
Point
■イスラエルの聖地エルサレムに、2000年ほど前に建設された「地下道」が発見される
■全長600m、道幅8mもある巨大な地下道は、2つの聖地「神殿の丘」と「シロアムの池」を繋いでいた
■地下道は、巡礼者の儀式的な用途のために建設された可能性が有力
世界最古の都市の一つ「エルサレム」に、地下道が発見されました。
テルアビブ大学とイスラエル考古学庁の共同研究によると、地下道の建築年代は今から2000年ほど前の紀元17-30年頃に遡るとのこと。地下道は、全長にして約600メートル、道幅は狭いところでも8メートルはある巨大な造りになっています。
さらに地下道の建設者は、イエス・キリストを処刑した張本人であることを示す証拠も発見されました。
一体この地下道にどんな秘密が隠されているのでしょうか。
研究の詳細は、10月21日付けで「The Institute of Archaeology of Tel Aviv University」に掲載されています。
https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/03344355.2019.1650491
2つの「聖地」を繋ぐ地下道
地下道自体は、1894年にイギリス人考古学者によって発見されていました。しかし当時、エルサレムの地下を掘り進めるのは問題とされ、そのまま放置されていたのです。
2013年にようやく現在の研究チームが発掘を開始。その結果、地下道はエルサレム旧市街地にある「神殿の丘」と「シロアムの池」の2地点を繋いでいると判明しました。
2つのモニュメントは、それぞれユダヤ教徒とキリスト教にとって重要な聖地として知られています。

「神殿の丘」は、ユダヤ教徒とイスラム教両方の聖地であり、紀元前10世紀から建設と破壊が繰り返されてきました。紀元後690年に建設された「岩のドーム」は今も現存しており、西側の外壁はユダヤ教の聖地である「嘆きの壁」となっています。
一方の「シロアムの池」もキリスト教の新約聖書に登場する重要な場所で、イエスが盲人を癒した地として記されています。
では、この2つの聖地を地下で繋いだ理由とは何だったのでしょうか。
地下道の建設は「巡礼者の儀式」のためか
研究チームは、これを地下道を建設したのは当時のローマ帝国のユダヤ総督「ポンテオ・ピラト(在任26-36年)」ではないかと推測しています。
ピラトは、あのイエス・キリスト(BC4-AD30頃)を死刑に処した張本人として知られている人物です。

地下道の建設時期やその建設者を明らかにしたのは、地下道の床石の下から100枚ほどのコインでした。
コインの鋳造年代は紀元後17-31年で、一方、ピラトがユダヤを統治していた時期は26年〜36年です。つまり、この地下道が建設された時期と、ピラトがユダヤを統治していた時期は一致していることになります。
建設者の名前でピラトが浮上するのは自然なことでした。

研究チームのドナルド・アリエル教授は「中には鋳造年代が記されているコインもあり、紀元30年以後であることは確か」だと指摘します。
「当時のエルサレムで最も流通していたコインは、紀元30年から約10年後のものです。それらが一枚も発見されていないということは、地下道の建設がそのコインの鋳造以前、つまりピラトの時代であることはほぼ間違いないでしょう」と説明しました。

また、地下道の建設理由にも有力な仮説がいくつかあります。
最も可能性の高い説は、聖地を訪れた巡礼者により儀式的な場として使われていたというものです。
同チームのモラン・ハギビ氏は「2地点間を繋ぐという単純な理由で、わざわざ地下道を建設することはありえません。道幅が8メートルもあること、さらには、床が石版で豪華に舗装され、装飾品や演壇のような段差も見られることから、何か特別な儀式に使用されたことがうかがえる」と指摘します。

他には、ピラトがローマ帝国の絶大な権力を地元民に誇示するために建設したという説も考えられます。
地下道の建設には、高度な建築技術と膨大な資源が必要であったことは一目瞭然です。ピラトは、大規模な建築プロジェクトを通じて、エルサレムに自身の名を広めたかったのかもしれません。
そして、「神殿の丘」から始まる道は、イエスが病を癒した場所「シロアム」へと繋がります。建設理由の一つに、イエスが関係していることも大いにありえそうです。

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