向島のおはぐろどぶにハトロン紙につつまれて浮んでいたバラバラの男の死体!! 満都が昻奮した事件を当時の毎日社会部記者が描く。

初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「玉の井・バラバラ事件」(解説を読む)

「おはぐろどぶ」からバラバラ死体

 昭和7年の春まだ浅い3月7日朝の9時半頃、東京向島寺島町879番地川名洪方横手の環状線道路脇の俗に「おはぐろどぶ」とよばれている下水の中に、白地の浴衣で包み麻の細紐をくるくる巻きに縛ったひと包が、ぽっかり浮いているのを通りかかった近所の呉服屋広島倉治さんが見つけて長浦交番に届出た。

 下水から取上げて包装を解くと、中から男の胴体の上の部分だけがハトロン紙に包んであった。つづいて、十二間直路をへだてた西側のおはぐろどぶから、生々しい首と胴体の下の部分、両腕などが同じようにハトロン紙に包み、更に白地浴衣で外側を包んだものが浮き上った。

 推定するとこの死体は全身を8つに切断されている。年齢は20歳から23歳位、或は、もう少し年をとっているらしい。素裸にした上、鋭利な刃物で首、両手、両脇、胴の上下と云った風に根元から切り落して、これを別別のハトロン紙に包んだ上、白地浴衣に包み、細引をかけて、発見された場所まで運んできて、一つずつ順々に溝の中に捨てたものと一応考えられるのであった、なにしろ、この現場は環状線の大通りで玉の井の銘酒屋(当時の赤線地帯)にほど近く賑かな所である。桜(はな)にはまだちょっと早いがポカポカ暖かく、噂を聞いて野次馬が東西南北から集ってきて「なんだ、なんだ!」の大騒ぎ、忽ち黒山の人垣となった。寺島署から駈けつけた十数人の巡査が非常線を張り交通遮断をする騒ぎとなった。

 型のように、警視庁から土屋捜査課長(この人は退官後に三越百貨店に勤めた)田多羅係長(退官後区長になった)吉川鑑識課長、浦川寺島署長、検察側からは枇杷田検事、内山予審判事の面々が自動車で駈けつけて、現場検証をして、捜査会議と手順通りに運んだことはいうまでもない。

 死体のあったおはぐろどぶは、幅6尺深さ3尺で犯人は最初暗渠へ投げこむつもりであったのが、手もとが狂って溝に落したものと思われた。被害者は肉付も営養もいい方で、ヒゲは剃って2日目位、解剖の結果は、最初外見した時よりも年をとっていて30歳前後、死後1週間を経過している。軽い肋膜を病んだ痕跡が残っている。身体を切り落すとき骨は鋸でひいたものと断定された。死後1週間と云う点から犯行は月初めと推定されるのであった。また、鼻腔、口などには蒲団の古綿が詰めてあり、胴体を結えた帯芯のような紐には、女の髪の毛らしい毛が6本くっついていた。その毛を仔細に鑑定すると、うち4本は死毛(抜毛)で2本が生きている人物の毛で中に猫の毛もまじっていた。また、鰯の鱗も発見された。

「八ツ切り」「こまぎり」「バラバラ

 当時の新聞がこの事件を天下の一大怪奇として、朝刊、夕刊と追っかけて報道し、日本中の読者が怪奇小説以上の好奇心をもって、つぎの報道を待ったのは連載小説の比ではなかった。警視庁の記者倶楽部には朝日、東日(今の毎日)、報知、国民、時事、読売、中外(今の日経)みやこ、万朝報、やまとなど各社の記者が詰めきっていた。今も繁栄している新聞もあり、統合、改題、没落、と顧みて新聞界の興亡もその戦の激しさに感深いものがある。政治部記者がペンギン鳥のように乙につんとすましているのに対して、ここの記者達は、赤ダネ記者を喜びとし、ハンチングを横っちょにかぶって飛び廻る。刑事を相手に、隠語で話のやりとりが出来るようにならなければ、刑事に馬鹿にされて変死人一つの小種さえもとれない。だから、大学を出た若い記者が警視庁に廻されると、口惜しさに泣いたものである。だが、この赤ダネ記者達は、みんなよくシャレがわかり、ユーモアがあって、雑然たる記者倶楽部は明るかった。昨今の新聞を見て、しみじみ思うことは、記事にも見出しにも、シャレや、ユーモアが少なくなったことだ。昔は赤ダネ記者が随分流行語をつくり、見出しがそのまま、映画の題名になった。

