「ばっちゃんのためなら何でもできる」とまで言わしめた「ばっちゃん」の存在。当の本人にも手に負えないほど、その存在は大きくなっていく。本人、親族、そして「家」に集う人々への取材を重ねて見えたものとは? ジャーナリスト秋山千佳氏による渾身のルポルタージュ。(後編/全2回、JBpress)

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(※)本稿は『実像―広島の「ばっちゃん」中本忠子の真実』(秋山千佳著、角川書店)より一部抜粋・再編集したものです。

(前編)小学生で覚せい剤! 悪の世界へ引きずりこむ親の存在
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/57995

知らなかった「愛情」

「自分は拾ってもらった身」「ばっちゃんのためなら何でもできる」と殊勝なことを言っていた拓海さんは、更生保護施設からシェルター、アパートへと居を移し、着々と広島に根を下ろす準備を進めた。福岡でやってみて性に合ったという介護の仕事をハローワークで探しながら、毎日基町の家へ通ってきていた。

 おからハンバーグを「おいしいよ」と中本さんから手渡された時は、「このカラオケ・・・おから、ばっちゃんの天然ボケがうつった!」と皆を笑わせた。

 中本さんは、そんな拓海さんをどう見ていたか。
「かなり寂しい子と思うよ。ずっと施設で育って、個々の愛情を受けることが難しいじゃん」

 そう中本さんは言った。

 拓海さんは14歳までいた児童養護施設にしろ、その後の少年院や更生保護施設にしろ、一身に愛情を受けるという経験に乏しかった。

 基町の家のできたての料理に「施設におってもこんなことない」と感激し、自分の食べたいものを作ってもらえることに「ずっと献立が決まっとったけん」とつぶやいた。

 食べるのは毎日のことじゃけんね、と中本さんはよく言う。

 自分のために食事が用意されるという日々の蓄積は、拓海さんの心の穴を埋めはじめたように見えた。

「ばっちゃん」に託された子ども

 一方で愛情を知ったがゆえに、拓海さんが苦しむことになった感情がある。嫉妬だ。

 中本さんは「どうやったら敦みたいになれる?」と拓海さんに聞かれていた。スタッフも、彼から「敦に対してすごく嫉妬する」という心情の吐露を耳にしていた。

 敦さんは、拓海さんと同じ20歳の青年。父親が暴力団組員で母親が刑務所におり、物心つく前から施設で育って少年院を2回経験し・・・と、境遇がそっくりだった。

 ただ決定的な違いは、中本さんとの付き合いが10年にものぼること、さらに、父親が自殺しており中本さんが第一発見者であることだった。

 中本さんはその父親の死の前夜遅く、本人から電話を受けていた。2日後、連絡のとれないことを不審に思った中本さんが警察などと自宅へ行くと、父親はすでに事切れており、中本さんあての遺書には「敦を頼む」ということが綿々と綴られていた。

「だから、私も敦を放っておく、いうわけにいかんじゃん」と中本さんは言う。

 言ってから、自分で重い空気を払うようにアハハと声を立てて笑うのだが、その死を「今も悔やむところがある」「たんびに思い出すんよ」とも語っており、遺言として託された敦さんは特別な存在だった。

 敦さんは専門学校へ進学するために高等学校卒業程度認定試験、いわゆる高認を科目ごとに取得していきながら、パチンコ店で働いていた。

 中本さんと関わりが深くて、自分より一足先に更生しつつある姿は、拓海さんにはまぶしかったのだろう。

 敦さんは出勤前の正午ごろ、基町の家に顔を出し、昼食をとってから用意してもらった弁当を携えて出発する。敦さんは食べたくないおかずがあると、中本さんの茶碗や皿へポンと入れる。中本さんは咎めることなく、当たり前のように食べる。

