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フランスの一般道を800km走ったタイプ59

textMick Walsh(ミック・ウォルシュ)
photo:Tony Bakerトニー・ベイカー)
translation:Kenji Nakajima(中嶋健治)

 
レーシングドライバー、HWMのジョージ・アベカシスとレーシングチームを、1935年製のグランプリマシンと一緒に手に入れて、イングランドの自宅へドライブすることを想像してみる。

これに似た状況が、若きプライベート・レーサーだったチャーリーマーティンリチャード・シャトルワースの身にも置きた。フランス・モルスハイムで、ワークスマシンだった1935年製ブガッティタイプ59、シャシーナンバー59121を手に入れたのだ。

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ブガッティタイプ59(1935年)

ブガッティタイプ59といえば、史上最も美しいレーシングマシンの1つ。シングルシーターのレーシングマシン一般化していく中で、最後の2シーター・マシンでもある。

レース部門で簡単な案内を受けると、マーティンはまばゆいタイプ59に飛び乗り、フランス横断の800kmの旅へと出発した。サポート車両もなく、コクピットに小さなスーツケースを放り込んで。大雨の予報で、エットーレブガッティからマッキントッシュ製のレインコートも借りたらしい。

この横断旅行の内容は、戦前のブガッティクラブ誌、ブガンティクスにも掲載された。プラグ交換でターミナルをプラグホールに落としたり、性能の低い燃料ポンプ対しての不満まで、鮮明に記録されている。

顔に当たる雨滴で頬は赤くなり、凍結して固まった土が顔に飛んできた。雨で濡れた道を走る大変さを実感しただろう。クラクションもないクルマで、ゆっくり歩く地元の人たちを追い越すことも、毎回チャレンジ的要素だったはず。

信頼性に課題のあったブガッティ

過度なチューニングを受けていたからスタートも難しく、丘の上で停車もできなかった。沿道の人の力を得て押してもらったり、別のドライバーにお願いして牽引スタートもしたようだ。

マーティンフランス北部のメスの街で一泊した。翌日の天気は回復し、メスで手に入れた新しいゴーグルとベレー帽をかぶって出発する。ブルゴーニュ地方で記憶に残るようなドライブを楽しんだはず。

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ブガッティタイプ59(1935年)

この自動車旅行は実際の出来事で筆者のお気に入り。240km/hは出たブガッティを、信号機も街路灯もない当時に800kmも走らせたマーティンドーバー海峡につくと、フェリーに乗せる前に港でブガッティを洗った。

深い緑色に塗られたタイプ59は、1935年にマーティン本人がレースを戦ったクルマ。善戦したものの、ライバルだけでなく信頼性との戦いでもあった。戦績のハイライトは、英国マン島ダグラスサーキットでの2位と、ドニントン・グランプリでの3位。

クルマの不信感は募る一方で、シーズンの終盤には手のかかるブガッティタイプ59を売却し、マーティンアルファ・ロメオ・ティーポBを購入していた。次のタイプ59のオーナーは22歳の若きグラフトン公爵だったが、1936年のリムリックグランプリでクラッシュ。悲劇的にも命を落としている。

タイプ59、59121は英国へ上陸すると、上流階級が好んで開いていたレースへと巻き込まれる。タイプ59はブガッティの専門ショップアーサーバロンが買い取り、プリセレクタートランスミッションに換装しリビルトを受けた。

充分な競争力を持っていたグランプリマシン

紫色に塗り直されたタイプ59は233psを発揮。英国では充分に競争力の高いクルマだった。バロンはスプリントレースで最速タイムを連続して記録。開戦間際、ブルックランズで開かれたヒルクライムレースでも優勝している。

戦争が終わると、エンスージァストは古いレーシングカーを物色し始めた。ブガッティ59は、HWM社でエースを務めるレーシングドライバージョージ・アベカシスらによって購入された。

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ブガッティタイプ59(1935年)

戦後初めてのレースとなったグランズデン・ロッジ・エアフィールドでは、アベカシスブガッティサイクルフェンダーを付け、特性の混合燃料を搭載。会場までの130kmを自走した。途中のバーネット・バイパスでは190km/h以上のスピードが出たようだ。

ロータリー交差点ではスピードの出しすぎでスピンを何度か繰り返したものの、クルマの実力に自身を持ったアベカシス。その後のレース本番でも優勝している。

アベカシスタイプ59をとても気に入った。リアタイヤダブルで履き、青く塗り直したタイプ59は、英国ヒルクライムチャンピオンシップで高い実力を示す。1947年シーズンを劇的に走らせた。

それから2年ほどアベカシスタイプ59を走らせたあと、ケネス・ベアに売却する。彼はブガッティオーナークラブの創設メンバーで、マン島でのレースでは優勝経験もあるドライバーだ。

整備不良に寄る死亡事故

彼はスーパーチャージャーを取り外し、スタッフォード・イーストが開発したゼニス・キャブレターを4基搭載した。ベアはヒルクライムでの成功を喜び、1948年ザントフォールト・サーキットで開かれたオランダグランプリなど、海外にも遠征している。

英国本土では一般道でのレースは禁止されていたが、1949年ジャージー島で開かれたレースには、9台のマセラティと8台のERAイングリッシュ・レーシングオートモビル)など、そうそうたる顔ぶれとなった。16歳を迎えていたブガッティも、ベアのドライブで参戦した。

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ブガッティタイプ59(1935年)

しかし午後の練習走行中に悲劇が襲う。チームは彼の友人、スタッフォード・イーストが運営していたが、プリセレクタートランスミッションの修理に追われていた。恐らくその疲れで、タイプ59の特徴でもあるブレーキコンプレッサーのリンケージ固定を忘れていたのだ。

数周の走行後、タイプ59がブレーキケーブルを引きずっているのが確認されていた。タイトなル・マーカンド・コーナーに高速で侵入するが、リアの左ブレーキロックブガッティは激しくスピンし壁に激突。ベアは路上に投げ出され、数時間後に亡くなってしまう。

ベアとイーストとは親友を超えた仲で、半ば兄弟のような関係だった。ブレーキのリンケージ不良という事実。イーストの深い罪悪感と絶望感は想像に難くない。

ベイロンの開発者がオークションで落札

クラッシュしたタイプ59は倉庫へ保管され、イーストも数年間はモータースポーツから姿を消す。だが亡くなったベアを追悼する気持ちも込めて、イーストタイプ59を買い取り、自宅のワークショップレストアを始める。

スタッフォード・イーストは優れたエンジニアでした。クラッシュ後のクルマの状態は相当悪かったはずです。復元作業は辛いものだったでしょう」 と話すのはブガッティを専門とするティム・ダットン。

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ブガッティタイプ59(1935年)

変形していたシャシーは真っ直ぐに戻され、T59の特徴的なテール部分もリベット打ちで作り直された。エンジンスーパーチャージャーでの過給に戻されたが、プリセレクターミッションは残された。

リビルトは1981年に完了。その翌年には著名なジャーナリスト、デニス・ジェンキンソンの立ち会いのもと、32年ぶりに復活した。その後、表にはほとんど姿を見せていなかったが、1993年アメリカプレスコットで開かれたタイプ59、59121のミーティングではスター級の扱いを受ける。

2005年にグッドウッドでオークションに掛けられ、トーマス・ブシャーが落札。後にブガッティのボスに就任する、ベイロンの開発をまとめていた人物だ。熱狂的な自動車ファンで、古いマセラティでのレースを楽しんでいただけでなく、マクラーレンF1を通勤に用いていたほど。

その後のタイプ59、59121の再生ストーリーは後編にて。


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