創作家の加藤さんが上野の東京都美術館で行われるグループ展に参加したのは3年前の3月上旬のことだった。

民間主催ながら1970年代から今日まで続いている規模の大きな美術展で、加藤さんは初めて出展することになったので、大いに張り切っていた。

それなりに緊張してもいたが、彼はアーティストとしては遅咲きで、すでに中年と呼ばれても仕方のない歳であり、自営業者として散々世間を渡ってきていたから、慌てることなく作品の準備を整えて搬入日まで漕ぎつけた。

朝早く、東京都美術館まで、梱包した作品を積んだ自家用車を自分で運転していき、駐車場で作品を台車に載せた。

その頃には、同じ展覧会に出展する他の作家も集まってきていた。お陰で初参加であっても迷わず搬入口へ行くことができた。皆の後についていけばいいのだから簡単だった。

東京都美術館は地下3階、地上2階だが、地下1階と地上1階の間にLB階(ロビー階)が挟まる特異な造りだ。建物内の構造はやや複雑で、エレベーターが8基もある。

搬入口はLB階だった。しかし出展者の集合場所は地下3階が指定されていたので、ガラガラと台車を押して下りのエレベーターに乗り込んだ。

そして地下3階の集合場所で展覧会のスタッフに自分の作品を展示する場所を確認してみたところ、そこは地上2階のどこかだとわかった。

階数と部屋番号を書いた紙を見せられたのだ。

だが、なにしろ初めてだから、そこへの行き方がよくわからない

古参の出展者たちに顔見知りはなく、彼に参加を呼び掛けてくれた画廊主は周囲に見当たらなかった。

と、そのとき、美術館の職員が着るような制服ふうの衣装を身につけた若い女性が目に入った。

「すみません」と、加藤さんは咄嗟にその女性に声を掛けた。

女性はすぐに彼を振り向いて、愛想よく「どうされました?」と応えた。

加藤さんは、彼女は美術館員に違いないと思った。そこで、今日行われる出展者であること、初めての参加で、自分の展示ブースの場所が部屋番号以外わからないことを伝えた。

すると、「ご案内しましょう」という応え。

「えっ、いいんですか?」

加藤さんは少し驚いた。集合場所は出展者でごった返しており、展覧会のためだけに来た画廊のスタッフならともかく、正規の美術館員が自分ひとりのために案内役を買って出てくれるとは、思いもよらなかったのだ。

「お忙しいでしょう? 道順を教えてくれたら自分で行きますよ」

彼は遠慮したが、女性はニコニコと微笑みかけてきて、「いいんですよ」と言った。

「私もそちらへ行くところですから」

「あ、そういうことですか……」

ついでということなら心苦しくない。

加藤さんはホッとして、彼女に連れていってもらうことにした。

女性は迷いのない慣れた歩様で地下3階の通路をどんどん奥へ進み、やがて「ここです」と告げて彼を振り向きながら、突き当りの角を右に曲がった。

そこには廊下が延々と伸びているばかりだった。

「あら? すみませんね。間違えました」

「エレベーターに乗って上に行くんですよね?」

はい。ごめんなさい。……こちらです」

そう言って左の方へ歩いていくので、方向を変えて台車を押しながらついていく。

少し進むと、廊下に横道が現れた。いかにもそこにエレベーターがありそうな気配だったが、女性は横道をヒョイと覗いて、「あれ、ここも違う」と呟いた。

「もう少し先です」

「本当ですか?」

その頃になると、加藤さんは不安を覚えはじめていた。

――本当にこの女の人は、美術館員なのだろうか?

どうも怪しい。それに、すでに搬入口の喧騒から遠く離れており、静かな地下の廊下で、若い女性とは言え見知らぬ人と2人きりという状況が、にわかに心細く感じられてきたのだった。