 基町の家に来る他の子どもや若者にはないことで、それだけに拓海さんの目には強烈な結びつきに映ったようだ。

 拓海さんは「あの行動はどうかと思った」と批判しながらも、自分もおかずを中本さんの皿へ入れ、食べるかどうかを試した。そして中本さんが別の人と話していると、中本さんの座っているいすを自分の側へ回転させたり、棒付きキャンディを投げたりして気を引こうとした。中本さんは、独占欲が出ていると見ていた。

 しかしこの時期の中本さんは、とても拓海さんが独り占めできるような状況ではなかった。拓海さんの出現もその1つだが、予期せぬ事件が次々持ち上がっては対応に追われていたからだ。

 基町は嵐の中にある、と(元法務教官の)中島さんは表現した。慌ただしさには慣れっこの中本さんが「風邪を引く暇もありゃあせん」とこぼし、「いよいよほんまに、どうすりゃええんかいね」と頭を抱えることもあった。

「ばっちゃん」の片腕

 ある日曜日の昼、中本さんの携帯電話が鳴った。

 中本さんが面倒を見てきた少年からで、トラブルに巻き込まれたと言っている。

 彼は少年院を出た後、地元の広島を離れ、愛知で生活している。拓海さんと逆のパターンだ。中本さんは彼のこともあって愛知のNPOと密にやりとりしていたので、拓海さんの情報が共有されたという背景がある。

 その少年が、今日泊まる場所も食べるものもない、お金を振り込んでほしいと訴える。

 慌てた中本さんは携帯電話を握りしめ、少年の安全を確保するために方々に連絡を取った。その子には電話越しに「ばっちゃんの生活費がなくなるけん、とりあえず2万円振り込むよ」と声をかけ、励ます。

 こうした事態には食べて語ろう会として対処することはできないので、いつも中本さん個人の財布からの出費となるのだった。

 居合わせた中島さんも、次々に電話をかわったり、日曜日でも入出金できるATMを探して車を出したりと大わらわで、戻ってくると台所のいすで放心した様子だった。

 中本さんは急に茶目っ気を取り戻した顔つきになり、中島さんに向かって言った。

「おだてられ 木に登ったが 下りられず」

 不思議そうな表情を浮かべる中島さんに、中本さんは「川柳作っとるんよ、私の中でね」と言ってニヤリとした。

 研究のために通いはじめたはずが、いつの間にか中本さんの片腕となって奔走している。そんな中島さんの状況を表したものだった。

 疲れ顔だった中島さんは大笑いして「大丈夫です」と答えた。周りも笑った。

 その場にいながら、1人だけつまらなそうにしていたのが、拓海さんだった。携帯電話をいじり、貧乏揺すりをしている。

 嵐のような状況とはいえ、中本さんが自分でない少年に気を取られ、財布からポケットマネーを取り出すところまで見せられて、面白くなかったのだろうか。

 暇に任せてあちこち連絡していたのか、手元の携帯からは着信音が鳴り続けていた。

 さらに10月には、安倍昭恵首相夫人と基町の家のスタッフや若者などによる、1泊2日の山口旅行が控えていた。その連絡や調整が、中本さんたちの慌ただしさに拍車をかけた。

 なぜ昭恵夫人と一緒に旅行することになったのか。後の中本さんの祝賀会で、昭恵夫人本人がこのように説明している。

「昨年受賞された(筆者注:吉川英治文化賞の)副賞のお金をどのように使うかということで、皆で温泉に行きたい、新幹線に乗りたいというお話を伺いました時に、入れ墨を入れている子がいるからなかなか温泉には行かれないという話を伺って、じゃあ、ぜひうちの地元の長門の温泉にいらしてください、入れ墨でも貸し切りにして他の人が入れないようにしますから大丈夫です、という話をさせていただいて、皆さんにお越しをいただきました」

 中本さんは昭恵夫人の申し出を受けた。昭恵夫人は2017年春から森友学園問題、加計学園問題などで関係が取り沙汰され、その責任を問う声が複数上がっていた頃だ。旅行するほどの距離の近さには危うさを覚えた。

