どこかの政治家、でも行政に一定以上責任があるらしい方面が「身の丈に合った受験」という言葉を使って話をしたとかしないとか、そういう話が聞こえてきます。

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 ここで言う「身の丈」というのは、経済状態を指す言葉です。あまりにもくだらなくて直接それに言及する価値はないのでここではそういう無駄は避けます。

 まず原則的なことですが、日本国憲法第26条1項

『26-1 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する』

 を引用しておきましょう。「すべての国民は」「その能力に応じて」つまり能力以外のいかなる要素にも束縛されず「ひとしく教育を受ける権利」を有します。

 そのため客観テストによる「能力試験」が実際される。入学試験に対する日本国憲法の基礎がここにあります。

 経済状況によって「ひとしく」なく教育を受けざるを得ないとしたら、憲法に抵触する、国民の権利の侵害にほかなりません。

 あれこれ、感情的な批判も目にしましたが、特にここで言うことはなく、単純に憲法違反ですから、それに応じた措置を取ればよい、以上終わりになります。

 私は大学入試を改革すること自体には、基本的に賛成です(同じような意味で、日本国憲法に手を入れることに、刑法の故・團藤重光先生は基本的に疑問をもっておられました)。

 しかし、改革は憲法と教育基本法の本質的な精神にのっとり何よりも平等に行われなければならない。

 これは絶対的な命題で、議論の余地など挟まるわけのない話、もし抵触することがあれば、違憲の疑いが間違いなく濃厚であるといえるでしょう。

 以下では、もっと学習の内実に即した論点を検討してみます。

 若い人が「身の丈にあったこと」などに終始したら、その社会は停滞し、やがて衰亡して必ず滅びます。

若者をうつ向かせるな!

 日本はすでに少子高齢化が避けられず、いわゆる古くからの日本生まれの日本人だけではやって行けなくなっていますので、早晩2つに1つの選択を迫られます。

●第1のシナリオは、新しい血が入りハイブリッド化してそれなりの経済規模を維持する

●第2のシナリオは、青年人口の減少に任せて社会経済規模が委縮し続ける

 いずれにせよ、今のままでは現状維持という選択肢は「未来の日本人」にはありません。

 今、10代、20代の人は西暦2100年を生きて迎える可能性がありますが、そこに現状維持の未来という可能性はあり得ません。

 「日本人」は必ず激減していきますから、国内でも、またグローバルバランスでも、明らかに今とは違う日本を生きざるを得なくなっている。

 2020年代の若者は、決して「身の丈」つまり、「自分の現在の経済状態はこれこれだから、その程度で・・・」といった生活設計や未来の描き方をすべきではないのです。

 放置しておけば日本全体の凋落、地すべりが避けられないのですから。

 状況は悪化の一途を辿ることが分かっている。積極的に夢や希望を持って駆け出して行く若い人を育てるのが、教育機関などに関わる持つ大人が負うべき最低限の責任と思います。

 今の社会経済状態はかくかくしかじかである。それよりも、もっと良い状態をどうしたら目指せるのか?

 そうしたことを積極果敢に考える若者が日本人の過半数を占めないと、ただでさえ少子高齢化、はっきり言えば「絶滅種」に近づきつつある日本に、どんな未来が描けるというのか?

 欧州各国は積極的に移民を受け入れながら、自国民の教育に大変力を注いでいます。これは「日経ビジネスオンライン<常識の源流探訪>」以来、何十回となく記してきたテーマの一つにほかなりません。

 デンマークドイツフィンランドルクセンブルクスイス連邦・・・。

 どこでも「自国民のクオリティを引き上げる」ことを、国策の中心に掲げています。決して「分相応」のようなことは言わない。

 そんなこと、教育事業の主体が言ってしまったら、もうただ単に亡国にしかなりません。

 今横行しているのは、米国由来の「教育の受益者負担」という極めて誤った商魂で、中曽根康弘政権期にレーガノミクスの一端として受け入れてから、この国の屋台骨を蝕み続けた、「国家のシロアリ」と思います。

 教育は、優れたものを、惜しみなく与えねばならない。また目標は高く持たせけねば意味はない。

「2メートルを飛ぼう」と思ってトライし、失敗し続けるから1メートル50とか60はクリアできて当然になる。

 それが最初から「1メートル程度も飛べれば十分、それが私の身の丈」なんていう若年寄ばかりになってしまったら、80センチも飛べなくなり、社会の未来は消えてなくなります。

 この常識を改めて確認するうえで。人が成長するためには「オーバーロード」負荷が必要という、あまりにも当たり前の大原則を記しておきましょう。

オーバーロードの大原則

 分かりやすいように「筋肉トレーニング」から話を始めます。

 筋トレで効果を上げたいと思うなら、軽いダンベルばかり使っていても意味がありません。すでに持っている限界のパワーを刺激してやることで、フロンティアが伸びて行く「過負荷=オーバーロードの原則」と呼びます。

 例えば、100メートルダッシュとか、長距離走などで頑張ったとしましょう。

 運動後、私たちは手足に痛みを感じることがあります。筋肉痛という誰もが経験する現象で、実はこのとき筋肉は傷つき、内出血などが起きていることもあります。

 でもこれは、私たちが生き続けていくうえで必要な「流血」で、私たちのゲノムはこうした小さな傷を補修しつつ、以前よりも強力にしてやることで、耐性のある、より強い身体を作り出しています。

