AfDのデモ (Photo by Bernd Wüstneck/picture alliance via Getty Images)

 2019年10月27日ドイツ東部テューリンゲン州で州議会選挙が行われ、極右政党であるAfD(ドイツのための選択肢が躍進した。第3党に転落した与党・CDU(キリスト教民主同盟)を抜いて、第2党になったのである。

 11月3日、やはりドイツ東部のザクセン州ドレスデンでは、台頭する極右過激主義を受け、「ナチス非常事態」を宣言。排外主義や暴力に反対する決議案を可決した。

 2017年ドイツ連邦議会選挙でAfDは94議席を獲得し、第3党となった。周辺諸国で極右政党が台頭する中、ドイツだけは大丈夫だと思われていたが、やはり欧州の政治トレンドからは逃れられなかった。ドイツは、欧州一の経済大国であり、日本と同じく過去に極右全体主義の過ちを犯してしまった国だ。こうした国での極右勢力の伸長については、大きな関心を持って、注目していく必要がある。

◆右翼の台頭の思想史的な解説

 2019年1月に新泉社から出版された翻訳書、フォルカー・ヴァイス『ドイツの新右翼』は、AfDを構成する勢力のひとつ、新右翼と呼ばれる人々について、思想史の立場から解説した本だ。彼らは21世紀になって突然登場した勢力ではない。また、いわゆるナチスおよびその後継者たるネオナチ同一視するのも正確ではない。彼らは、思想的には戦間期と呼ばれる第一次世界大戦第二次世界大戦の間のドイツにおける、のちにアルミンモーラーによって「保守革命」としてまとめられるような右翼思想家たちに連なっている。

 1章から6章までで、ヴァイスは、そうした戦後ドイツの右翼思想を系譜学的に叙述する。その語り口は、訳者の長谷川晴生による当意即妙な訳語の選択とも相まって、とても興味深く、分かりやすく仕上がっている。

 ヴァイスの仕事でひとつ特徴的なのは、新右翼の成り立ちについて、社会学的なアプローチをとらないことだ。極右勢力や排外主義の台頭についての通俗的な説明では、没落した中産階級や貧困層が、国家リソースが移民たちに奪われることへの不安を感じて右傾化しているとする。社会学的なアプローチでは、アンケートや統計を駆使して、右翼の構成員の社会的な立場を明らかにすることによって、右傾化の理由を外在的な原因に求めていくのだが、一方で右翼思想や言説の分析については軽視される傾向にある。

 思想史家であるヴァイスは、こうした方法論を用いることはない。彼の関心は、右翼たちの社会的な地位(ステータス)ではなく、あくまでも右翼が用いている言説のオートポエティックな連続性なのだ。要するに右翼をつくる力を、外在的要因ではなく内在的要因に求めているのである。この立場に立つからこそ、彼は右翼の「陣地戦」に注目できたのである。「陣地戦」は、左翼思想家であるグラムシの運動理論で、革命の成就のためには、少しずつ自分たちの陣地を広げるための戦術的な努力が必要であるというものだ。この理論は世界的に左翼運動が高揚した1968年以降、右翼によっても用いられるようになったというのだが、ヴァイスによれば、現在の右翼の成功の要因のひとつは、この地道な右翼の「陣地戦」の成功にあるのである。日本でも、近年になって日本会議の草の根活動の「成果」が注目されるようになった。その文脈でも、右翼と「陣地戦」との関係を示した指摘は重要だろう。

◆新右翼の敵はイスラムなのか?
 新右翼の思想について、本書で一貫して描かれているのは、彼らの「場所」への地政学的な固執だろう。一般的には、ドイツ含む欧米の21世紀の右翼の主要敵はイスラムだと思われている。ところが、ヴァイスは新右翼の歴史と言説を叙述していくなかで、新右翼と(保守的な)イスラムはむしろ近い存在だと主張する。彼は、新右翼の思想家の幾人かはイスラムの思想に敵対的ではないことを例示している。たとえばジェンダーや家族に関する考え方については、右翼はイスラムと一致できるというわけだ。また、イスラムヨーロッパにやって来ることさえしなければ、つまり、「我々の場所」に侵入しなければ、どこで何をしようが構うことではないのだ。

