あるべきところにあるべきものがない敗戦直後の東京。その復興は、プロデューサーであったテキ屋により加速され、巨大な盛り場をも生み出していった。「ヤミ市」の正体とは一体なんだったのか。1940年代をたくましく生き抜いた敗戦後の盛り場にスポットをあてる。(JBpress

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(※)本稿は『東京のヤミ市』(松平誠著、講談社学術文庫)より一部抜粋・再編集したものです。

東京の盛り場

 闇(ヤミ)とは、公定(マルコウ)の対語である。統制経済の時代には、政府の手で主な消費物資にいちいち価格がつけられ、違反すると処罰された。だから、マルコウ以外の商品は明るい太陽の下に出ることはできず、その売買はヤミになった。

 ヤミの商品を売り買いする市場がすなわちヤミ市である。ここには、食料品、衣類、雑貨、その他、販売が禁止されているものなら、なんでも並んでいた。1947年夏に飲食店がすべて禁止されてからは、逆に呑み屋と食べ物屋がその中心になった。はじめのうちは、駅の前にできた焼け跡や疎開後の空き地で、青天井の露店市だったが、翌年になると土地の上に平屋の長屋をつくってマーケットと呼び、敗戦後の一時期、露店とともに、東京の盛り場をつくりだした。これがヤミ市である。

 あるべきところにあるべきものがない敗戦直後の生活のなかで、テキ屋のつくったヤミ市は、それ自身が法とはどこかで対決せざるを得ない運命を背負っていた。1940年代末、庶民の生活が少し落ち着きを取り戻し、ものが市場に出回るようになると、ヤミ市は消えていかなければならない。

 そして、それが消えていく先には、1950年6月の朝鮮戦争が待っていた。

東京ヤミ市

 第二次世界大戦前までの東京で、盛り場といえば、日本橋、浅草、上野広小路、神田、銀座、新宿、神楽坂、道玄坂といったところが挙げられるが、戦争直後は、このうち主要な鉄道駅と繋がっていない神楽坂には、あまりたいした賑わいがみられない。

 浅草は、戦後すぐの時期こそ露店の飲食店で賑わったが、まもなく上野広小路にお株を奪われてしまい、面影がない。また、日本橋から銀座にかけては露店こそ多いが、1946年半ばからヤミ市の主流にのしあがっていくマーケット形式の木造長屋はみあたらない。

 駅から遠い神田もその点は同じである。

 それに反し、郊外へのターミナル駅に繋がる新宿、渋谷、池袋には巨大なヤミ市ができ、都心に近い有楽町には飲食店が立ち並んだ。

 新宿、それはヤミ市の発祥地である。戦前から新宿露店商の頭株だった飯島一家小倉二代目関東尾津組親分尾津喜之助が、敗戦5日後の新宿東口に開いたのが、新宿ヤミ市であった。

酒場の作法

 ヤミ市の呑み屋は、死と隣り合わせである。1946年には、占領軍が、兵士をメチールで死に至らしめたものは死刑、という通達を出しているから、アメリカ兵士のなかにも、酒に殉じた侍がいたことがわかる。

 資料によると、その数は、全部で死者20名、重症11名だという。メチール混入の確率がかなり高いバクダンを祈りにも似た作法で呑むのは、戦争で死に遅れた者の心理であり、死者への鎮魂を籠めた崇高な行為である・・・と、イキがっても、これは大変なことである。

 メチールは、1946年初めから急増し、2、3年も呑み続けられている。そのピークは1948年4月で、東京で死者7名、失明2名を出している。

 田宮君(註・当時、田宮虎彦は『文明』編集長)が帰ると言って、玄関を出たとき、上村さんから電話だと言う。「こんな時間に、なんだろう」妻は上村さんのところへ行った。帰ってきて、「武麟(註・武田麟太郎)さんが危篤なんですって」「危篤?」

 メチールだなと私は思った。そして深い溜息をついた。

(高見順『完本・高見順日記 昭和21年篇』凡書房新社、1959年

 武田麟太郎がメチールに殉じたかどうかは、いまだに謎である。

東京のカポネ」尾津喜之助

 1995年1月の阪神・淡路大震災直後、TBS午後3時ニュースは、ここにテキヤ風のグループが現れて、被災者たちに水や食料を配った、と報じている。それが誰だったのかはわからないが、いかにもテキ屋の人びとらしい「義俠」である。

 この人々には、明治、大正以来の不思議な倫理観と生活観がある。そして、第二次世界大戦後のヤミ市経営では、それがポジとネガの両面で極端に現れていた。

 D・ベリガンは、当時ニューヨークポスト特派員として日本のヤミ市を丹念に取材した記者であるが、かれの目にはヤミ市の経営者は「東京のカポネ」として映っている。

 ここでかれが名指しているカポネとは、新宿から出て、東口に尾津組のマーケットをつくり、東京露店商同業組合理事長となり、1947年まで東京露店商の頂上にいた尾津喜之助のことである。