「あのぅ……せっかくここまで案内していただいて恐縮なのですが、戻りましょうか? 搬入口に引き返して、誰かに訊いた方が……」

「いいえ! もうわかりましたから!」

「……そうですか」

女性は自信たっぷりな表情で彼を振り返り、ウンウンとうなずいた。

「ええ。ほら、着きますよ! こっちです!」

そう言って、彼を手招きして、やけに狭い横道に導き入れた。壁に背中をつけて彼を先に通そうとするので、逆らわずにそちらへ台車を進めると、後ろから、

「ここを真っ直ぐ行って、道なりに曲がったところです」

と、説明された。

50メートルは優にありそうな廊下の突き当りに暗い壁が見えた。

あそこで廊下が折れて、その先にエレベーターがあるのだろう。

それにしても、変に薄暗い廊下である。おまけに、うっすらと黴臭い。

加藤さんは、もう女性を振り向いて口をきく気にもなれず、無言で台車を押していった。

やがて突き当りに着いた。案の定、そこで廊下が直角に左に折れている。

向きを変えながら、彼は後ろを振り向いた――「ここですよね?」と女性に確かめるつもりで。

けれども、そこには今来たばかりの狭い廊下があるばかりだった。

鼓膜がチーンと鳴るほどの静寂が満ちていて、人の気配がまったく感じられない。あの女性の姿も見えない。

左に廊下を折れた先には、四方が錆びた金属の扉があった。

モダンで美しい都美術館に相応しくない、古びた扉だ。加藤さんは台車を曲がり角に置いて、思い切って扉を開けてみた。

重量感が手に伝わった。防火扉のような重さだ。グッと力を籠めて開く。

……たちまち、黴臭いような饐えた体臭のような、なんとも厭な臭いに包まれた。

思わず掌で鼻を押さえて見渡すと、扉の内側はコンクリートが打ちっぱなしの空間で、奥が暗闇に呑まれていたが、ここもまた通路のようだった。

ただ、今まで来たところと違って、床に人々が横たわっているのだった。

いったい、何十人いるのかわからない。真っ黒に煤けたボロを纏った老若男女、中には子どものような小さな者も混ざった大勢の人が、直に汚れたコンクリートの床に転がっている。

その多くが、防空頭巾を被っていた。そして誰ひとり、身じろぎもしない。

加藤さんは、震える手で把手を握り直して、静かに扉を閉めた。

それから脇目も振らず、駆け足で台車を押して引き返した。集合場所に近づくにつれて、人の声や雑多な物音が聞こえてくると、安堵のあまり床にへたり込みそうになってしまったということだ。

 

「今にして思うと、怪しい領域では、自分の立てる音以外は無音でした。酷い臭いは嗅ぎましたが、人がたくさんいた通路にも、一切、音というものが存在しませんでした。どういうことなのか知りたくて、あの女性をその後ずいぶん探したけれど、結局、見つけられませんでした。最初、僕はてっきり都美術館の館員さんだと思い込みましたが、そうじゃなかったみたいです。あの人はいったい何だったんでしょうね……」

 

1973年に《東京空襲を記録する会》が編纂した『東京大空襲戦災誌』の1巻には、1945年昭和20年3月9日未明から10日にかけて東京の下町を襲った大空襲の被害状況がつぶさに綴られている。

それによれば、空襲で亡くなった大量の遺体を「都内の67ヶ所の公園・寺院・学校などに一週間がかりで仮埋葬」し、中でも現在東京都美術館のある上野公園の敷地内には8400体を仮に埋めたそうである。

東京大空襲では、1日で10万人以上という死者が出た。それに比べ、当時の火葬能力は1日500人程度。そこで犠牲者の亡骸は、大部分が下町の大きな公園に仮埋葬されることになったのだ。

総務省のホームページには、東京大空襲の慰霊碑《哀しみの東京大空襲》の紹介が載っている。

慰霊碑《哀しみの東京大空襲》は、平成17年3月10日に、戦後60年を記念して、初代林家三平の妻で作家の海老名香葉子さんを筆頭とする有志一同によって建立された。

大空襲の直後には、この慰霊碑の周辺も、無惨な遺体で埋め尽くされていたという。

「……翌日からこの上野の山には焦土と化した下町から夥しい数のご遺体が運ばれて来ました。この慰霊碑の付近の道端にも、米俵や筵を掛けられたご遺体が並べられたのです。

やがて、大八車やリヤカーを引いて、ご遺体を引き取りにみえる方もありましたが、多くのご遺体は身元不明のままでした。

そうしたご遺体は、この近くに巨大な穴を掘って、そこに仮埋葬され、二年後に改めて掘り起こされ、荼毘に付されたうえ、本所横網町の震災記念堂にお祀りされました。

無論、こうした東京への空襲はその後も続きました……」(慰霊碑《哀しみの東京大空襲説明文より抜粋)

 

加藤さんが東京都美術館の地下で見たのは、大空襲で被災した犠牲者の幻だったのだろうか?

いや、彼が誘い込まれた場所はすでに都美術館ではない異空間だったはずだ。

インタビュー後に、都美術館の地下3階について調べてみたが、彼が話したような迷宮じみた構造ではなかった。むしろ地下3階はこの建物の中で最も床面積が狭く、シンプルな造りであって、エレベーターもここまで降りてくるものは1基しかなく、迷子になりようがないと思われた。

長くて幅の狭い、ところどころに横道がある廊下や錆びた鉄の扉などは、存在しなかった。

不思議な女性については、私にも手がかりすら掴めていない。(川奈まり子の奇譚蒐集・連載【三三】)

 

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参考記事:古今蓮華往生 「2人して和やかにの不忍池の蓮の花を見つめたまま、スーッと遠のいていくんです――」|川奈まり子の奇譚蒐集三二 | TABLO

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