難関としても有名な、幼稚園から大学までの一貫校で育ちながら、プロサッカー選手への道を歩んだ都倉賢選手は異色の存在です。同級生とまるで違う道を歩いた彼の高校生活はどのようなものだったのでしょうか。そして高校時代がプロサッカー選手になってからの生活にどんな影響を与えたのでしょうか。高校時代に「気付き」のきっかけになった本の紹介とともに語っていただきました。

Jクラブのユースに入り同級生とは違った生活に

―― 高校生のころはどんな生活を送っていましたか?

僕は中学時代、横浜F・マリノスジュニアユースチームに入っていたのですが、ユースチームに昇格できませんでした。それで家から通えるクラブを探したところ、運良く川崎フロンターレのユースに入れました。Jクラブのユースに入ったことでほとんどの同級生とはまるで違った高校生活を送ることになりました。

そもそも僕と同じ幼稚舎からJリーガーになった人はいないですね。アウトローですよ。小学校や中学校にしても、僕と同じキャリアの人はいないかもしれません。同級生には幼なじみでもう1人、Jクラブのユースに入った友だちがいました。もっともその友だちは結局プロにならず、今は大手広告代理店に勤めていると思います。

高校の授業が終わるとすぐに川崎の練習場に行っていました。ユースチームはいろいろなところから集まってくるので、遅いときは19時ぐらいからスタートすることもありました。練習が終わって22時〜23時ぐらいに帰宅して、翌朝8時には学校に行って、という生活でした。

今だったらJクラブにはユースの選手がご飯を食べられるような食堂があったり、送迎用のバスがあったりするところもあります。ですが当時はそういうこともなく、今考えるといろいろ大変だったと思います。そうやって苦労しながら学校外でプロを目指して活動していることを友人は「すごい」と思ってくれたようでした。そこでリスペクトしてくれる仲間ができたと思います。

勉強に関して言えば、学校は成績に関して非常にシビアで、全科目の平均が10段階評価の5.5未満だと原因が何であれ進級できないのです。だからテスト前だけ勉強して、何とか5.5を超えていました。学校で部活動をしていたら先輩から過去の問題が回ってきて参考に勉強できます。僕は友人に見せてもらっていましたが、最先端の情報はやはり部活動をしている同級生にしか渡らないので、そこは苦労していました。

当時の自分は偉そうだったと思います。今でも覚えているのは英語の授業のとき、先生に「僕は将来、絶対にサッカーで成功して、英語を話さなければならない場面では通訳を付けるようにします。だからテストの点が悪くても気にしないでください」と言っていました。そんな感じだったから余計に点数が低かったのかもしれません。

当然宿題なんかやっていきませんでした。それで授業の前に、後ろの友達の宿題を写させてもらっていましたね。そうしたらある日、その友人が「見せるのは構わないが、それが本当に都倉のためになっているの?」と言ったのです。それは僕にとって衝撃でした。僕は勉強をやらされているものだと思っていたのですが、友人は勉強して積み重ねることで自分の財産になっているという感覚だったのですね。

その友人は小学校で受験して学校に入ってきていたので、勉強することがどんな効果があるか知っていたのです。僕はサッカーに関しては何をすれば将来につながるか分かっていたのですが、勉強になるとまるで将来につながるとは思ってもいなかったですね。だから友人のことは尊敬しました。でも結局その後もその友人の宿題を見せてもらっていました(笑)。


―― 高校時代、勝つために努力していたことはありますか?

プロになるために努力したのは、毎回量の多い弁当を持って行ってたくさん食べたことですね。父親が昔から栄養にすごくうるさかったので、僕も高校の頃から「食」には向き合っていました。そのころはとにかく食べることが大切でした。

10時半ぐらいに2時限目と3時限目の間の休みがあって、そこでまず食堂に行ってラーメン定食のようなものを食べ、さらに昼休みに持ってきた弁当を食べていました。そういうおかげもあって、体格には恵まれたと思います。

一冊の本との出会いで精神面の大切さに気付いた

―― プロ選手を目指したのはいつ頃でしたか?

最初にプロサッカー選手になりたいと思ったのは、小学校1年生になった1993年Jリーグがスタートしたときですね。あのときはみんなJリーガーを目指したと思います。子供の夢として僕も思いました。

現実的にプロになれそうだ、自分がしっかりしたらサッカー選手という立場がつかめるかもしれないと思ったのは、高校1年から2年に上がるときの春休みでした。その時は川崎フロンターレユースで、夢が目標に変わりました。

―― 高校生のころの経験で、プロになって生きたことはありますか?