昭恵夫人との旅行

 だが当の中本さんは、こんなふうに語っている。

「私はこの人のおかげで今日があるわけよ。国のトップの奥さんであそこまでボランティアできるなんて、私も真似したいという気持ちになる。一生懸命することによって人から批判されるわけでしょう。私もすることによって、人に不快な思いをさせとると思うの」

 自身の活動への批判が上がったことかと確認すると、そうそうと相槌を打った。非行少年の食事の面倒まで見る必要はない、そこまでやらねばならないと思われると保護司のなり手がいなくなる、と責め立てられることが多かったというものだ。

「昭恵さんが置かれとる状況と一緒じゃのと思うんよ。そう思うだけにますます気持ちが強うなるわけね。何を言われてもあの人は黙々とやって大したもんじゃなあと」

 昭恵夫人が矢面に立たされることになった問題の是非以前に、自らが味わった辛苦と重ねて共感を寄せているらしかった。

 その昭恵夫人との旅行には、拓海さんも参加することになった。

 旅行直前の拓海さんは、介護の求職がうまくいかず、以前の仲間の誘いで広島から出て行きかねないそぶりを見せていた。一方で、中島さんと一緒に基町の家から帰る時には、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑の前で長く、深く、静かに祈りを捧げることがあったという。

 手を合わせながら、彼は何を思っていたのだろう。

 旅行は、広島から27人が大型バスで移動し、拓海さんいわく中学時代には参加できなかった「修学旅行のような感じ」だったらしい。後日写真を見せてもらったが、長門の千畳敷で巨岩の上に乗り、ポーズを決めている姿から、観光を楽しんだ様子が伝わってきた。

 中本さんは昭恵夫人と、互いにとろけそうな笑顔で抱き合っていた。

 10日ほど後に基町の家へ行くと、拓海さんはフェイスブックで昭恵夫人とやりとりした、と喜んでいた。拓海さんが昭恵夫人へのメッセージ画面をスマホで表示し、横にいた美々さんが声に出して読み上げていく。

「ばっちゃんの前では言えませんが、感謝しています」

 中本さんの目はみるみる赤くなった。

「まあ、誰がそんなこと言うんね。えらかったねえ、拓海」と中本さんは言い、こぼれる涙を指で拭った。拓海さんは照れたように笑っていた。

 私が広島を離れる時、拓海さんに、年末までにまたここで会おうと声をかけると「はい、大丈夫っす」と返ってきた。希望した介護の仕事は得られなかったが、ガソリンスタンドで働きはじめ、いよいよ広島に根を張るかのように思われた。

恋しい「ばっちゃん」

 しかし、その半月後。

 拓海さんは突然、広島を飛び出した。

 基町の家に来て2カ月あまり。あっけない幕切れだった。

 年末に中本さんに会うと、基町の家に来ている人と諍いになったらしいと教えてくれた。

「あの子も私がおらにゃ、やっていけんという子じゃけん、今もつながっとるよ」

 本人は以前「連絡が取れなくなったら捕まったと思って」と言っていたが、電話できているならそれは大丈夫なのだろう。とはいえ、行く末が思いやられた。

 翌年の成人式の日の遅く、私の携帯に予期せぬ着信があった。

 拓海さんだった。久々に地元へ戻り、友人と袴姿で成人を祝ったところだという。

 年末に基町の家で再会できなかったことを「申し訳なかったです」と詫びてきた。突然の出奔は、やはり対人関係のトラブルだった。「しょうもないことだったけど仕事で疲れとる時でむかついて」その日のうちに荷物をまとめて去った、という説明だった。