 話がちょっと横道にそれたようですが、この事件に関係があるので、当時の赤ダネ記者気質をちょっと披露した次第です。事件が起ると各新聞とも、毎日の紙面がこの話で持ちきりであったことは前述の通りである。ところで、この事件を「バラバラ事件」とつけたのは確か朝日であった。毎日が「八ツ切り」それから、どこかの社か「こまぎれ」事件とした。この3つの中では、朝日のバラバラがいかにも残忍な殺人事件の扱いに、一脈のユーモラスを感じさせ、筆者なども、してやられたと地団駄踏んだものである。果せる哉、後世まで、玉の井殺人事件と云えば、「ああ、あのバラバラ事件だね」と人口に“かいしゃ”するに至った。

捜査は難航、そして捜査本部解散

 さて、事件は、死体発見の3月7日以来、寺島署に捜査本部をおいて大がかりな捕物陣を展開したが、犯人はもとより、被害者の身許さえも、さっぱり見当がつかず、捜査課長もすっかり疲れて、頰がげっそり。毎日本部を出る刑事の靴音も重く鈍ってゆく。

 4月28日――発見の日から数えて53日目。浦川署長は寺島署2階の会議室に捜査関係者を集め、捜査本部解散の悲痛な挨拶をした。これで、さしも、騒いだ怪奇事件も迷宮に持込まれるのか――人々の関心も日が経つに連れ、記憶から薄れて行った。世間では、次ぎから次ぎへ目新しい事件が湧き起っている。社会はいつまでも、おはぐろどぶのように沈滞してはいない。

探偵に作家に 犯人逮捕に懸賞金「大枚の500円

 世間が忘れかけた時が、捜査当局のいちばん苦悩する時であり、新聞記者もいつ事件が新発展するかも知れないと云う不安に襲われて緊張する時である。素人探偵の活躍がはじまり、玉の井の銘酒屋街から、犯人逮捕の殊勲者に当時としては大枚の500円の懸賞金が出た。探偵作家陣の売れっ子、浜尾四郎子爵、正木不如丘博士、森下雨村氏、牧逸馬氏など新聞雑誌社から引っ張り凧であった。

 毎日新聞警視庁担当記者に楠本義郎と云う男がいた。今は他界したがこの男は「事件の虫」だった。蓬頭垢面ひょうひょろっとして一見弱いように見えながら、芯が強く、一度事件が起ると、覚醒剤の注射をしたように全身に生気が吹き返って、その事件が片づくまで、精根の限りをつくして働く男だった。犯人捜査は刑事よりもうまくて、新聞記者と云う職業意識を忘れて、いい聞込みがあると〆切時間もなにもかも忘れて没頭し、2日も3日も本社へ連絡をとらないような男だった。楠本から連絡がなくなると「そらァ、またはじまったぞ」とデスクが顔を見合せたものである。そんな風だから、〆切間際にトップ記事がなくて弱っている時など、楠本をデスクへ呼んで「おい、何か一つ出せよ」と水をむけると上衣の内ポケットから、くちゃくちゃになった手帳を出して、けちん坊がが惜しそうに物をくれるような恰好で、特種を出したもので、当時の警視庁から捜査係長にとの内交渉をうけたほどの変人奇人だった。

「迷宮入り?」からスピード解決へ 楠本が推理した“犯人像”

 この楠本が「迷宮か」の烙印を押されてから、俄かに活気づいて、例の調子で鼻をくんくん鳴らし、にんにくのくさい息を吐きながら、何かを目当てに動いていた。彼の捜査メモによるとおはぐろどぶで発見された首と胴の包みは、重量にして7貫匁ある。これだけの重量のものを1人で運んできたとは思われない。重い方を男だ、軽い方を女が持つと云う男女2人の共謀の犯行でないか。一人を女と推定する理由は、包に附著していた髪の毛、帯芯のような紐などからの推理である。そして、犯人と被害者は生活環境があまりよくない。下町の貧乏世帯と睨んだ。そのわけは、包に鰯の鱗がついていた――おそらく、火鉢で鰯の焼いたのを食べ、傍に猫がいて、火鉢の周囲で被害者の油断を見すまして、犯人の男が殺し、犯人の女がこれを手伝って、死体の始末をした――そんな風に事件解決への構想を組立てて、この線に沿って、彼一流の捜査をつづけていた。

 時は容赦なく流れ去って、事件から8カ月目の昭和7年10月19日、さしも難事件といわれたバラバラの糸がほぐれて、被害者の身元判明から犯人検挙へと――急転直下スピード解決へ持ちこまれた。

兄弟妹3人がかりの犯行 “ミスターバラバラ”は秋田の男性だった

 犯人は本郷区新花町3番地無職長谷川市太郎当時31歳、共犯は市太郎の弟で帝大土木科写真室雇をしていた長太郎当時23歳、それに市太郎の妹で銀座裏カフェー銀鈴の女給をしていたとみ子当時30歳の3人である。被害者ミスターバラバラ氏は原籍秋田県仙北郡花館村南裏手240番地当時住所不定の浅草ルンペン千葉竜太郎当時30歳と判った。

