最近、「安楽死」という言葉を、肯定的にとらえる人が増えているように感じる。「治らない病気により耐えがたい苦痛があるのなら、本人の死ぬ権利を認めるべきではないか」「認知症や植物状態になって周囲に迷惑をかけるようになったら、その前に死を選びたい」的な意見が、じわじわと大きな声になってきているような気がしてならない。

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 実は私自身、そう考えるところがある。だが安楽死や終末期医療について勉強したり取材したりするにつれ、その考えが揺らいできた。

 日本語の「安楽死」はそもそもギリシア語Euthanasia「善き死」を訳した語だそうだが、日本語の「安楽」は「心身に苦痛がなく楽なこと」(広辞苑)を指す。こちらも元をたどれば仏教用語でサンスクリット語の「sukha」が原語とされ、安らかで心地よい状態、つまり幸福にあたるとされている(岩波仏教辞典より)。

 では、安楽死は果たして「安らかで楽な死」なのだろうか。そんな人生の終焉はあり得るのだろうか――。

 そうした疑問を、「より良い生き方」の専門家でもあるお坊さんに聞いてみたくなった。そこで、曹洞宗の“シンクタンク”である「曹洞宗総合研究センター」(港区)を訪ね、同センターの研究員で僧侶でもある古山健一氏、宇野全智氏のお二方に話を聞いてみた。

(聞き手・構成:坂元希美)

――「安楽」という言葉は仏教から来ているそうですが、僧侶の方はこの言葉をどういう意味と理解しているのでしょうか。

古山健一氏(以下、古山) 確かに「安楽」は仏教の経典にある言葉で、その意味は、安らかで楽という意味です。ただそれは、単なる心地よさや快楽ではなく、修行の果てに経験する悟りという心の境地がもたらす状態を指します。苦痛が無いこと=安楽ではありません。だから私は、この言葉が「死」という言葉とセットになっているということが、よく理解できません。

――積極的に寿命を縮めることを選ぶ安楽死について、仏教者としてどのように感じていますか。

古山 仏教の開祖であるお釈迦様の死をご紹介したいのですが、彼は80歳で亡くなったと言われています。当時の仏教者は場所を定めて活動するのではなく、移動しながらその先々で教えを説いていました。高齢で体に不調もあったでしょう、釈迦は最後の旅で食中毒になったと言われています。つき従っていた弟子たちが肩を貸そうとしても断り、ゆっくりとできるところまで歩き続けていこうとしました。そんな状態で旅をする必要はなかったかもしれないし、楽にしてあげる方法があったかもしれません。けれども、ゆっくりと歩みを進めていって、ついに林の中で力尽きて横たわり、亡くなったのです。息を引き取る瞬間までは生きているわけだから、その中でできることを精いっぱいやるという生き方をされた。それが悟りの境地であり、私たち僧侶の模範となっています。しかし、「安楽死」というのがその人の悟った境地だとは、私には思えないのです。

命は誰のものか

――しかし現代を生きる私たちは、病気などで余命を告げられたりすれば、たいていは「安静にして治療に専念しなさい」と言われます。そうなったとき、自分のやりたいこともできないようになってしまっていたならば、それは生きていると言えないのではないか、とも思うのです。そのときに安楽死という選択をすることも、仏教的にはノーなのでしょうか。

古山 命は誰のものでしょうか? 一般的には「自分のもの」と考えられていますよね。自分の命、人生、存在そのものを「私」とか「自分」と言っているけれど、では自分とは果たして何なのか。私の体、私の心は私のものだろうかと問い続けていくのが仏教で、そうではないということを発見すると、開放感や、自由になったという感覚を得るのが悟りだと言われます。

「私の命」という言い方は、命の外側に私が置かれている、分離されているような気がします。主と従、あるいは所有者とその持ち物のように。その生き方は重苦しく、人生のいろんな場面でストレスになりそうですね。私と命の関係を考えていくと、本当は「命の私」であって、私は命の一部にすぎないのではないでしょうか。「私」を「命の内側」に戻すことが、悟りではないかと思います。

――釈迦が歩き続けたのは、自分がやるべきこととか、やりたいことをするためではなかったのでしょうか。

古山 逡巡はあったと思います。でも、このへんで死んでしまってもいいかなと考えるのは、「外側にはみ出した自分」です。修行による力もあったでしょうが、分離しようとする自分を内側に引き戻し、自戒しながら最後の一歩まで歩いておられたということでしょう。

