是枝裕和監督が国際的なキャスト、スタッフと共に作った最新作『真実』が10月11日より公開されている。第76回ヴェネチア国際映画祭のオープニング作品上映のために日本を出発し、イタリアのヴェネチアからカナダトロントまで、地球を1周するような行脚中の是枝監督に話を聞いた。

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是枝監督はインタビューの席につくなり、「『ジョーカー』観た?」と自身の映画を差し置いて聞いてきた。ちょうど、『ジョーカー』(公開中)がコンペティション部門で金獅子賞を受賞したというニュースが世界中に流れたところだった。

「『真実』についてのインタビューなのに?って思うかもしれないけれど、関係あるんですよ。ヨーロッパの映画祭であるヴェネチアが、どうしてアメコミ原作のハリウッド映画である『ジョーカー』を評価したか、日本のメディアは検証しているのだろうか?映画祭は各人があらゆる属性を置いてきたところで、みんなが“映画”という旗のもとに集まって、“映画人”という一括に入るからすばらしいんです。映画祭はオリンピックともまた違い、各国の旗を振りながら来るところではない。昨日の舞台挨拶でも言ったのですが、僕は普段から“日本映画”を作っているつもりはなくて、目の前にいる人たちといい映画を作りたいという気持ちで映画を撮っているんです。それでも、日本人監督の作品が異国でどう評価されているかということに人の関心が向いているため、『意気込みは?手応えは?』という質問が多くなってしまいます」。

今年のヴェネチア国際映画祭では、『ジョーカー』の金獅子賞受賞と共に、『An Officer and a Spy(英題)』で審査員特別賞を受賞したロマン・ポランスキー監督についても、議論が起きていた。審査委員長を務めたアルゼンチンの女性監督、ルクレシア・マルテルはポランスキー監督作がコンペ入りした際にも、「世界では女性の権利についての議論が行われているのに、性的虐待疑惑の渦中にあるポランスキー氏の作品を祝福するプレミアに参加することはできない」と違和感を述べている。

マルテル監督の指摘に対し、ヴェネチア国際映画祭ディレクターのアルベルト・バルベラは、「映画祭で審査されるのは映画そのものであり、制作した人物についてではない」と見解を示した。オープニング作品であり、コンペティション部門に属する是枝監督の『真実』も、『ジョーカー』やポランスキー監督作品と同じ舞台で審査される作品として肩を並べている。

ではなぜ、バルベラはこれらの作品をコンペティション部門に選び、審査委員団は賞を授けたのか。是枝監督は、そこを検証することこそが映画祭を取材する意義ではないかと言う。

一方の第44回トロント国際映画祭は、ヴェネチアと違いコンペティション部門を持たない。あるのは上映のチケットを購入し、鑑賞した観客が選ぶ「観客賞」のみだ。今年で44回目を数えるトロント国際映画祭のセレクションは、映画を愛してきた観客を楽しませることが大前提で、映画を通して世界を見ている観客が選ぶ賞は、ある意味世相を表すといってもいい。

是枝監督は思い入れの深いトロント国際映画祭についても語ってくれた。「トロント国際映画祭は特別な映画祭だと思います。映画を作るたびに呼んでいただけて、ここに来るたびに、映画祭は観客を育てる場なんだなと思う。映画祭側が自分たちの役割を意識しているからこそ、こういう映画祭ができるんだよね。映画の上映前に映画祭のディレクターたちが先住民に感謝し、この土地を借りて映画祭が行われているという趣旨のスピーチをする。なんてすばらしいんだろうと思いました。自分がここにいるのはどういうことかと縦軸で捉えることを、なかなかできなくなってしまっていますから。カナダは移民の国で、最初にここに入って来た人も移民であり、先住民の土地を借りているにすぎないという意識を持つことでしか、平和を保つことはできない。こういう感覚を軸に持ちながら、生きていくことが多民族社会には絶対に必要で、それが実現できているから感謝につながる。今後の日本でも同じことができるでしょうか?こういうことを言うと、『映画監督は映画だけ作ってろ』と言われてしまうわけですが(笑)。でも、僕は映画監督ですが、映画だけ作っているわけではないですから。できるだけ声をあげていこうと思っています」

