真の「医者」とは、どのような人のことを言うのでしょう。偏差値の高い医学部を卒業して、医師免許を取得した人のことでしょうか。
しかし、その道を通らずに、多くの命を救った男性がいます。その人物の名は、マーティン・カウニー医師。
彼は正式な医師免許を持っていないにもかかわらず、死ぬ運命にあった多くの未熟児をたった一人で救いました。
これは、1930年代におけるアメリカ小児医療の価値観を変革したニセ医者の奇跡の物語です。
見捨てられていた「未熟児」たち
1930年代の医療界では、未熟児が生まれると、病院は延命措置をせず、死ぬに任せていました。
自身も未熟児として産まれた女性によると、「病院の医師たちは、私を助けようとはしませんでした。それはただ『この世にそぐわないから、あなたは死ぬ運命にある』といった具合です」。
しかし、そのような未熟児を救った人物こそが、マーティン・カウニー医師。当時、死にゆく運命にある6500人以上の未熟児を、彼は自身の元で預かったのです。
しかしマーティンは、医師の資格を持っていないニセ医者でした。
資格は持っていなかったものの、彼は生前、「私は、小児科の名医ピエール・コンスタント・ブーダンの弟子だった」とよく口にしていたそうです。
マーティン氏は、未熟児として産まれただけで延命措置もしない当時の医療界に、大きな怒りを抱いていました。彼が師事していたというブーダン医師は、未熟児のための保育器を普及させた人物でもあります。彼はその遺志を引き継いでいたのでしょう。
そこで彼は、現代では考えられない奇策に打って出ます。
「未熟児」を展示して治療費を稼ぐ
マーティンは、保育器に未熟児を容れて、一般客への展示会を開いたのです。彼が最初に展示会をしたのは1896年にドイツ・ベルリンでのこと。その後、数度の展示会のため各国を回り、1903年にアメリカに腰を落ち着けることになります。
ここまで聞くとかなり不謹慎に思えますが、マーティンは一般客から徴収したお金をすべて未熟児の治療費に当てたのです。
病院が放棄した未熟児を受け入れて、保育器の中で延命措置をするには多くの費用がかかりました。保育器1台あたりの維持費は当時にして15ドル/日、今日に換算すると、1日400ドル(4万円以上)かかることになります。
そこでマーティンは、展示客一人あたり25セントを徴収し、それを維持費に回したのです。この展示会はたちまち人気を集め、多くの一般客が集いました。
のちにマーティンは、人々から「保育器ドクター(the incubator doctor)」とあだ名されるようになります。
小児医療の価値観を変革した
マーティンの活動により、アメリカの小児医療界に「保育器」の存在が大きく知れ渡るようになりました。そしてついに、マーティンが願っていたように、病院は未熟児を延命させるようになったのです。
そして1940年代初め、マーティンは保育器の展示会活動を終了しました。
こうした大きな功績にもかかわらず、当時の医師たちは彼を「単なるショーマンだ」として、プロの医療従事者とみなすことはありませんでした。
こうしてマーティンは表舞台から姿を消し、その後、1950年代に80歳で亡くなっています。そのとき、彼の懐にはわずかの財産も残されていなかったそうです。
結局、マーティンは展示を行なった十数年の間に、6500を越える未熟児たちを病院から預かり入れていました。死に際し、手元に遺産は残らなかったものの、彼は6500以上の尊い命を後に残し、この世を去っていったのです。
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