――そういう仏教の考え方からすると、安楽死は命や自分というものが「私のもの」であるという前提で、私に主導権、選択権があるという感じがしますね。

古山 インドの出家者の戒律には「人を殺してはいけない」という項目があります。お釈迦様はある出来事をきっかけに、直接手を下す殺人だけではなく、死にたいと言ってきた人に「それは無理もない、死んだ方が楽でしょう」と言ってしまうことも殺人に当たると追加しました。

 約2600年前のインドでのことです。刑罰によって手足を切断された子どもの両親が、「かわいそうで見るに忍びない、どうしたらいいでしょう」と釈迦の弟子に尋ねました。その弟子は、「子どももあなたたちもつらいのだから、いっそ殺してはどうか」とアドバイスしてしまったのです。そして、その両親は自らの手で我が子を死なせてしまいました。その話を耳にしたお釈迦様は、弟子を呼び出して皆の前で厳しく叱り、今後は殺人と同等の処分を下すと言い渡しました。

 私は、現代の安楽死もその戒律に含まれるのではないかと思います。一般の人たちの心情、苦悩はわかるけれども、仏教者としては「では楽になりましょうね」とは口が裂けても言えません。

宇野全智氏(以下、宇野) 僧侶が人を殺してはいけないというのは、人の修行の機会を奪うからということでもあります。

古山 それもありますが、悲惨な状況であってもその子の命はその子ものではない、ましてや他人のものではない。家族がどうこうできるものではないからだと思います。

――もし、その手足を切断された子が殺してくれと言ったとしても、家族が見るに忍びないから死んでくれと願ったとしても、仏教者は認めてはいけないのですね。

古山 仏教においては人為的に死をもたらすのではなく、命のままに任せましょうと考えます。ただし現代では、科学技術の進歩によって変わっていくことになると思いますけれども。

命の苦しみは宗教者もサポートできる

――医療の進歩によって平均寿命がさらに伸び、治る病も増えるでしょう。以前は「80歳を過ぎればそのうちお迎えがくる」と誰も思っていましたが、それもわからなくなってきています。高齢でも身体的に苦痛が無い、という人が増えるのかも知れませんが、そうなったらそうなったで、そこからの人生が長すぎて、さらに不安を抱えることになるかもしれません。

古山 仏教に身を置くものとしては、できるだけそういったことにも関わりたいと思います。お医者さんのように薬を処方することはできませんけれども、メンタルの部分をサポートしながら、苦しみを苦しみと感じないようにする、命の時間が少しでも充実して、その人が生きていけるようにできればと思います。宗教者だけでなく、周りの人もそのように振舞っていけたら、命を放棄せず自然に任せた生涯を送れるのではないでしょうか。医療者など専門家と連携して、向き合っていくことができるように思います。

――重い病気で治る見込みのない人、余命宣告されたような人の中には、「残り少ない命を自分の好きなように生きたい」と考える人もいるでしょうし、医療者側の中にも「単に生きている状態を延ばすのではなく、QOL(生活の質)を高めよう」と説く人も増えています。それらは先ほどの「命のままに任せる」という考え方と一致しないものなのでしょうか。

古山 当事者の意思表示や家族などとの関係性などによって、どう判断するのがベターなのか違ってくるでしょう。ただ、自分だけの判断で死を選ぶというのは、安直になってしまうと思います。人間の死というのは非常に重いことですから、ある限りの時間を尽くして、それでいいのかとよくよく考え、多くの人と対話する機会をもって、その果てでなければと思います。いっときの感情や話の流れで決めてしまうことではないですよね。

 やれることを尽くして、「それでも安楽死を」とおっしゃるのなら、残念ですが止めるのは難しいですね。でも、ぎりぎりまで考え続けてもらいたい。

宇野 最近は「自己決定にこそ意味があり、そこに価値がある」という風潮が強いように思います。たとえば、臓器提供の意思表示カードは、提供してもよい臓器に丸を付けていきますよね。角膜はいいけど腎臓は嫌だなとか、自分で選びます。その選ぶという行為が意思決定であり、本人の意思を尊重していますよと。しかし私はそこに、はかなくて弱い個人の意思に押し付けられているような気持ち悪さを感じてしまいます。

――個人の意思というのは、はかなくて弱く、確かなものではないということですか?