 そのような能力を持っていなかったら、厳しい自然淘汰、適者生存の環境を、私たちの祖先は生き抜くことができなかったでしょう。

 よりハードな目標を持つから、私たちの底力はアップしていくのです。2020年は東京オリンピックの年ですから、五輪競技を考えてみましょう。

 世界記録があり、自分自身の「自己ベスト」がある。それらを念頭に、それを伸ばすように合理的な「過負荷」をかけてやることで、グローバルのトップアスリートは実力を伸ばしていきます。

 以前は「スポ根もの」が称揚され「気合い」でなんでも乗り切るような「体育会気質」が有効と勘違いされたりもしていたかと思います。

 しかし、今、世界でトップを目指そうと思ったら、そんな2流3流の方法では壁を打ち破ることなどできません。

 ちなみに私自身は芸術音楽のトップエンドで教育にも責任を持っていますが、方法的でない闇雲な練習では世界のどこでもすでに相手にしてもらえません。

 バイオリンチェロなどの弦楽器にはフレットがついておらず、以前は「音感があれば音程は取れる」みたいな根性ものでもプロになれました。

 しかし、20世紀後半にルネサンスからバロックにかけての時期の楽器「ピリオド楽器」の演奏(「古楽」)が普及してからは、そんないい加減な音程の取り方では全く通用しなくなりました。

 幸いこの種の教育の一つのメッカは東京にあります。しかし国内の音大受験大半は、いまだそのレベルにありません。

 根性ではなく、弦の自然な振動から正しくハーモニクスを導き出す、繊細な耳と身体、手を、指をもつべきで、そこに飽くなき挑戦があります。

 高いものを目指さなければ伸びるということは永遠にありません。

 スポーツも、音楽も、オーバーロードの原則は完全に当てはまります。しかし、完全に同じことが「勉強」にも成り立つという当たり前のことを昨今の若者は学ぶ機会を得損ねているように感じています。

 少子高齢化に伴う教育のサービス産業化への退廃など、指導環境の萎縮~教育のたそがれを指摘せねばなりません。

 優れた才能は、あらゆる社会的局面に均等に表れると考えるべきでしょう。明治維新を考えて見てください。

 人材は徳川慶喜松平容保などの大名、三条実美や岩倉具視などの公家ばかりではなく、勝海舟のような旗本、村田蔵六大村益次郎)のような村医者から大久保利通のような下級武士、足軽以下の半農家で生まれた山県有朋伊藤博文は完全に農家で生まれています。

 要するにいつの時代も、あらゆる社会階層から、人材は輩出するのです。

 出自は関係ない。しかし環境は決定的です。緒方洪庵の適塾や、吉田松陰の松下村塾という特定の教育機関が人材を生み出したのは間違いありません。

 これらの学窓は広く門戸を有為の青年に開放し、決して「身の丈」などということはありませんでした。もしそんなことがあったら、日本は西欧列強の植民地として食い物にされていたかもしれません。

 お城にも才能は生まれるし、質素な町屋にも・・・いや、むしろその方が多いかもしれません。ノーベル賞を受賞した科学者の中には、比較的経済に恵まれない、例えばユダヤ系移民の子などが非常に多い。

 私もお世話になったシドニー・ブレナー教授は南アフリカユダヤ系移民の子として生まれ、家は非常に貧しかったけれど極めて優秀だったので、教会と篤志家がお金を出して上の学校に進ませ、19歳で医学部を卒業しました。

 首席だったのでご褒美に2年間の世界遊学旅行を手にし(すばらしい褒賞です)それで訪れたケンブリッジで、DNAの2重らせん構造を発見する直前のフランシス・クリックと出会った若き日のシドニーは、「遺伝情報が書き込まれた染色体全体」を解き明かせないか、という着想を得ます。

「染色体=クロモソーム」全体の「遺伝情報=ジーン」から、彼は「ゲノム」という概念を得、ごく簡単な「線虫」のすべての遺伝情報を調べ、それを「モデル生物」として確立する、全く独自の仕事を始めます。

 今日、バイオに関わる誰もが知るCエレガンスという生物は、そんなユダヤの、経済的には恵まれない家に育ち、その分、大変鋭い目を持ってあらゆるものを仕事の武器に変え(本当に、彼はそういう人でした)、発想し、ゼロから作り上げ、完成させたものにほかなりません。

 私は「沖縄科学技術大学院大学」設立準備で来日していたシドニーをお手伝いしていた時期があります。本当に厳しく鋭く、また機智に飛んだ才能でした。

 むしろ「空腹」であること、「渇望があること」は、力になります。

 1945年以降、焼け跡、闇市の中から、日本人は人類史上最速最高の高度経済成長を実現しました。私もその時期の最後あたりの記憶があります。

 財貨を持たざることを恥じるなかれ。知的好奇心、主体的興味、世界と関わりあう意欲こそが大事で、青少年はみな、本来それを持っている。

 それを励まし、応援し、次世代を育てるのが、私たち年長のものの負う絶対的な義務にほかなりません。

 好奇心が減退し、興味がなくなり、世界がどうでもよくなるのは、精神の老化と呼ぶべきものです。

「身の丈にあった」受験などということは、若者の未来を曇らせ、精神を老化して社会を萎え衰えさせる、最速の方途というべきです。

 若者は野心的でなければ。クラーク博士の有名な言葉の背景については、紙幅が尽きましたので続稿に記すことにします。

「身の丈にあった教育」など、言語道断と言わねばなりません。

(つづく)

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  ノーベル賞を超えた水島公一博士

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