 兄弟妹3人がかりで、どうしてエンコのルンペン千葉竜太郎をかくも残忍な殺し方をしたか、当時の陳述記録の跡を辿って見る。この陳述は、多くの犯人がそうであるように、彼市太郎の場合も第1回目の陳述と、その後の陳述でいろいろ喰違いが出来たり、最初の陳述は口から出まかせの嘘でかためている。

 しかし、それが問いつめられるままに、事件の真相を語って、最後に恐れ入りましたとなる自白の定石型であった。従って第1回の陳述と、その後では違っているが、一応、話として興味あるので、まず、第1回の陳述から要点を拾ってゆく。

犯人と被害者の“感動の出会い”

 犯人市太郎は警視庁調べ室で被害者竜太郎と知り合った動機をつぎのように述べた。

 昭和6年4月末のある日、妹のとみ子から浅草公園花屋敷の入場券を貰ったので、花屋敷へ行こうと公園六区木馬館の前を通りかかった。木馬館からジンタの哀調を帯びたクラリオネットとらっぱ、太鼓の音が幟や旗のはためく街に流れていた。見るともなしに、木馬館手前の道端に眼をやると、一人のルンペンが10歳位の女の子供に泣きせがまれて途方にくれている。

「お父ちゃん、お腹がすいたよゥ……」女の子は腹の底から絞り出すような声である。可哀想になって、市太郎が傍に寄って事情を聞くと、このルンペンが涙ながらに、家内に死なれ、自分も病気で失業し、娘を連れて路傍をさまよっていると語った。市太郎自身もよく知っている貧乏の辛さ、すっかり同情して現金50銭と煙草の朝日2個、娘にバナナを一と山買って与え帰宅した。家へ帰ってこの話を母親ふみ当時62歳に夕餉の膳に向いながら聞かせると、年老った母親も「そりゃあ、いいことをしたね。人間出来る時に人助けをしておくものだよ」と云って伜の市太郎を褒めてやった。翌日は母親がむすびをつくって浅草に出かけ『一直』の前で市太郎の話したルンペンに出会いむすびを与えた。それから、母親と市太郎ととみ子の3人が交替で毎日浅草のルンペンへ食物を運んだ。ルンペンの娘の菊子当時10歳は3人の妻を遠くの方から見つけて「おじさんが来たよ……」とうれしそうに可愛い声を出した。

 ルンペン竜太郎親娘と、市太郎一家の間に親しさが湧いて、間もなく竜太郎親娘は、市太郎の家に引取られて居候の身となった。とみ子は姙娠して男から捨てられ市太郎の世話になっている身の上だった。いつしか一つ屋根の下に起居するとみ子と竜太郎の間にかすかな恋の芽ばえが見えてきた。とみ子が難産で輸血しなければならなくなった時、竜太郎は喜んで自分の血をとみ子に輸血した。2人の恋はそんなことから急テンポに発展して、産後しばらくして結婚した。生れた赤ん坊には清と名づけた。

子どもを殺して舌打ちした竜太郎に「このままでは一家皆殺し」

 竜太郎の健康もよくなって、汐留駅の駅夫になったが怠け者で永続きがせず、魚屋をはじめると云うので、道具を買ってやったが、これも三日坊主で駄目。温順そうに見えた性質がだんだん本性を現して兇暴となり、狭い家の中で険しい眸の対立、喧嘩口論の絶えない日がつづいた。竜太郎は市太郎の家に引取られてから1年の間に、生活費として家に入れたのは、たった3円50銭きりであった。とみ子の産んだ清を邪魔物扱いにして、虐待し、逆さに吊して、ふり廻すような仕打ちさえあって、清は遂に衰弱して死んだ。こんなことから、とみ子は竜太郎をひどく怨み憎むようになった。

 昭和7年2月13日午後3時頃、とみ子が仏壇に手を合せて南無阿弥陀仏を唱えていると、竜太郎がその姿を見て、舌うちをして凄い形相になった。その凄い形相に市太郎は、背筋にぞっと冷めたいものを感じ、このままでゆくと一家皆殺しにされるのでないかと思った