宇野 意思は変わるものですし、変わっていいのです。「やりたいことをやる、やるべきことをやる」というけれども、それが無くなったら生きている価値が無くなるのでしょうか? お釈迦様は最後まで歩いていたけれど、是が非でもたどり着くべき目的地があったわけではないと思います。ただ歩いただけのことなんです。

「一瞬の幸せ」という「仏の時間」に気づいてもらう

――私は「やりたいことがない人生、あるいはやりたいことができない人生は意味がない」と思っていた時期があります。私ひとりがこの世からいなくなっても構わないでしょう、誰にも迷惑かけてないでしょうと考えていました。特に、命にかかわる大病を患い、心身の苦痛を抱えていたころです。その考え方を他人に当てはめると優生思想に結び付きかねないのに、自分だけに向いている時は「問題ない、不自然じゃない」と思っていました。

古山 苦しんでいる当事者にアプローチする際には、偏見や先入観といった押しつけがたくさんあります。それを壊していくことが大切ですね。苦痛、苦悩を本人だけの問題に帰していくと、その人は生きづらくなる。命に任せて、命自体が止まるまで生かしていくという立場を取るのならば、周りの障壁や足かせを壊す、解消する努力を同時にしていかなければならないでしょう。その人らしく振舞えるよう、可能な限り実現するようにできたなら、安楽死以外にもう少し考えようかなと幅が広がるかと思います。一方的に「安楽死は良くありません」と言ってもだめでしょう。

 こと仏教では、人間の価値の重さを、「その人が何であるのか、何をしているのか、何を目的にしているのか」ではなく、「存在している」だけで平等に価値があるとしています。「病人だから、健康だから」とは見ないはずなのです。

宇野 曹洞宗の教義である『修証義』第5章30節に「徒らに百歳生けらんは恨むべき日月なり、悲しむべき形骸なり」と出てきます。ダラダラと100歳まで生きても大した価値は無いけれど、たった1日でも仏としての時間が持てたら、100年とそれ以上も生きたような価値があるという文章です。あと何年生きるのだろうと多くの人が考えるだろうし、もう閉じてしまおうと思うこともあるでしょう。自分は社会から必要とされてないと自殺を考える人もいるでしょう。でも、生きていてよかったという瞬間、たとえばだれかにありがとうと言われたとか、この人と話してよかったとか、それがあればいい。その一瞬が一生の価値があるということです。私は、いつもこの教えにすごく励まされます。

 以前、余命1カ月のガン患者さんにご家族から頼まれて面談したことがあります。社交的な女性で、PTAの役員をするなど活躍してきた方でした。それが今までできたことができなくなるし、多くの人に愛されていた人なのに孤立を感じておられました。あと1カ月と言われて死ぬのが怖いし、その1カ月を生きていても、いいことがなにも想像できないとおっしゃっていた。

 私は、「1日の中で『これは幸せだな』と思う瞬間がないですか?」と尋ねました。すると娘さんが毎日来てくれて、30分くらい足をマッサージしてくれる、その時間がとても幸せだと言われたんですね。1時間ほどの私との面談も幸せな時間だったと言われて、それが宗教者として僕はすごく嬉しかった。死んじゃダメ、なるべく1日でも長く生きてという応援ではなく、結局人は死んでいかなければならないけれど、この1日いちにちを生きていきましょうという僧侶の立場での応援が通じたと感じました。

 お会いしたのはその1回きりで、本当に1カ月ほどで亡くなりました。でも、彼女の人生の中であの時間に意味があっただろうと思います。僕の力ではなく、宗教という考え方に接したことや、身近な娘さんの行為が「幸せなこと」という関係性に気づいてもらえたことですね。

――確かに、「いいこと」というのは、誰かに尋ねられないと気づけないことかもしれません。

宇野 障壁や足かせを取り除けず、幸せな瞬間に気付くこともないままに安楽死を選び、スイスに行って遂行することは、何かひとつのミッションのようです。死をもって幸せが達成されるということに、僕は違和感を覚えますね。死ぬまでは生きているのだから歩みを続けて、自然に至るのが死だとわれわれは考えていますから。

古山 よりよく充実して生きる中で折々に達成があるのは意味がありますし、仏教ではそのために努力しなさいと教えます。しかし、達成の対象が死となると、その先はありませんからね。

自分も他者も、未来の誰かも傷つけていないか

――では、意味のある死はないのでしょうか? 極端な例えですが、太平洋戦争での特攻隊員は、その死によって家族や仲間の幸せを願い、よりよき未来への希望を託しました。彼らの死も意味のあるものではないのでしょうか?

古山 仏教では、「死」を賛美することはできません。周りの人のためという目的があったとしても、死に価値があるとは考えません。自分だけのために、あるいは自分をほったらかして他人のために、というような偏ったことは、よくないのです。

――利他的な行動や自己犠牲も、よくないことなのですか?

