2019年のノーベル平和賞は、エチオピアのアビ・アハメド首相に授与されました。
ところが受賞の報の直後、これに抗議する人々のデモと治安部隊が衝突し、67人が亡くなるという報道がありました。
全く穏やかではありません。ノーベル平和賞を受賞したはずの治安部隊側の発砲で死者が出ており、決して「平和な平和賞」ではないことが知られます。
アフリカ大陸には国境がありますが、その多くは直線で仕切られています。例えばエジプト、リビア、スーダン、チャドなどの間の国境は、サハラ砂漠の上に引かれた真っ直ぐの線で、つまり架空の国境に過ぎません。
誰が引いたか、と言えば、アフリカを植民地として権利を主張し合った西欧列強による分割で、実際のアフリカ社会は別のルールでできています。
それは「部族社会」です。
ルワンダ・ジェノサイドで対立した「フトゥ」「トゥティ」の両者は<部族>ではなく社会階層の違いでしたが、実質的にはグループとして対立し、3か月間で120万とも180万ともいわれる数の犠牲者が出ました。
アフリカの対立は欧州の植民地化と部族の対立を考えねば、一般には何も分かりません。
しかし、広いアフリカ大陸の中に、2つだけ、独立を保った国家があります。すなわち、ごく一時期の例外を除いて、アフリカ人の自治国家が継続した国があるのです。
一つは「リベリア」ですが、これは名前から分かるようにリベラル、リバティ、つまり自由の名を冠した、アメリカ合衆国で解放奴隷となった人々がアフリカに戻ってアメリカ合衆国憲法を範として建国した国家です。
リベリアの国旗は「星条旗」に星が1つだけというもので、建国の経緯もあって西欧列強の植民地化は避けられました。
では問題がなかったかと言われると・・・そんなことは全くありません。
米国で奴隷から解法された黒人支配階層は、元来このエリアの出身ではなく、様々な地域にルーツを持つ人々です。
そのような「アメリコ・ライべリアン」と、そもそもこのエリア(胡椒海岸)に住む原住民との間には、差別と対立が発生します。米国からの移民と違い、欧化されておらず貧困層を形成していたためです。
このアメリコ・ライべリアン支配は1980年にクーデタで終結しますが、以後、リベリア現地の部族間対立によって血で血を洗う凄惨な対立と内戦が断続しています。
やはり「部族対立」がアフリカを特徴づけていることは間違いありません。
このリベリアと似て非なる経緯を取ってきたのが、エチオピアの歴史にほかなりません。
大日本帝国憲法とエチオピア独立
リベリアは1847年、つまり19世紀半ばに、先進国の支援もあって作られたアフリカの拠点という性格がありましたが、それと全く事情が違うのがエチオピアです。
エチオピアの歴史は古く、その国名はギリシャ語で「日に焼けた顔」を意味するアイティオプスに由来します。
紀元前から栄えた古代エチオピア帝国は、3~4世紀にかけてキリスト教が伝来し、コプト派キリスト教国として大いに栄えます。
このエチオピア・キリスト教徒たちはイスラム勢力と良好な友好関係を保ち、中世には独自のアフリカ・キリスト教大国として繁栄し、ローマ教皇などとも友好関係を取り結びました。
近世のエチオピアが独立の命脈を保つことができた一因には、このキリスト教の背景が存在すると考えられます。しかし19世紀の帝国主義はそこまで甘くありませんでした。
エチオピアも、とりわけ後発列強として植民地獲得を急いで、ソマリア、エリトリアを領有していたイタリアによって容赦なく植民地化の危機にさらされます。
しかし1896年「アドワの戦い」でイタリア軍を下し、独立を守りました。
この年号が、日清戦争の勃発した1894年と近接していることに注意する必要があります。
つまり東アジアにおいては、大国である清に対して新興国の日本が勝利し、10年後には列強の一つであるロシア帝国も打ち負かして領土を拡大、日本が列強の一角に台頭するわけです。
片やアフリカでは、イタリアを打ち負かして領土拡大とまでは行きませんでしたが、現地民が帝国主義の支配をはねのけて、独立を守ることができました。
この時期以降エチオピアは日本を手本として、民族自決を考えるようになります。
エチオピア帝国最後の皇帝であったハイレ・セラシエ1世(1892-1975)はエチオピア正教会に属するキリスト教徒でした。
1916年に摂政として国内の実権を握ると、第1次世界大戦後の1924年には国際連盟に加盟、イタリアやフランスなど近隣植民地からの帝国主義支配を強める列強に対抗すべく米国や日本との関係を強化します。