 東京はいうに及ばず、日本中の都会では、露店は皆伝統的に与太者に支配されており、終戦当時にも彼らはボロ儲けをしていた。尾津も勿論その例にもれなかつた。商店は殆ど焼けて、商人はやむなく自分達を保護してくれる与太者の支配下に入って、街頭で露店を開くほか仕方がなかつた。徳川将軍の時代でも、こんな景気の良いことはなかつた。

(「東京のカポネ=尾津喜之助」『世界評論』1948年8月号)

 というのである。テキ屋稼業を与太者と片付けたのは、D・ベリガンの勉強不足だが、それにもまして、尾津喜之助が徳川将軍に比較されているのは、面白い

 たが当時のヤミ市経営者たちは、そんなふうに悪の巣窟として、自分たちのヤミ市をみていたのであろうか、ここに、当の尾津が書いたとされるつぎのような一文がある。

(終戦の日)私は手近な連中50人ばかりを集めて、「新宿から、すべての人に呼びかけようと思う、ついては、明日から道路整理と掃除をやろうじゃないか」というと、みな、勇躍して賛成してくれた。・・・ところが、一口に焼跡整理とか清掃といっても、並大抵の努力で出来るものではない。

 駅から三越の先まで整えるために、鉄屑の山がどのくらい出来たかしれないのだ。やっと、どうにか清掃をおえると、「明日から露店を再開して、みなさんに、この明るい新宿を提供したい」そういう貼紙をした。

(『話』1952年10月号)

 ここには、他人の土地を不法に占拠したという罪悪感は、少しも感ぜられない。むしろあっけらかんとして明るく社会事業に取り組んでいるという趣ではないか。かれの主観的な意図としては、テキ屋の方法と手順を使って、ひたすら自分たちなりに荒れ果てた新宿駅前を再興させようという義俠心を発揮しているのである。

 東京のヤミ市経営者は、こうした不思議な倫理観に裏付けられて、敗戦後の盛り場をプロデュースしていくのである。

新宿再興の功労者

 1947年東京都都条例を発し、疎開地の地上権回復を明らかにした。新宿大通りを中心にして、地主たちが本格的にヤミ市の土地返還を要求しはじめるのは、この頃である。これについて、尾津喜之助はつぎのようにいったという。

 その土地問題というのは、前年からプスプスといぶり出していたのである。つまり、地主たちは、戦争中は、多額の立退料を都からせしめて疎開し、私たちが血と汗の必死の努力で再興した新宿へ、又、ノコノコ戻ろうとして、もとの地上権を楯に、土地を返せというのである。彼等は、都条令・・・を、モッケの幸いにして、私に対して不法占拠という汚名をきせ、早々に立ちのけの一本槍、・・・

(『話』)

 その土地には、新宿再興の功労者が多数生活していて、いますぐといって、行き場がないのだ。この、われわれの苦衷を、法律一辺倒の彼等は、歯牙にもかけなかった。(同)

 かれが新宿再興の功労者といっているのは、ヤミ市の露店商やマーケットの商人たちであり、その人びとを顧客としてヤミ市を経営している自分たち「組」の人々である。テキ屋の論理からすれば、土地は天下のものである。

 とくに、問題になった土地は、地主が地上権を放棄して転出した荒れ地で、自分たちが地権者の東京都や警察に委託されて整理し、再興したニワ場である。これを地割りして露店を招き、さらにはマーケットをつくってたくさんの人たちに職場を提供し、新宿を盛り場として再興してきたのだ、というのがその理屈なのである。

 ところが、この話を新宿通りの地主の側からみると、つぎのようになる。

・・・(戦時中)商店主や従業員の出征があいつぐようになり、小人数での営業が多い新宿では、営業活動に次第に支障をきたすようになってきた。・・・生活物資の配給店が指定制になり、・・・企業整備による併合があり、商業報国隊で徴用に狩り出され、強制疎開で立ち退かされ、最後に、米軍のB29爆撃機じゅうたん爆撃によって、新宿の街景そのものも消失することになる。

(『新宿大通り280年――新宿大通商店街振興組合創立30周年記念誌』1977年非売品

 というのだが、一面焼け野原となった新宿では、復員兵軍人や焼け出されの人びとが自然に売り買いをはじめる。

 しかし、この時期は、ほんのわずかである。焼けトタンや廃材で小屋がけをして商売をはじめる人が出てくるようになると、ある日突然、この地域の大区画をヨシズやベニヤで仮設したヤミ屋街がいくつも出現するのである。

 新宿大通りに面したヤミ屋街は、高野果実店の脇から三越あたりまでの一角だが、おかしなことにそれがいつ頃だったのかはっきりしない。戦前、この土地で商売していた人たち(松喜屋、中村屋など)にも、自分の土地に帰ろうとしたとき、すでに建っていたということで、それはまさに、一夜にして建った! という実感としての表現しかなかったのだろう。(同)

 元の地主にしてみれば、戦時中に全く機能を停止した盛り場で、戦時下の政府の強要によって、やむなく立ち退いたもので、本来これは汗と脂で築き上げた自分たちの資産である。戦後当然返還されるのが筋なのである。