高校時代に本との出合いがありました。『スラムダンク勝利学』(辻秀一著)という本で、マンガの『スラムダンク』を元にして、応用心理学ドクターがいろいろな場面を心理学的に解説してくれる内容です。

高校の時は目に見えない「精神」や「メンタル」がパフォーマンスに影響するとはあまり考えていませんでした。そのため調子の波が大きかったと思います。

試合や練習前に気持ちを整え、試合中にうまくいかなくてもちゃんと気持ちを切り替えられるようになると、より高みを目指せるというのを読んで、思わず著者に手紙を書きました。そうしたら返事が来て、今でも親しくしていただいています。著者の方は今、応用心理学の第一人者ですね。


―― 練習や食生活など普段から心掛けていることを教えてください。

「食」です。食生活は時代によって流行があります。そのときにはやっているものを一度は試してみます。でももし自分の感覚に合わなかったら止めるというのを15年間やってきました。

そうやって取捨選択していく中で続いていることは自分に合っていたと思いますし、すぐに止めたことは自分と相性が悪かったのだと思います。もちろんデータを介して吟味することもありますが、最終的には自分の感覚や主観に従っています。そうして残ったものが自分の「軸」になっています。

今でいうと年齢とともに炭水化物を取ると太りやすくなったので、朝は練習前だからある程度食べる、昼食は練習がハードだったときはしっかり食べる。もし軽い練習だったらあまり食べません。そして夜は米を食べず、カロリー不足にならないように高タンパクの食物で補っています。それがいろいろ試した中で自分にとってしっくりくる方法でした。

でも自分の性格として、そういうストイックな生活ばかりをずっとは続けられないと分かっています。自分の取り扱いはこのプロ生活15年で分かりました。なので、ときには大好きなラーメンを食べて緩急を付けています。ご褒美を用意するというのは僕にとって大切で、トレーニングで自分を追い込むのは必要ですが、そんな日はアイスを食べたりしています。

また体のケアをするのも大切だと思っていて、それも練習の一つだと思います。目的はピッチの上で結果を出すためで、そのためにやることはすべてトレーニングなんですよ。

高校時代になりたい目標をはっきり決めなくてもいい

―― プロサッカープレーヤーとしての自分を振り返ってください。

2005年、川崎でプロになったころは、なかなか出番が来なくて悔しかったのですが、ただ確実に他のFW陣のレベルが高かったので、人をうらやむ前に「やるしかない」と思って練習していました。今考えると当時自分がやっていたことはあまり論理的ではなかったかもしれませんが、やり続けたこと、気持ちを切らさなかったことは今の忍耐強さにつながっていると思います。あのときふて腐れていたら、その時点で終わっていたでしょう。

その後J2のザスパ草津で2年・ヴィッセル神戸で4年間プレーした後、デンマークにテストを受けに行ったのですがダメでした。そうしたら2014年、当時J2だったコンサドーレ札幌が手を挙げてくれたのです。札幌では3年間、ある程度の結果を出し続けられたのがよかったと思います。自分の中では自信になりましたし、チームとともにJ1に上がれて、しかもチームとしても個人としてもJ1で通用できたと思います。

そのまま札幌に一生いたいという気持ちもありました。でも今年、セレッソ大阪からオファーが来て、33歳でまた新たな挑戦ができるという状況になったとき、より難しい選択をしようと思ったのです。サッカー人生の中であと何回あるか分からないワクワクにかけてみました。

ここまでのプロ生活を振り返ってみるといろいろ大変なことはありました。自分でタフな選手生活だと思ったことはありませんが、でも自分が成長する前には必ず沈むときがありました。そしてその時々の壁を自分を信じて乗り越えてきたと思います。

―― 高校生に向けてメッセージをお願いします。

昔だったらゲームばかりやっていると親から怒られていたかもしれません。ところが今はゲームを極めればeスポーツの世界で1億円プレーヤーになれます。今の高校生が社会に出るころにはどんな社会になるか分かりません。今後職業はもっと細分化されるでしょうし、僕たちが小学校のころにはYouTuberなんてなかったように、考えられないような職業が出てくるでしょう。

だから高校時代に自分のなりたいことをハッキリと決めすぎずに、好きなこと、興味あることを追求する探究心を育てるといいのではないかと思います。夢中になれることを探すのは大切です。

高校生の時はいろいろなことができる時間がたっぷりあると思います。経済的に親から援助されている時間というのは本当に自由です。その時間を自分のために使ってほしいと思います。



もし高校時代に都倉選手がサッカーの道を捨て、友人たちと同じように過ごしていたら、成功への道はもっと短かったかもしれません。ですがあえて誰も歩んだことのない道を選択したのです。そこには自分の好きなことに没頭し、他の同級生たちと違った道を歩きながらも孤独を怖れず、困難にも耐えて夢を実現させた姿がありました。都倉選手の高校時代の話には、自分の人生を自らの手で切り開いた冒険心と、目標に向かって真っ直ぐに進んだ純粋な気持ちが詰まっていました。


【取材協力】セレッソ大阪
【取材】森雅史/日本蹴球合同会社
【撮影】齊藤友也