古山 自己犠牲はよしとしませんね。偏っているということは、迷いの世界にいることです。安楽死することが本当に自分も他人も傷つけていないか、未来の人たちも含めて利益をもたらしているだろうかと虚心坦懐に掘り下げていくと、矛盾やほころびが出てくるのではないでしょうか。

「死」というものは、元に戻せないのです。世の中のたいていのことは代替があったり償いができたりしますが、死んだ人はその後のことを確認できないし、責任も持てないですよね。それが残された人や未来に禍根を残す可能性があるので、深刻な問題になってしまうでしょう。

宇野 やはり自分だけの命ではないということなんです。自分も周りの人も、世界も含めての命であると。私の命は、家族の命でもある。だから、家族の気持ちをおろそかにしてはいけないし、家族も当人の気持ちをおろそかにしてはいけないと思います。

古山 手足を切断された子どもの話は、まさにこのことなんです。その場いっときの苦しみは解消されるかもしれないけれど、家族や親族、コミュニティも含めての命なのだから、殺すことは許されないとお釈迦様は考えたのです。だから、厳しく叱った。

宇野 お釈迦様、厳しいですよね。

古山 私も最初にこの話を読んだ時は、冷たい人だなあと思ったんですよ。けれど、深く考えていくと、苦しんでいる子を殺してしまうことは、自も他も傷つけないという教えからずれてしまうんです。不憫な子を殺した両親が傷つかないわけがないし、それを見ていた周りの人、助言をした僧も傷つく可能性がある。宗教者は、この子が生きている中で何が苦しくて何に困っているのかということを問いかけることこそが求められるはずなのです。そうすれば、傷つく人が少なくなる可能性がありますね。

宇野 たった1日でも身命、体と命が充実して生きられれば、100年の価値を超えます。「大学受験に失敗したらそこそこの人生しかないよ」とか、「定年退職したら生きる意味はあんまりないよ」と言われてしまう世の中で、この考え方は大きな助けになると思います。嬉しいとか楽しいだけではなく、その瞬間を「仏として生きられた」と思うこと。それは、今日の私はまんざらでもなかったな、ステキだったなと思えることでいいんです。過去と比べたり、足し引きするのではなくて、この一瞬を仏らしく生きられれば、納得ができるでしょう。

絶えず疑い、問い続けて生死のバリエーションを増やす

――人は、自分や他人に納得できない時に、不幸を感じてしまうと思います。病気になると、その症状や余命に納得できない、病人という社会的な立場に納得できないという状態になりますよね。

宇野 納得は生きる意味と直結します。それは、宗教が提示できるポイントだと思います。

――私たちは納得のしかたをたくさんは知りませんが、宗教者にそのポイントを教えてもらうことはできるのかもしれませんね。さきほど紹介していただいたガン患者さんは、「自分は何もできないのに娘に足をもんでもらって申し訳ない」としか考えられなかったけど、僧侶によってそれが「幸せな時間だった、ありがとう」という気持ちを引き出すことができたわけですよね。

宇野 曹洞宗の中にも道標となる教えはたくさんありますが、その中でも生きるとは何なのか、死ぬとはどういうことなのか、ということをまとめてわかりやすく示しているのが『修証義』です。多くの人に目を通していただき、そこに幸せに生きていけるヒントを見つけていただけたら嬉しいですね。

――最後にもう一度うかがわせてください。「安楽」とは何でしょうか?

宇野 安楽は、状態のこと。生も死もつながった1本の地平の上で、生きていくことも死ぬことも恐怖や苦しみでないこと。続いていくことが、安楽に生きて安楽に死ぬということです。

古山 赤ちゃんが生まれると「おめでとう」と言いますね。でも、誰かが亡くなる時にそうは言いません。私たちは長年の習慣や蓄積で、死が悪いもの、怖いものだと認識しています。だから、苦しい病が恐ろしかったり、逆転して死がすばらしいもの、生がおぞましいものと思ったりするのかもしれません。頭に染み付いている常識が絶対のものなのか、疑ってみることが大切だと思います。今まで思ってきたことを、問うてみましょう。

 医療が進み社会が変わっていく中で、生死についても絶えず疑い、問い続けること。そうすれば生死のバリエーションも、安楽のバリエーションも増えていくでしょうし、自分で決めつけること、他者から決めつけられることから解放されると思います。もしかしたら、生死とは、二択ではないのかもしれませんよね。

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