 では誰が真の敵なのか。リベラルである。自由主義思想の根底にある、人権や平等を旨とする普遍主義が右翼の絶対的な敵対者なのだ。右翼にとってリベラル普遍主義はアメリカニズムの形態をとって表れる。しかし、アメリカニズムでもたとえば経済的な弱肉強食は右翼的な思考と親和性はある、とヴァイスは指摘している。あくまでも問題は、「場所」に根差したアイデンティティと敵対する普遍主義なのである。彼らにとってそれは、人々の「場所」に根差したアイデンティティを根こそぎにしてしまうものなのだ。

 このように、ヴァイスは右翼の言説を内在的に分析しながら、彼らの根底にある考え方を暴き出す。とはいえ、彼は右翼の言説を何か深遠なる哲学として肯定的に評価しているわけではない。それらは吐き気がするような差別や憎悪で満ちているし、相互に矛盾していたりする。そうした矛盾については本書でヴァイスもよくツッコミをいれている。にもかかわらず、右翼言説は、ある言説空間において、絶えず再生産されてしまうのだ。そこでヴァイスが問題にするのは、右翼的思考の源泉にある「神話」なのである。より具体的には、第7章で詳述される「夕べの国」(アーベントラント)概念と、第8章で扱われるカールシュミットの「大圏域」(グロースラウム)概念のことである。

◆新右翼の「神話」――「夕べの国」と「大圏域」
「夕べの国」とは、ユーラシア大陸の反対側の日本が「日の出ずる国」と表されるようなもので、ヨーロッパのことを指す。しかし「日の出ずる国」と同様、「夕べの国」というフレーズには、当地の人々にとって何かエモーショナルな感情を掻き立てるものがある。それはドイツの民族主義にとって「我々の場所」のことなのだ。だが、その具体的な理念は、時代によってその都度異なっており、正反対の意味でさえ用いられる。したがって、ヴァイスはこの言葉をむしろ「神話」として捉えている。しかし「神話」であるからこそ、「夕べの国」は右翼にとって強度の高い、外部に対する「闘争概念」となってしまった。

 このあたりのヴァイスの議論は、彼が新右翼に影響を与えていると主張している、公法学者カールシュミットの議論に、彼自身が影響を受けていることの証明であるかもしれない。シュミットは、政治思想史上の「神話」(ホッブズのリヴァイアサンや、ソレルのゼネストなど)の非合理的で形而上学的な力を、政治的なものの「闘争概念」として評価していたが、ヴァイスの「夕べの国」評価も、この系譜に属するといえるだろう。新右翼の民族主義的なアイデンティティは、詳細かつ一貫した定義ができるものではなく、「場所」の「神話」に根差した形態(ゲシュタルトなのである。

 さて、ドイツの新右翼にとって、「夕べの国」と並ぶもう一つの神話は、ライヒ」概念である。「ライヒ」は「帝国」とも訳されるが、本書でこの訳が採用されない理由は訳者解説に詳しく書かれている。中世から近世にかけて存続した神聖ローマ帝国は「ライヒ」であったし、1871年から1945年までのドイツの国号も、1919年以降は共和制を敷いていたにも関わらず、一貫して「ライヒ」を用いていた。

 この「ライヒ」も、右翼にとっては「我々の国」を思わせるエモーショナルな言葉なのだが、ヴァイスによれば、それを地政学的な「大圏域」思想と結びつけたのが、カールシュミットである。シュミットの「大圏域」は、主導的な民族とそれに従う中小民族からなる共同体のことなのだが、この思想が新右翼によって現代的に受容されると、それはドイツの右翼のロシアへの接近という意外な効果をもたらした。これは東西冷戦時代には考えられないことであり、「夕べの国」の歴史的用法ではその敵対者は東方の勢力だったわけだが、壁が崩壊し、プーチンが政権を握ると、その権威主義体制にドイツの右翼は好感を持つようになる。一時プーチンブレーンといわれていたアレクサンドル・ドゥーギンカールシュミットの読者であり、新右翼の人脈とも相互交流がある。東方の敵がいなくなった新右翼は、西方に敵を求める。すなわち、アメリカニズムに代表される普遍主義である。