 電話の向こうの拓海さんは、何度も「ばっちゃん」と口にした。

 ばっちゃんと田村さんには今も連絡してます。

 ばっちゃんのところで食べて太った分が、肉体労働で筋肉になってきました。

 給料がたまったらばっちゃんを温泉旅行に連れて行ってあげたい。

 ばっちゃんに会いたい

 電話の目的は私に詫びたかったというより、アルコールも手伝って、中本さんへの思いが高まったのを誰かに聞いてほしかったのだろう。

「ばっちゃん」の限界

 中本さんへの最初の取材時、つまりまだ自宅で活動していた頃のこと。中本さんは、薬物依存でも私が関わりおうた人は皆やめているけんね、と話していた。

「特効薬いうのは、時間しかないと思うよ。その人に対して、私の許す限りの時間をとってあげるのが一番じゃろうと思う」

 事実、基町のある女性は、覚せい剤の使用などで6回も刑務所で服役しながら、薬物と縁を切ることができていた。中本さんがとことん付き合ってくれたことで「この人は裏切れん、この人の愛情さえあればいい」という心境に至り、寂しくとも覚せい剤につながるすべての人間関係を絶つことができた、と語ってくれた。

 拓海さんが基町の家にいた時期、中本さんはこんな笑い話をした。

「昨夜1時過ぎのことじゃったよ。電話が鳴るんじゃが、枕元にあってもうまく取れんのよ。手探りでようやく握ったら、テレビのリモコンじゃった」

 皆が爆笑したが、そんな時間まで対応していたら文字通り寝る暇がない。中本さんは午後11時から午前4時の5時間睡眠が基本で、何かあればさらに短くなる。

 その日は起こされても疲れで体が動かず、4時過ぎにかけ直したという。

 電話の主は、父親が死刑囚という他県の青年だった。折り返しの電話を待っていたようにすぐに出て、自分の状況を「苦しいんです」と訴えたらしい。中本さんが直接支援したことはないのだが、彼もまた拓海さん同様、他に頼れる人がいないのだ。

 中本さんは「おだてられ 木に登ったが 下りられず」という川柳を中島さんに贈った。

 だが、これは中島さんを見てとっさに浮かんだものではなく、中本さんが日頃から自身について感じていることのように聞こえた。

 山口旅行の10日前に安倍晋三首相が衆議院を解散した直後には、中島さんに「この話が選挙でなくなれば」と漏らしたことさえあったそうだ。拓海さんなどとの関わりで手一杯だったうえ、旅行に行かない子が拗ねて荒れ出すという軋轢まで生じていた。

 加えて、中本さんは40代で胃がんを患い、胃を摘出しているという。

 今は大概のものは問題なく食べられるが、それでなくとも高齢でもある。台所に立つことさえきつそうな中本さんの様子に、ボランティアのしいちゃんは「他の臓器がカバーするとはいえ、胃がある人と比べたら負担は大きいですよね」と案じていた。

 中本さんの体一つで対応する限界を超えるほどに、「ばっちゃん」という存在が、中本さん本人から一人歩きしているように見えた。

 そのような感覚を抱いている人が中本さんの身近にもいた。

 三男の善範さんだ。

 基町からは30キロほど離れた場所でカフェレストランを経営しており、母親譲りの顔立ちとユーモアで重い話でも笑いを交えてくる。4月以降、授賞式や基町の家で幾度か会っていた。

 7月、食べて語ろう会主催の講演会後にパーティがあり、善範さんも出席していた。宴の終盤、周囲の人が切れたタイミングで声をかけると、善範さんは「最近、ばっちゃんが嘆くんです」と言って、母親の口調を真似してみせた。

よしのりー、活動を法人にせにゃよかった。誰もうちに食いに来にゃせんわ」

 吹き出すほど中本さんに似ていた。

 だが、その言葉には心の叫びがあった。法人化の目的の1つは自身の負担を減らすためだったはずなのに、自宅でやっていた頃を懐かしんでいる。一方でどんなにきつくとも「やめたい」とはならず、その辛苦も冗談めかしていた。

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