11月18日、「西日本新聞」が、厳しいノルマによって心身が追いこまれて、最後は勤務する郵便局の4階から飛び降りて亡くなった当時51歳の郵便配達員のことを報じた。

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 記事によれば、この男性は、郵便物の取扱件数が首都圏有数の大規模局に異動後、年賀はがきの販売ノルマ達成や時間内の配達を執拗(しつよう)に求められているうちに、うつ病を発症。休職と復職を繰り返し、異動希望を出したが、上司が「病気を治さないと異動させられない」と放置。2010年12月に自ら命を絶った。男性の妻によれば、亡くなった翌日、ノルマ達成のために購入した商品が「ゆうパック」で届いたという。

 このような話を聞くと、「ハードな目標を課して、実力以上の力を発揮させようという欧米の成果主義が問題だ」みたいなことを言う人たちが必ず現れる。確かに、東芝、商工中金、神戸製鋼など「現場への重いノルマ」に起因する不正が続発しているのも事実だ。これらの問題を受けて、「ノルマ廃止」へとかじを切った企業も出てきている。

 ただ、個人的には、成果主義をどんなにボロカスにこき下ろしたところで、このような問題は一向になくならないと考えている。日本では「ノルマ」と「成果主義」は、言い方がちょっと違うくらいのものだと混同している方が多いが、実は両者はまったく異なるものだからだ。

 成果主義とは基本的に「個人」の問題である。成果を上げられた人間には多くのインセンティブが付いて、成果を上げられない人間には付かない。同期入社だとか、社歴が長いとか、社長の派閥に属しているとかはまったく関係なく、「個人の実力」が評価されるシステムだ。

 それこそノルマじゃないか、と思う方もいるかもしれないが、こちらは実力の評価ではなく、「個人が課せられる義務」である。

 組織やチームに属する人間である以上、誰もが課せられ、クリアしなければいけない義務――「組織人として果たすべき責任」と言ったほうがしっくりくるかもしれない。

 責任や義務という重苦しい響きがゆえ、年貢や税金と同じように、この責任を果たさない者は組織内で吊し上げられる。不正受給をする者が社会から激しいバッシングを受けるように、ノルマを達成している者たちから、冷遇・糾弾・排斥される。要するに、イジメに遭うのだ。

●無責任なことはできません

 成果主義の外資系企業などで、目標を達成できなくてもイジメに合うことはない。確かに、職場に居場所がなくなるというような最悪の事態が起きる場合もあるが、あくまでそれはその人の能力が招いた結果なので、批判や糾弾の対象になるような話ではない。成果主義とは、その仕事、その職場で実力を発揮できなかった「個人」がツケを払うシステムなのだ。

 しかし、ノルマ主義の企業ではそんな生ぬるい話は通用しない。目標が達成できないことは、組織にいる誰もが達成している義務を果たしていない「みんなへの裏切り」という位置付けになるからだ。成果主義のように、「個人」が職場を去ればいいというレベルではなく、人として果たさなくてはいけない責任から逃げるという「重罪」になる。

 だから、真面目な人ほど逃げられない。「ノルマ達成できそうもないんで辞めますわ」なんてサクッと退職願を出せない。なぜなら、我々は幼いころから「みんなに迷惑をかけるな」としつけられている。「みんな」が達成しているノルマを、自分だけが達成できないのは、「みんなにめちゃくちゃ迷惑をかけている」ことになる。

 というわけで、真面目な人はまず自分を責める。悪いのは会社やノルマではなく、それを達成できない自分に原因があると考えるのだ。そして、そのような状態が続くと、自分には生きている価値がないと思ってしまう。

 これが「過剰なノルマ」で精神的に追いつめられ、自ら命を絶ったり、不正に走ったりする人が後をたたない理由である。

 これまでブラック企業で働いていて、過剰なノルマで心身を追い詰められた人たちに何度か取材する機会があった。ほとんどの人たちが「仕事ができない自分が悪い」などと口にするので、「仕事が合わないなら辞めたほうがいいのでは?」というと、多くの人からこんな答えが返ってくる。

 「みんなに迷惑がかかるのでそんな無責任なことではできません」

●日本企業の「ノルマ」は、ジメジメ

 仕事で迷惑をかけている上に、さらに辞めることで迷惑をかけるというのだ。このような強烈な罪悪感や自責の念は、外資系企業で成果主義から仕事を奪われた人からは、ほとんど聞いたことがない。