 そこで、傍の火鉢の中にあった裁縫用のコテを握って、不意に竜太郎の頭を力まかせに一撃した。竜太郎はうーんと唸って悶絶した。母親ふみは、この喧嘩を見るのが嫌で菊子ととみ子を連れて外出した。その後で市太郎は死体を大風呂敷に包み台所の揚板の下に隠し、畳についた血は灰で拭きとった。夜11時すぎ母親ふみ達が帰ってきた。母親には「竜太郎とは話をつけて国へ帰した」と云い竜太郎の娘菊子には「お父さんはすぐ戻るよ」と云った。それから、2月20日まで1週間死体をそのままにしておき、20日朝家人を外出させ死体を引きずり出して押入れの中で骨を鋸で挽き八つ切のバラバラに始末した。翌21日にも家人を外出させ、胸と腹、腰と云うように処置してすっかり包装をすませ、台所の揚板の下に隙した。

 3月6日午後9時、首と胴の上、下体を風呂敷に包み、本郷本富士警察署近くの伝承院前から50銭の約束で円タクに乗り玉の井に行っておはぐろどぶに捨てた。3月10日に残りの部分を帝大内工学部船舶科教室新館北側にある旧土本科教室2階の旧測量実験室の1尺4方のアゲ蓋の中に隠した。

「この足が母を蹴ったのだッ。そして妹の子を殺したのだ」

 以上、第1回陳述では、犯人はすべて市太郎1人となっている。ところが、第2回以後の陳述では、市太郎がスパナで一撃し、弟長太郎がバットで乱打、とみ子は表で見張りをしていた。犯行に使用の兇器は長太郎が帝大から運んできたことに変った。検事は市太郎、長太郎を殺人、死体損壊、遺棄罪、妹とみ子を死体損壊、死体遺棄罪で起訴し、公判もこの罪名で開かれた。云うまでもなく、とみ子は死体を兄市太郎と2人でおはぐろどぶに捨てに行ったのである。

 犯行の動機、殺害方法、処置などにも、陳述の都度、いろいろ変化し紆余曲折がある。例えば、殺害の場面でも、芝居がかりに、電灯料の滞納から電灯がとめられていたので、ろうそくの灯の炎が揺れる中で、市太郎が復讐の怒りに狂い、眼を怒らせて、死体をバラバラにする作業をつづけ、手を鋸で挽きながら「この手が俺を殴ったのだッ」「この足が母を蹴ったのだッ。そして妹の子を殺したのだ」と憤怒のほむらに燃えたち、惨忍な兇行も、少しも恐ろしいとは、思わなかったとも語っている。

 竜太郎を殺した動機は、もちろん、こうした憤怒の爆発にもあったが、一面、竜太郎が郷里秋田の素封家だが事情があって今は落魄していると云うような物語をしたので、世話をしておいて、竜太郎の財産を奪おうとしたのが、郷里を調べた結果、竜太郎のつくり話で田舎には財産の全くないことが判ったこと、また、とみ子が銀座のカフェーで働く前、玉の井の銘酒屋の酌婦をしていたこともあり、行く行くは竜太郎を殺して菊子を売るつもりであったかも知れないとも云われている。

“事件の虫”楠本が語った事件のキーワードは「鰯の鱗」

 市太郎は福井県大野郡郡町の生れで父は建具職で彼も家の業を継いで建具職で腕もよかった。大正3年金沢野砲九連隊に入隊し上等看護兵で除隊した。上京してからは、器用な男で春画を書いて浅草の暗闇で通行人に売り歩いて生活費を稼いでいた。最後に市太郎逮捕を記そう。

 水上署管下の枕橋水上派出所石賀巡査が言問橋附近でルンペンを集めて、被害者のモンタージュ写真を見せて、この男に覚えはないかと尋ねていると、居合せた2、3人のルンペンが、この男は10歳位の娘を連れた千葉竜太郎と云う男と証言したのが端緒となって、索線の糸を手繰ってゆくと、竜太郎が市太郎の家に世話になり、あの事件の頃から、姿が見えなくなったなどによって、市太郎に疑いがかかり逮捕となったものである。

 こうした事件は、被害者の身元が割れさえすれば犯人は、糸を手繰るように判るのが捜査の常道である。「事件の虫」楠本は、その直後、例の手帳をとり出して、鉛筆の先を舐めこの事件で、自分の勘の通りピッタリ適中していた点、自分の勘と実際が違っていた点などを克明に分析して、彼一流の捜査資料をつくっていた。そして、筆者がその手帳をのぞきこむと、ニッコリ笑った彼は、

「鰯の鱗の勘は、名探偵だったな。火鉢の上に金網を乗せ、その上で焼けた鰯を皿にとらずに、熱いやつをふうふうふきながら食うのは、東京の下町の貧乏世帯の夕餉時によく見る風景だよ。俺の勘にもいいところがあるね……」と鼻をくんくんさせたが、その警視庁記者会の名物男も今はいない。もう、こんな赤ダネ記者は、2人と出ないであろう。

(北条 清一/文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件)

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