und diese Pfütze das Meer.

Als das Kind Kind war,
wußte es nicht, daß es Kind war,
alles war ihm beseelt,
und alle Seelen waren eins.

・・・・・

Als das Kind Kind war,
warf es einen Stock als Lanze gegen den Baum,
und sie zittert da heute noch.

その子が子供だった時
両てを振って歩いてた
小川は川になりたくて、
川は早瀬になりたくて
よどみは海になりたくて

その子が子供だった時
自分が子供と知らなくて
すべては心に満ちていて
すべての心はつながって

・・・・・・・・

その子が子供だったとき
大樹に小槍を投たけど
小槍は今でも、揺れている

(私の試訳)

 映画についてはここで記すことは避けます。かつて一世を風靡した「刑事コロンボ」(といっても、最近の若い人には全く通じないかもしれませんが)を演じたピーター・フォークが本人役で出演するこの映画は20代前半の私に強い印象を残したことだけ、記しておきます。

 私も18歳のとき東西ベルリンを体験していました。

 それから数年、冷戦が崩壊し、ベルリンの壁は崩れますが、同時に旧ユーゴスラビアバラバラになり、1990年セルビア共和国大統領となったスロボダン・ミロシェビッチは91年のスロベニアクロアチアマケドニアの独立に軍事介入、続いて92年にはボスニア・ヘルツェゴヴィナ、98年にはコソヴォの紛争に派兵します。

 こうした紛争に際して、ミロシェビッチナチスに匹敵する「人道上の罪」を犯したとされ、それに対する攻撃であるとして正当化され、1998年から99年にかけてNATO(北大西洋条約機構)軍がユーゴに空爆を仕かけます。

 これが最低最悪でした。

 忘れもしない1999年の春先、3月から6月にかけて、NATO軍はセルビア放送局などユーゴスラビアの民間施設をターゲットに空爆を仕かけるという、どう見ても最悪の挙に出、多数の民間人が命を落とします。

 このような状況下、西側での旧ユーゴ報道に大きく疑念を表明したのが、ペーター・ハントケでした。彼は決してミロシェビッチを擁護しているわけではありません。

 ハントケのお母さんが自殺したことは、その翌年に書かれた“WunschlosesUnglück”邦訳『幸せではないが、もういい』(1972)によっても広く知られますが、お母さんのルーツはほかならぬスロベニアでした。

 ハントケにとって旧ユーゴバルカンの紛争は、自分の血脈に流れる切実な問題であり続けた。

 私がこの当時、極めて奇異に思ったのは、近親感をもっていた女性の文芸評論家、スーザン・ソンタグがこの空爆を擁護したときでした。

 少し前のこの連載でも名を挙げた、アートディレクターで通訳・翻訳者、またインターナショナル・ブラックパンサー(国際黒豹党=「マルコムX」の関わったブラック・ムスリムのグローバル組織)の日本細胞としても活躍した木幡和枝がスーザンと親しく、直接会って話すこともありました。

 このときのスーザンの「好戦的」とも言える反応には、正直言って鼻白むものがありました。

 スーザンの語気は強く、

「スロボダンのようなファシストを殲滅するためには、空爆のような方法もやむを得ないのだ」

「それによって犠牲が発生するのも、やむを得ないのだ」

 という色彩を帯びていた。私はこれを

「不可解なイエローぺリルである日本人、わけの分からない自殺特攻を仕かけてくるジャップを大人しくさせるには、本土空襲も原爆投下もやむを得ないのだ」と同じように聞きました。

 よく書く話ですが、私の母は19才の一少女として焼夷弾に直撃され、全身炭化で死にかけたところから2年間寝たきりの生活を経ていき返ってきましたので、こういうシナリオ(ある種の強者の論理)を容赦しません。

 来日したスーザンにもはっきりそれを主張したことがありました。

 ハントケの議論は「政治的」に見るべきものなのか・・・。私はそうは考えません。

ファシストを擁護した」のではなく、ファシストの側にあるとされた東側にも個人の生活があり、一人ひとりの命がある。

 それに対して、「相応のバランスある配慮がなされているのか?」「NATO軍だけが絶対の正義か?」という問いが、ハントケの基本的な立ち位置であるように理解しています。

 もとより私は一音楽家に過ぎず、ドキュメントをすべてチェックしているわけではないので、文学研究者など専門家から編集部まで、お気づきの瑕疵がありましたらご指摘いただけましたら幸いです。

 でも「ベルリン天使の詩」と「ユーゴの立場に立って」というのは、実は前者が撮影されたのがいまだ冷戦まっ盛りであった事実を考え合わせると、何も矛盾がないどころか、極めて一貫した行動だったと言えるように思われます。

 当時は様々な批判があり、ハントケは人間関係を壊したりもしたようですが、でもその一点において彼は節を曲げなかった。

 あれからほぼ四半世紀・・・・

 ほとんど一度「ノーベル賞廃止」の危機に近づき、知行合一の公正性について、厳しい倫理的なケジメを求められたスウェーデンアカデミーが、反骨の塊ペーター・ハントケをノーベル文学賞に選んだことに、私個人は喝采を送りたいと思います。

 と同時に、これも明記しておきたいと思いますが、マーチンルーサー・キングなどの例を出すまでもなく、ときならずしてスポットライトが当たったハントケの身に、何らかの危機、例えば襲撃などがないだろうか、といったことが同時に非常に心配です。

 大江健三郎さんは浅沼稲次郎・社会党委員長の暗殺直後、「セヴンティーン」を発表して様々な脅迫状を受け取り、その第二部「政治少年死す」は長らく単行本に収録されませんでした。

 ボブ・ディランにしても、かつては様々な脅迫を受け取っていたと思います。

 そういう「政治」をギリギリで生きてきた人物に、ノーベル文学賞は与えられます。

 あいちトリエンナーレでの戯画のような「政治」といった話は台風で吹き飛んでしまい、後始末が残っているだけと思いますが、「政治」と「芸術」は白羽の矢の上で綱渡りをしている。

 本稿はベルリンで書いていますが「三島由紀夫(と、その死)を知るはずの日本人が、どうしてあんな愚かなことを・・・」という友人がありましたので「でも三歩歩くと大半を忘れる国民性だから」とその場では答え、重ねて首を傾げられました。

 よく本が売れる文筆業者が対象であるなら、ノーベル賞ポルノ作家のオンパレードになってしまうでしょう。

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ノーベル文学賞を受賞したオーストリアのペーター・ハントケ(10月10日、パリ郊外の自宅ちかくで撮影、写真:AP/アフロ)