そして1930年に即位すると、翌31年に大日本帝国憲法を模範とするエチオピア初の成文憲法「1931年憲法」を発布して絶対主義的な支配体制を確立します。
ハイレ・セラシエは黒人民衆の「現人神」と位置づけられ、イキガミであるエチオピア皇帝を軸として、西欧列強の進出に対して対抗するアフリカ自決のイデオロギーとして機能します。
のちにジャマイカ出身のラスタファリ運動ではハイレ・セラシエがキリスト教の神と同一視されるような右派的傾向をも生み出しています。
ともあれ、ハイレ・セラシエ1世は、エチオピア国内の互いに対立する各部族の地主支配や搾取など、古くからの経済構造を基本的に温存し、地域共同体を守るとともに、西欧列強の植民地支配による社会の崩壊・改変を免れることに成功します。
ここから「大日本帝国憲法」のようなものの持つ意味や効果もよく分かると思います。
絶対主義憲法の功と罪
エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は1935年からファシスト政権イタリアの攻撃を受けて翌36年、ナチス・ドイツのヒトラーがベルリン・オリンピックを開催した年にロンドンに脱出します。
しかし、5年の亡命生活を経て1941年、英国軍によってファシスト・イタリアは駆逐され、再び凱旋することになります。
そののち、1974年に帝国が崩壊するまで、ハイレ・セラシエ1世は30余年にわたってエチオピアに君臨し、外交面では独自の活躍を見せました。
その際、疑似「大日本帝国憲法」による国内統治は地方の有力者利権を温存し、政党を禁じ自由な経済発展を阻害するローカルな搾取構造に依存したままだったので、世界の波に乗り遅れ、第2次世界大戦後の高度成長からすっかり取り残されてしまいます。
その結果、戦後のブレトン・ウッズ体制で躓き、さらにそのレジームが崩壊する石油ショックの時期には、エチオピアは世界最貧国の地位にまで転落してしまいます。
82歳の高齢に達していたハイレ・セラシエ1世はクーデターによって逮捕・廃位され、射殺されて生涯を閉じました。
ここから、アラヒトガミを担ぐ「大日本帝国憲法」のような絶対主義体制の持つマイナス面が露骨に見て取れます。
地域ごとのローカルな搾取構造を温存し「身の丈」に合った代々の生活の踏襲を強要、優秀な人材があっても適切な教育を受けさせることなく、国内の自由な経済発展やイノベーションを阻害させてしまう。
無能な地主など地域のボスが利権を貪り続けることで、地域ないしは国家全体の成長が停滞し、GDP(国内総生産)は伸びず若者はロスジェネレーション化、将来に期待が持てず社会不安が広がる・・・。
まるでどこかの国のどこかの時期のような状況をエチオピアの歴史は露骨に垣間見せてくれています。
こんなところで「天皇陛下万歳」のような「ハイレ・セラシエ現人神」の万歳連呼や個人崇拝を続けても、しょせんは社会の矛盾が激化して、80歳を過ぎた現人神が廃位、銃殺されて帝国2000年の歴史が閉じるのが関の山ともなりかねません。
そのようになって以降のエチオピアはいったいどうなったのか?
そこにこそ今年のノーベル平和賞の光と影があります。
日本がエチオピアに学ぶこと
1990年代。血で血を洗った旧ユーゴスラビアの内戦はいまだにその禍根を引きずっています。これはチトー(大統領)という圧倒的な求心力を失ってバラバラになったバルカン半島を襲った分裂の悲劇でした。
エチオピアも、列強の支配からアフリカ黒人の自決国家を守るという意味をもった「大日本帝国憲法」型の絶対主義独裁が、「開発独裁」の体裁を為さず、停滞的な部族封建社会を温存したために20世紀の高度成長トレンドに完全に乗り遅れた。
そこで、エチオピアは貧困と飢餓を乗り切るべく、別の求心力、冷戦期の一神教というべき社会主義に舵を切ります。
背後にはソ連の支援があり、エチオピアは臨時軍事行政評議会が支配するソビエトの衛星国として、スターリン粛清なみの恐怖政治が続きます。
ところが、雪解けの1987年に立憲制の人民民主共和国が宣言され、冷戦崩壊後の91年、まず併合していたエリトリアとの分離紛争が勃発、93年にエリトリアが独立、エチオピアも95年に連邦民主共和国に体制が変わり、現在に至っています。
ここからエチオピアの抱える病が透けて見えることになります。
日本同様、アラヒトガミを担いで西欧列強の植民地支配を免れたエチオピアでしたが、封建的な身分固定型の停滞憲法に固執したために、社会経済は成長のタイミングを逸し、国家経済は下流に転落します。
いま日本で「身の丈」などという言葉が去来したり、あろうことか教育勅語など、旧憲法体制への反動のようなものも見かけるわけですが、これらは「エチオピア状況」への転落に直結します。