 しかしまた、この人たちが、敗戦後しばらくの間、その土地に関心を持っていなかったのも事実である。そうでなければ、無償で瓦礫を整理し、そこに露店を導き入れるテキ屋の努力を黙ってみているわけがない。関心がなかったからこそ、「それがいつ頃だったのかはっきりしない」ともいえる。尾津の論理も、戦後の混乱期の真実の一面を語っているのである。

 これらの文章を読んでみて、まず感じるのは、両者の良識や価値観がまるで違うことである。

「組」の論理は、いうなれば、土地を単なるニワ場としてとらえ、これを商売の道具にして一時的に利用することに価値を見出す旅人のそれであり、特異な危機的環境のなかで通用する刹那的な論理である。

 それに対して、元商店主たち、地主たちの論理は、土地そのものを価値とし、その上に永住して商売する定住者のそれであり、永続性を基礎にする平常時の生活論理である。変転の極めて激しかった1940年代の後半においては、この問題は、どちらが正しいかではなく、社会がなにを論理として認めるか、によって決められる事柄であった。

「六・一休業」

 さきのベリガンはこのことに触れて、

 尾津は彼の地域の空襲で焼けたあとへ、小商人向きの、小さいながら頑丈な店を建てならべた。この土地の所有者達が尾津が地代をおさめぬばかりか、事実土地の使用について地主の許しらえていないことを抗議した時に、尾津は取調べの警官に、彼の店は世の人々のために建てたもので、これらの店の商人たちは非常に「義俠心」に富んでいるから、どの商品にも100パーセント以上の利潤を要求したことはないと語った。

(「東京のカポネ=尾津喜之助」)

 と皮肉に記しているが、1945年秋には、生活の守り神として都民の拍手喝采を受けた尾津のテキ屋論理も、かれ自身が暴力行為等取締に関する法律違反並びに強要の罪で強制収容され、公判がはじまった段階では、もはや昔日の輝きをなくしていた。

 たとえ、それが国民生活の窮乏をヤミ市に転嫁しようとするスケープゴート探しの一面を持っていたにせよ時代は確実に動きはじめていた。それは、もはや社会の共感をうるものではなく、かえって一種のカリカチュアとして受けとられはじめていたのである。

 ヤミ市と政府、占領軍との関係が1946年夏以来変化し、警察の直接取締りが強化されると、ヤミ市のシステムは急速に矛盾を露呈して機能しなくなり、各「組」に対する圧迫が強まる。

 1947年夏には、ヤミ市を支配する「組」の幹部があいついで逮捕されたり手配されるようになる。この状況のなかで、新宿の安田組、浅草の芝山組、渋谷の関東和田組、新橋の関東松田組などが解散する。

 そして、7月末には東京露店商同業組合が解散を決議するに至る。他方、この夏からは料飲店が全面的に禁止され、ヤミ市と「組」との関係は、隠微なものへと変わっていくのである。

 1949年9月、都知事、警視総監、消防総監は連名で、路上の露店の撤去通告をおこなった。三多摩と島嶼をのぞく都内の路上での露店商の商売は、1950年から1951年にかけて、完全にその姿を消した。

 また、都の幹線街路網計画による駅前広場、繁華街の土地区画整理によるマーケットの移転がはじまるのは、1950年である。

 テキ屋論理は、この時期に一部のマーケットをのぞいて駆逐され、朝鮮戦争がはじまって、日本の戦後につぎの段階が訪れる。

 ヤミ市の変化に追い討ちをかけたのは、1947年6月に東京都内で実施された「六・一休業」つまり飲食店一斉休業である。飲食店のうち、外食券食堂、旅館、喫茶店などを除くすべての営業は、この日から表向きまったく禁止されてしまう。

 これではマーケットの呑み屋も、屋台の商人も、否応なくアウトローに転化していかざるを得ない。表面はコーヒー屋、実はカストリの呑み屋といった営業が独特の街をつくりだすのは、これ以後のことである。東京で飲食店が再開されたのは、1949年6月のことであった。

ヤミ市時代の終焉

 都民が戦後のどん底を抜け出すのは、1948年の秋である。主食の配給遅延もなくなり、生産活動も再開され、都市と地方を結ぶ貨物輸送も回復して物が出はじめる。1948年9月、マッチが自由販売となる(公定価格は翌年まで残る)。

 以後、統制の撤廃は、1948年4月=野菜、6月=鶏卵・豚肉、8月=牛肉、19950年4月=魚類、5月=革靴、12月=石鹸と続いて、1951年4月には、甘藷・馬鈴薯が自由販売となる。都市の生活は急に明るくなっていく。

 そして、それは同時に、ヤミ市時代の終焉を告げるものでもあった。「六・一休業」で廃業した呑み屋のあとに、人が住みついて住宅になる街さえ出てきた。保険金を目当てにしたマーケット放火が跡を絶たず、街の風景は活気を失っていく。

 東京都が東京復興の基盤となる駅前・繁華街の土地区画整理事業に着手したのは、1950年。新宿、渋谷、池袋など13地区17カ所、1122平方キロの土地整理がはじまり、まもなく主要なヤミ市はその姿を消した。また、同じ年、道路上の常設露店も都内からすべて取り払われ、都内5934の露店は、雲散霧消した。

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