建設中の駅舎の写真が発見されたのをきっかけに、JR西日本が初代大阪駅に関するポスター展示を実施。「梅田」という地名の“謎”が解き明かされました。

今より西側にあった初代大阪駅

JR西日本は2019年10月11日(金)から27日(日)まで、ポスター展示「~John England 旧蔵写真で見る初代大阪駅『梅田』は『埋田』だった~」を大阪駅の改札内コンコースで行いました。

大阪駅が開業したのは1874(明治7)年5月11日のこと。この2年前の1872(明治5)年10月14日には、新橋~横浜間で日本最初の鉄道が開業しており、大阪駅はこれに続く2路線目、大阪~神戸間の終着駅として建設されました。

当時の大阪駅は、現在の位置よりも少し西側、JR大阪環状線福島駅方面へ進んだ辺りにありました。ちなみに計画段階では、そこから南へ下った堂島付近に建設される予定だったといわれています。しかし、当時すでに線路を京都方面へ延ばす計画があったことから、そちらへ進みやすいように設置場所を変更。駅舎は、当時の新橋駅横浜駅のような頭端式(ホームがくし形で、線路の終端が行き止まりとなった形状)ではなく、列車が通過できる一般的な構造とされました。

大阪駅は、開業から2年後の1876(明治9)年に京都方面に線路が延び、中間駅となりました。1898(明治31)年には、現在のJR大阪環状線JRゆめ咲線桜島線)の一部である、大阪~安治川口間が開業します。当時、この路線は西成鉄道という私鉄が運営していましたが、その列車が国営の大阪駅に乗り入れるという形になりました。1900(明治33)年には、JR大阪環状線の東側半分を運営していた関西鉄道も、独自に設置していた梅田駅を移転する形で大阪駅に乗り入れ、大阪駅は次第に活況を呈するようになります。

「大阪」と言えば「ミナミ」だった

1901(明治34)年、手狭となった初代大阪駅の東側に、2代目の大阪駅が建設されて移転。現在の場所です。やがて西成鉄道と関西鉄道は国有化され、大阪駅は国営鉄道の単独駅へと戻りました。

ちなみに、当時は大阪駅のことを「梅田駅」「梅田ステーション」と呼ぶ人が多かったそうです。というのも、当時この辺りはまったく開発されておらず、「大阪」といえば難波や心斎橋などの、いわゆる「ミナミ」を指していたため、「大阪駅」と言われてもピンとこなかったとか。1906(明治39)年には阪神電気鉄道が、1910(明治43)年には箕面有馬電気軌道(現:阪急電鉄)が、いずれも大阪駅に隣接してターミナル駅を開業しますが、両駅とも「大阪駅」ではなく、「梅田駅」と名付けられました。

今回のポスター展示は、この初代大阪駅の建設を記録した写真が見つかったことから企画されました。これまで、完成後の写真は各所で公開されていましたが、建設時の写真は発見されておらず、とても貴重な資料だといわれています。

この写真を撮影したのは、イギリス技術者John England(ジョン・イングランド)氏です。同氏は初代大阪駅の建設に携わっており、その時に撮影したものと思われます。同氏の子孫が保管していた写真を、京都大学鉄道研究会OBである西城浩志氏らが分析した結果、初代大阪駅の写真であることが判明しました。

湿地帯を開墾して生まれた「梅田」

そして、この写真からある事実が明らかになりました。それは、「大阪駅がある辺りは、もともと湿地帯だった」ということです。従来、大阪駅の所在地である梅田は湿地帯を田んぼとして開墾した場所、つまり「埋めた田」が名前の由来だという説が語られていました。ただし、証拠となる資料はなく、あくまでも推測の域を出ていなかったのです。今回の写真は、民家などがまったくない砂地の場所に大阪駅が建設される様子が記録されており、この説が裏付けられました。

写真には、地下水をくみ上げるための井戸も写っており、地下水位が高く軟弱な地盤であることがうかがえます。実は、今も梅田エリアは地下水位が比較的高く、大阪駅の北側で建設が進む「うめきた新駅」の工事現場では、地下水の対策が入念に行われています。

ところで、どうして地名は「埋田」ではなく「梅田」なのでしょうか。こちらも正確な記録は残っていないのですが、「埋田」ではイメージが悪いことから、江戸時代に「埋」ではなく「梅」の字を充てるようになった、という説が有力です。なお、写真では梅の木は確認できませんでした。

展示されたポスターには、レンガ造りの駅舎を建設する様子や、転車台を造る途中の写真が掲載され、多くの人が眺めていました。今や一日80万人以上が乗り降りする大阪駅ですが、開業時は大阪市の中心部から遠く、何もない場所に作られたことがよく分かりました。

今回の展示はすでに終了していますが、今後も展示される機会があることを期待したいところです。

大阪駅(画像:写真AC)。