クラスの中に大体1、2人はいる、学校になじめなかったり集団行動が苦手な子たち。その子たちにしてみれば学校はあまり楽しいところではないかもしれないのに、行かなければならないと歯を食いしばっている状態かもしれません。そんな子たちのサポートは、誰がしているのでしょう?

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 何らかの子どもの理由で不登校気味だったり、周りのサポートが必要である子がいることを分かっている上で、優しくて面倒見の良い子たちの母であるみわさんが、愚痴として思ったことをツイートしたところ、多くの共感が集まっています。

 「あのさぁ……登校拒否の子には登校拒否の子の事情があるし、それをどうにかしなきゃいけない先生の方にも事情があるのは重々承知した上で愚痴りますけど、登校拒否の子を虐めたりじゃけんにしない優しい子を学校で面倒みる係にするのほんとやめてくれ」と始まり、数ツイートにわたってご自身の気持ちを二人のお子さんの現状とともに吐露しています。

 登校拒否、あるいは不登校と呼ばれる子ども達は、何らかの事情で学校に対して恐怖心があったり、発達障害など脳の機能が定型発達の人と違っていることで対人面や集団の場で過ごす事が困難な子がほとんど。聴覚など感覚の過敏性が高く、グループワークやディスカッションが苦手な子も多くいます。

 そんな子たちが居辛いのが、学校という大きな集団母体。何とか登校しても、団体への拒否感を持ちながらそれでも頑張っている子たちも多くいます。そして、そういう子たちに対して担任の先生がよく使う手段が、「その子のお世話係」として、特に仲良くなくても、悪口やキツイことを言わない優しい子たちにサポートを任せるという手段。

 個人的に不登校や特性があってもそれを受け入れたうえで友達としてサポートするのならまだ分かります。しかし、当のお世話係にされた子たちの本音と言えば、みわさんのその後のスレッドにあるように、「長女は小学校の高学年の時に毎日登校拒否の子に手紙を書かされたし、中1の時も学級委員長になって席替えすれば必ず隣にされて保健室に迎えに行く係もやらされて、嫌すぎて宿泊イベントはあまりにも負担が大きくてうちの子がギブしたから休ませた」「こんどはうちの長男が委員にされて宿泊イベントの班に精神不安定の半登校拒否勢3人まとめていれられた、6人グループの半分を気を使わなきゃいけない人間で固められたせいで流石に行きたくないと」「自分の事は自分でやるのが集団生活で、出来ない事は親とか教師がフォローするべきで、優しいクラスメイトの善意に任せて一任するの納得出来ない」等々続いています。

 「この関係の闇は面倒見てる子はクソクソめんどくさい思いをしてるのに、見てもらってる子は見てもらってる自覚なくて、逆にうぜーな、とか思ってる事なんだよ。お互いに良い思いしねーんだよ」という言葉が一連のツイートの中にもありましたが、これは不登校側としてもやはり同じ。

 筆者の次女が不登校で休み続けている間に、「お休み通信」という授業内容や連絡事項、励ましのひと言を書いたものを貰っても目も通さなかった上に、プライベートで仲良くしている子からのお休み通信でさえも目を通さず放置していました。どうやら、構われる側(次女)にとってはあまり構われたくないタイミングだったようです。

 大人社会であれば、「この人は独りを好むから」で済むことなのに、子どもたちは集団に属さないといけないルールでもあるのでしょうか?そんな押しつけがましいルールはお世話係にされる方も、ケアされる側も過干渉によるストレスにさらされ、精神面の負担がさらに増すという悪循環になってしまいます。

 現に、この一連のツイートには、お世話係になった方、ケアされた方の両方から子どもの頃の回想などが届いていますが、やはり、「特に仲良くもないのに押し付けられるのは苦痛だった」というお世話する側、「ケアされる側だったけど一人の方が落ち着くからわざわざ声をかけられるのが苦痛だった」「何で学校は集団を組まないといけないのか」などといった反応が多く届いています。