おかしな憲法壊制は予防しなければならないでしょう。
入試制度を壊しかけていますが、身分の固定化は間違いなく社会を停滞させるとともに、階層化と貧困の固定、社会不安や若年層の不満の堆積などを招来し、ろくな未来をもたらさないのも、エチオピアの歴史が雄弁に教えるところです。
今回ノーベル平和賞を授与されたアビ・アハメドは1976年生まれでいまだ43歳の壮年軍人ですが、かつて併合し、1990年代の分離独立以来、武装対立が絶えなかったエリトリアとの和平を成立させたことで、ノーベル賞を授与されました。
かつて併合した地域と、ヘイトの何のといったゼノフォビア、対外嫌悪で右傾化することがいかに愚かしいか、どこかの国も参考にするとよいと思います。
さて、しかし昨年2月に首相に選ばれたのが若いアビ・アハメドで、その名の示す通りイスラムの背景をもち、エチオピアの人口で最大数に相当する「オロモ人」出身の初の首相になります。
民衆人口の多数を占めるオモロ人は、リベリアやルワンダでの歴史と同様に、エチオピア内戦を通じて民族自決の分離独立を主張し、統一政府からテロリストとして弾圧されてきた歴史があります。
エチオピアの1995年憲法は、各部族に民族自決の権利を認める画期的な内容が記されており、自治を認めた「連邦民主共和国」の体制を取っているはずです。
ところが、その実は政権を取った人口第2位勢力の「アムハラ人」人口第3位の「ティグライ人」などの政権下で不満が鬱積し、オロモ人の土地「オロミア」の独立を求めて先鋭化します。
2018年の2月には非常事態宣言が出されるなか、オロモ人のアビが首相に選出されたという経緯がありました。
アビ首相は、周辺国との緊張を緩和し、自国内の民族間対立を融和に導く人道的な政策を相次いで打ち出し、永年の外交課題であったエリトリアとの和平を成立させます。
しかし、こうした融和政策に、そもそものアビの出身母体であるオロモ人急進派が反感を持ち、反旗を翻すようになったのです。
自分たちオロモ人の代表として全エチオピアの舵取りを任されたのに、むしろオモロ人に不利な融和政策ばかりやっている。
アビは独裁的だという急伸右派の武力を含む抵抗が、今回報道された治安当局とデモ隊の衝突の実態と考えられています。
融和主義政策が弱腰だとして右派が台頭というと、第2次世界大戦前のネヴィル・チェンバレン英国首相を想起せずにおられません。
彼の異母兄にあたるオースティン・チェンバレン英外相は第1次世界大戦後、平和共存のロカルノ条約締結で1925年のノーベル平和賞を受賞しておりなおさらそれを感じます。
その反動の色彩ももってウインストン・チャーチル政権の第2次世界大戦参戦に至る経緯、チャーチルはのちにノーベル文学賞を受けますが、平和賞をもらうような人物では決してありませんでした。
金本位制に関するチャーチルの光栄ある大英帝国妄想という時代錯誤は、ボリス・ジョンソン現政権の迷妄の祖先の一つのようにも思います。
閑話休題
自分たちの部族をこそ優遇すべきだという地元利権で固まった行動右翼が、政府側治安当局と衝突して70人からの死者が出る現状に、部族支配と対立、もっと言うならその利権構造の根深さを見ないわけにはいきません。
ノーベル賞、ひいては先進国際社会は、アビ首相の融和政策を支持、評価して今回ノーベル平和賞を与えました。
間違ってもドナルド・トランプ米大統領や北朝鮮の金正恩委員長にノーベル平和賞が与えられることはありません。
バラク・オバマ前大統領にはノーベル賞が与えられましたが、トランプ氏には終生こうした賞は無縁です。
グローバル社会はブロック経済と自由な体制の維持を重視し、本質的にそれに反するトランプ大統領のような人物を危険視こそすれ、東アジアでのスタンドプレーなど評価することは決してありません。
エチオピアのケースも全く同様で、反動的な民族利権と分断を優先する右派の動きに対して、できるだけ平和的な方法で、アビ政権が対処することを各国は望んでいます。
67人の犠牲者が出たことは大変に残念で、繰り返されるべき事態ではありません。
状況は日本についても全く同様です。社会格差の助長やローカル利権の温存による反動、右傾化などは、厳しく国際社会から警戒視されていることを認識すべきと思います。
日本がエチオピアの失敗に学び、同じ轍を踏まぬようにすべきポイントは、まだまだ沢山あると考えておく方が無難、転ばぬ先の杖が大切と認識すべきでしょう。
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