上映時間234分、休憩なし。さすがに二の足を踏んだが、坂本龍一氏の推薦コメントに「4時間近くと長い映画だが、無駄なショットがあった記憶はない」という一文を見つけ、観てみたら、本当にその通りだった。あくび一つ、出なかった。トイレに行きたいとか、気を抜く瞬間は一度もなかった。新人監督の作品とは思えない。なんという物語力、なんという才能。

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どん底の彼らにさらに襲い掛かるトラブル

 舞台は炭鉱業が廃れた、どんよりした空気の中国の田舎町。チェンは親友の妻と関係を持った翌朝、目の前でその友だちが飛び降り自殺してしまう。老人ジンは一人で暮らしていた自室アパートに娘一家が引っ越してきて、実の娘から老人ホームへ追いやられそうだ。彼の近所に住む高校生ブーは友人をかばったため、学校一の不良から目をつけられている。同じ高校のリンは母と二人、ゴミ溜めのような部屋で暮らしている。シングルマザーの母親は常に疲れていて、まともな会話すらできない。

 世代も性別も違う4人。共通しているのは彼らの居場所がどこにも、家にすらない点だ。登場した段階で、いきなりこれ以上、落ちようのないほど、底辺にいるのに、そんな彼らに次から次へとトラブルが襲い掛かる。絶望の淵から転落した先で見える景色もやはり絶望なのか。彼らのとんでもなく悲惨な1日が始まる。やれ殺人だ、やれ爆発だと息つく暇なく事件が起き続ける『24 -TWENTY FOUR-』を見慣れた私ですら、思いもよらない展開にぐいぐい引き込まれた。

 新人監督の胡波(フー・ボー)はこの長編デビュー作で、ベルリン映画祭で最優秀新人監督賞、国際批評家連盟賞をW受賞、金馬奨で作品賞、脚色賞と観客賞をトリプル受賞の快挙を成し遂げている。作家でもある彼が自身の著書『大裂』の中で、最も気に入っている同名の短編を映画化したそうで、道理で話が面白いわけである。

「人生は面倒なものだろ」

 最悪の状態から始まった4人の物語はどんどん悪い方へ突き進んでいく。心から好きだった女性に相手にされず、人妻と一夜を過ごしたチェンだったが、その本命の彼女に完膚なきまでにふられる。ブーはからんできた不良を避けるが、そのせいで彼がけがをしてしまう。老人は生きがいだった愛犬を、出くわした大きな犬に殺される。リンは優しくしてくれた親ほど年齢の違う男性教諭との不適切な関係が皆に知れ渡るはめになる。だが、彼らの悲劇はこれで終わりじゃない。

 けがをさせられたと因縁をつけ、復讐しようとブーを探し回る不良とその母親。危険な犬を放していた飼い主を訪ねた老人は「当たり屋か」と逆切れされ、「訴える」と脅される。リンの相手だった教師の妻は、未成年の彼女に手を出した夫を責めるどころか、夫が誘惑されたとリンの家に怒鳴り込む。主張した者が勝ちなのか。人はこんなにも利己的になれるのかと暗澹とした気持ちになる。

 生き馬の目を抜くような現代で、人は誰かを押しのけてでも、のし上がろうとする。疲弊した人々の間で、誰かを気遣っていては置いてきぼりどころか、ひどい目に遭う。社会全体が通勤ラッシュのような殺伐とした空気感。これは中国だけの話ではないだろう。

 いっそ誰とも関わらなければいい。つい、そう思ってしまった。若者の間では人間関係の希薄化が進んでいるというが、当然の気がする。チェンは恋人に本心を打ち明けなければよかった。ブーは友だちがいじめられているのを見て見ぬふりすればいい。老人は犬の飼い主のもとに注意しに行くべきではなかったし、リンは教師に拠り所を求めても無駄だ。誰にも心を開かず、誰にも期待しない。親切はおせっかい。人と関わると余計なことがないとあきらめてしまえば、誰にも傷つけられない。でも、果たして、本当にそれでいいのだろうか。

「人生は面倒なものだろ」

 チェンの言葉にはっとする。生きていくうえで、人との関係を面倒くさがって避けていては何も生まれない。人が人と出会うことで、たくさんのドラマや感情が沸き、人生は豊かになる。

 どんなに裏切られても、人を信じることを諦めなかった4人の運命は少しずつ重なり始める。遠く離れた街で一日中、ただ座っているという噂の象を見に行こう。期待のような、逃避のような、ちょっとだけ前向きな思いを胸に、どん底から這い上がることは無理でも、ほんの少しだけ動いてみようとする4人。こんな世の中に不似合いなほど優しすぎる不器用な彼らを見落とさず、じっと追い続ける監督の繊細な視点が私には希望のように思えた。

 それなのに。

この感動を誰かに伝えたい

 監督はこの作品が完成して間もなく、29歳という若さで自ら命を絶ったそうである。人生は面倒なこと。生きていくことは大変なこと。それを知っていたはずの監督がどうして、と残念でならない。

 その柔らかな視線で誰も気づかないような人々のドラマを紡いでいってほしかった。どんな作品を残したろう。いまとなっては想像することしかできない。監督が命をかけて遺したこの一作に感謝するだけだ。

 この感動をどうしても誰かに伝えたくて、この文章を書いている。誰かがこの作品を楽しんでくれるきっかけになればと願って。その誰かは誰かにこの映画の素晴らしさを語るだろうか。きっと人との関わり合いって、そんなに難しく考えることではないはずだ。

『象は静かに座っている』

11月2日(土)より、シアター・イメージフォーラム他全国順次公開

監督・脚本・編集:フー・ボー

出演:チャン・ユー、ポン・ユーチャン、ワン・ユーウェン、リー・ツォンシー

撮影:ファン・チャオ 録音:バイ・ルイチョウ 音楽:ホァ・ルン 
美術:シェ・リージャ サウンドデザイン:ロウ・クン  
2018年/中国/原題:大象席地而坐/英題:An Elephant Sitting Still/カラー/234分 
配給:ビターズ・エンド
bitters.co.jp/elephant
Twitter:@HUBOandELEPHANT
Facebook: https://www.facebook.com/HUBOandELEPHANT

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