 では、いったいなぜ日本企業の「ノルマ」はこんな風に、連帯責任ベースにしたジメっとしたものになってしまったのだろうか。

 「ノルマ」のルーツについて、よく言われるのは、戦後にソ連から引き上げてきた人たちが広めたということだ。ご存じの方も多いかもしれないが、実は「ノルマ」はロシア語。敗戦後、シベリアで強制労働をさせられた日本人たちが、ソ連兵から「ノルマ」「ノルマ」と口すっぱく言われたことで、この言葉を覚えて、帰国後に一気に広まったという。

 と聞くと、「そういうルーツだから、日本のノルマはブラック労働っぽいのか」と妙に納得するかもしれないが、それは「ガセ」だ。「ノルマ」という言葉自体は、戦前から普通に使われている。というより、もっと言ってしまうと、日本社会は戦前から旧ソ連の影響をかなり受けている。例えば、終身雇用なんても実は日本オリジナルの制度ではなく、ソ連が推進していた計画経済の中の雇用形態をパクったものだ。

 では、「戦後に広まった説」が事実ではないとしたら、我々はいつからこのジメっとした連帯責任的な成果主義を取り入れたか。正確な時期は分からないが、少なくとも戦前戦中には日本社会にノルマらしい考え方は存在している。その証となるのが、「隣組」だ。

 これは戦時体制下に、時の政府が主導して、国民を統制するために組織させたもので、町内会の下部に当たる、隣近所単位の組織である。表向きは苦しい戦時下を隣近所で助け合っていこうということだが、不満分子などがいないか互いに監視をさせるという意味合いもあった。そんな戦時下のマネジメントである「隣組」にも実は、ノルマが課せられていたのだ。

 当時、町内会や隣組の連絡には「回覧板」が用いられた。その内容は主に、配給に関する通知が中心であるが、防空訓練の通知、灯火管制の徹底、さらには国債の購入の呼びかけや、貯蓄の奨励もあり、その中でノルマが定められていたのだ。

 例えば、『田園調布の戦時回覧板 付 田園調布のあゆみ』(著:江波戸昭 、田園調布会発行)には、以下のような記述がある。

 「昭和19年1月13日 仇討貯金に就て(目標額5万円)」

 この目標は「出せる人が出せばいい」という生ぬるいものではないことは、容易に想像できよう。表向きは個人の好意、自由意志というニュアンスになっているが、隣組というチーム日本人としては当然の「義務」にされたはずだ。郵便局に勤める者ならば、誰もが達成しなくてはいけない年賀はがきのノルマと同じノリである。

 裏を返せば、このノルマに貢献できなかった人たちは、強烈な罪悪感に襲われたということでもある。「非国民」のそしりを受けたかもしれない。

●問答無用で課せられる「義務」

 ここまでお話をすれば、もうお分かりだろう。こんなジメっとした連帯責任は、断じて「成果主義」ではない。達成できなければ、「みんなが達成しているのになぜお前はそれができないのだ」と吊し上げられる“ムラの掟(おきて)”である。

 つまり、日本企業の中で、さまざまな人たちを追いつめている「ノルマ」なるもののルーツは、実はこの数十年で日本に上陸した欧米の成果主義ではないということである。

 日本のノルマはそういう個人レベルのカラっとした話ではない。隣組に象徴されるように、閉鎖的なムラ社会の中で、いかに個人に自分勝手な立ち振る舞いをさせず、命令に素直に従う人間をつくるかを目的としたものだ。

 かんぽ生命などの問題を受けて、「過剰なノルマ」を見直す動きが加速している。中には、ノルマを課せないと宣言をする企業も出てきている。

 だが、これまで見てきたようにこの問題の本当の「病巣」は、我々が幼いころから脳みそに叩き込まれている「みんなに迷惑をかけるような者は、生きている価値がない」という教育にある。

 見直すべきは「ノルマ主義」という表面的な話ではなく、日本人が戦後70年を経ていまだにズルズルと引きずり続けている「全体主義」なのではないか。

(窪田順生)

厳しいノルマに悩まされている人も多いのでは