 学校という場は、学習指導要領に準じた学業の場でありながら、集団生活内での振る舞いを学ぶ場所ではあると筆者も思います。しかし、それぞれの「個」を無視してまでそこにとらわれている必要って、本当にあるのでしょうか?単なる大人視点のエゴではないのでしょうか?子どもたちにとっては、お世話係にされる子は「自分の気持ちを分かってくれない大人」と見ることになりますし、ケアされる側は「何で自分にばかり構うの?」「先生の言いつけだとしてもその子の時間を奪っていた事に気が付いたときには申し訳なさでいっぱいになった」という言葉も出ています。

 この大人視点のエゴで、お世話係にさせられる子も、お世話される側も両方ともに「何でこんなことしないと・されたくもないのにされるの」という気持ちが出ますし、それは両者にとっても苦痛の原因。この苦痛、担任には届いていないのでしょうか?

 個性や特性、それまでに起こった事による心の傷を持つ子からしたら、集団に属するように学校に躾けられるのは、それこそ「余計なお世話」に過ぎないのです。その子にとっては、自分を尊重してくれていることにはならないのです。

 子どもは多少の事をスルー出来るほど、大人よりも器用ではない子の方が断然多いです。大人のいう事は絶対、と渋々守る子もいますが、その「渋々」の気持ちに隠れているのは、「何で私にばっかり押し付けるの?」という気持ちでしょう。

 不登校でも学校でできた友達がいれば何とか行事にだけは参加できる子もいます。そういう仲の良い子との交流を絶たないように、同じクラスにするなどの配慮はあっても良いと思います。反面、「行事だけしか来ないヤツ」と陰口をたたく子もいます。しかし、ただ「この子は優しいし何でも聞いてくれる」という意味で、扱いの難しい子と一緒にさせるのは、皆さんはどう思いますか?何でも屋を押し付ける必要って、どこにあるのでしょう。

 学習する場で学習に専念できる場を提供するのが学校の最大の役割です。副次的効果で集団でのルールなどを学ぶ形なのに、自分がやりたくもないことを押し付けられるのは、学習に専念できる場を学校側が自ら奪っているに等しいのではないでしょうか。「みんなでなかよく」が通用するのは低学年までかもしれません。

 最低限、いじめという名の暴行・暴言が起きないよう配慮しつつ、学業を修める場としての機能を果たして欲しい。そのためにはそれぞれの個性を尊重しながら、先生という立場である人たちがマネジメントする必要があるのではないでしょうか。不登校児の母である筆者としても、学校側の理由での画一的な方法には問題を感じています。教員が足りないこと、少ない教員の中で、しかもその中でも軋轢があるのも、娘の不登校の時の担任の先生から雑談交じりに話を聞いています。幸いなことに、娘が通う地区は柔軟なところはあるものの、やはり手が足りないことを理由に条件付きなら登校できる子ども(=娘含む)を受け入れることができません。

 教員の仕事は本当に大変です。ただ教材を準備して授業をするだけではなく、指導要領が変わればそれに準じるよう覚えることも増えますし、部活の問題や子ども同士の問題、保護者との問題、その他事務的なことも含め色々な物をひとりで抱え込んで、どれだけ残業しても残業手当が付かない中で子どもたちの指導にあたっているのが現状。

 その大変さから教員免許を持っていても、現場に戻るのが怖いという元教員も多くいます。そういった大人の問題が、巡り巡って子どもに押し付けられる現状。働き甲斐搾取の状態で必死に踏ん張っている先生も多くいます。こういったことを踏まえて、どう解決していけばいいのか、子を持つ親だけでなく教育に携わる人、そのサポートをする人など、多くの人が考える必要があるのではないでしょうか。

<記事化協力>
みわさん(@Watana4444)

(梓川みいな)

登校拒否児の「面倒をみる係」とは ある親の愚痴から広まる共感の輪