では、『真実』が2019年に作られ、各国の映画祭で上映されることはどんな意味を持つのだろうか。映画の企画自体は2015年から動いていたが、制作に入ったのは2018年の秋。折しも、多くの是枝作品に出演し、時に監督の背筋を正し、時に辛辣な世間批判を繰り広げる相手だった樹木希林さんが亡くなった直後のクランクインだった。

「『真実』は、明るい読後感(鑑賞後感)の映画にしようと最初から決めていたんです。2015年から動いていた時からそう思っていたんですが、いま思うと、(2018年秋の)自分がそういう時期だったんだと思います。空を見上げて終わる映画にしたかった。僕がそういう読後感を欲していたんだと思います。どんな映画も、あとで振り返ると偶然なんだけど、生まれるタイミングを見て生まれて来ているような気がします。不思議なものですよね」

是枝監督が「読後感」と言うように、フランス語で語られるセリフを監督自身が監修した字幕で読んでいると、いつもの是枝映画を観ている感覚になる。フランス語が聴きなれないせいか、食事のシーンや家の中での些細な生活音など、状況音が立っている気がした。

「録音は、(ジャンピエールリュック=)ダルデンヌ兄弟の作品を多く手掛けているジャンピエールデュレにお願いしました。彼は状況音をできるだけ取り入れていく音作りをする人でしたね。映画の制作過程において最も時間をかけたのは編集。会話のシーンを編集する際に、カットバックでセリフのどこで切ったら気持ち悪く感じるのかを、フランスのスタッフと徹底的に話し合いました。日本語だと感覚でわかることだけど、フランス語の場合はネイティブの感覚を信じるしかないので」。

カナダにはフランス語圏と英語圏があり、トロントは英語圏だが多くの市民が2つの言語を理解できる。トロントの英語字幕の上映でも笑いが頻繁に起きていたので、間の取り方やカットバックはうまくいっていたようだ。

『真実』の物語は、フランスの大女優ファビエンヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)が、半生を綴った自伝を出版するところから始まる。出版祝いに家族と共にアメリカから駆けつけた娘のリュミエール(ジュリエット・ビノシュ)には、母親に対して腹の底で煮えたぎる想いがあった。リュミエールは、急に辞めた秘書の代役として数日間を母親と過ごすうちに、世間と自分自身が作り上げた“ファビエンヌ像”に閉じ込められた母親の姿を見るようになる。

是枝監督の『誰も知らない』(04)をフェイバリット作品に挙げるジュリエット・ビノシュからのラブコールに応え、もともと戯曲用に書いていた草稿をカトリーヌ・ドヌーヴとの母娘に置き換えたという。

「ドヌーヴさんも、『誰も知らない』と『歩いても 歩いても』が好きだと言っていました。この2本はありがたいことに、海外で好きだと言ってくださる方が多いです。バリー・ジェンキンス監督やポン・ジュノ監督も『歩いても 歩いても』が好きだと言っていました。特に韓国では、『なにも起きないホームドラマは韓国では映画として成立しない』とびっくりされます。なにか起きないと映画にならない、とみんな思っているのでしょう」。

実際のところ、是枝作品はなにも起きないわけではない。リュミエールが母親の自伝の矛盾点を一つ一つ検証して、責め立てれば法廷サスペンスのような映画になるだろうし、『歩いても 歩いても』の樹木希林は、腹の底にずっと消化しきれない想いを抱いていて、フィジカルな復讐を描けばホラー映画にもなりうるほど怖かった。だが、是枝監督があえて世の中の最も小さな社会共同体である“家族”を媒介に物語を語るのは、ミクロな視点で世の中に起きていることを捉え、各自の生活に持ち帰ってもらうためなのではないだろうか。だから、是枝監督が『真実』について語ることは、世界の映画界が、いまどんなことを議論し、どこに向かおうとしているかを考えることと無関係ではない。映画祭とは、作り手と受け手が「いま、なぜ、この題材を描いたのか?自分はなぜこの映画に惹かれたのか?」を相互に問う場なのだ。『真実』を1本の映画としてだけでなく、2019年に世界で観られた映画としてどう捉えるか。そこに是枝監督の言う“映画の豊かさ”が生まれるのだろう。(Movie Walker・取材・文/平井伊都子)

是枝裕和監督が“映画”と“映画祭”を語った(『真実』メイキング写真より)