 このあたりの節も、日本の文脈と比較して興味深いところである。日本でもいわゆる「ネット右翼」は、プーチンロシアと日本は外交問題を抱えているにも関わらず、韓国や中国のようには攻撃せず、むしろ好感を寄せている節があるからである。

◆「絶対的な敵」としてのリベラルな普遍主義
 ヴァイスによれば、新右翼にとって普遍主義は「絶対的な敵」である。カールシュミットの『パルチザンの理論』をやや我田引水気味に引用して、ヴァイスは敵概念を二つに区別する。「現実の敵」および「絶対的な敵」だ。本来は、もうひとつの敵概念である「在来的な敵」も含めた三項でその異同をみていくのが『パルチザンの理論』の正統な読解だろう。しかし彼はおそらく「場所」に関わるか否かに着目して、敢えてこの二項対立に持ち込んでいる。「現実の敵」は「場所」によって規定され、「絶対的な敵」は「場所」によって規定されず、むしろそれを破壊する

現実の敵」とは実存に関わる敵であり、目の前にいるのでとりあえず戦って退けなければいけない敵のことだ。ドイツの新右翼にとってそれはイスラムになるが、先述した通りそれは「我々の場所」から追い出したり境界線を設けたりさえできればどうということはない(もちろん、右翼ではない者にとってみればそれは明確に排外主義である)。

 一方、「絶対的な敵」は、必ず抹殺しなければいけない敵のことである。ドイツの新右翼にとってそれはリベラルな普遍主義のことだ。普遍主義は「我々の場所」という価値そのものを破壊してしまうので、新右翼の立場からすれば、民族の個別的なアイデンティティを守るため、「我々の形態(すがたかたち)」を保つためには、完全に排除する必要がある。したがって、右翼はリベラルな普遍主義に関わるもの全て、たとえば人権、ジェンダーの平等、ダイバーシティ、ポリコレ等々に反対するのだ。

◆新右翼にどのように対抗すべきか?
 以上のような議論をヴァイスは行ったうえで、ではこうした新右翼に対して、リベラルや左翼はどのように対抗すべきか?を最後の第9章で論じている。ヴァイスによれば、リベラルや左翼が新右翼と戦うときに大衆から支持を得られないのは、保守的なイスラムの性差別や人権侵害に対して、帝国主義者という批判を恐れるがあまり、はっきりとした態度を取れないことにあるという。むしろリベラルや左翼はイスラムに、そのような家父長制的な文化を保持してほしいのではないか?とまで彼は主張する。それを踏まえてヴァイスは、人権侵害には西欧のであれイスラムのであれ、はっきりNOを突き付けるような「単純な啓蒙の作業」を行うことを決断すべきだ、というのである。

 筆者は、この結論に関してだけいえば、大いに疑問がある。ヴァイス自身がカールシュミットの影響下にあるのではないかと先述したが、ここでもやはり彼はシュミット流の決断主義思考(決断によって共同体の統合を回復する)に囚われてはいないだろうか。むしろそのような決断を拒否することのうちに、リベラルや左翼である価値があるはずなのだ。いかにそれが明快さを欠くとしても。それに、仮にヴァイスの「単純な啓蒙の作業」を受け入れたとしても、それによってリベラルや左翼に支持が集まる保障はない。ヴァイスは右翼の地道な「陣地戦」を評価していたが、そうだとするならば、リベラルや左翼が一朝一夕に言説を変化させたところで、それは失敗すると考えるのが妥当ではないだろうか。

 最後にやや苦言を呈することになってしまったが、それでも現在のドイツの新右翼について、その全体像を立体的に浮上させることを試みた本書は、読まれるべき一冊である。日本のネット右翼、あるいは保守文化人と清和自民党についての分析を、同じような手法、同じような水準で試みた著作は、管見の限りでは存在しない。その意味では、「日出ずる国」の我々にとっても示唆的であるに違いない。

<文/北守(藤崎剛人)>

【北守(藤崎剛人)】
ほくしゅ(ふじさきまさと) 非常勤講師&ブロガー。ドイツ思想史/公法学。ブログ過ぎ去ろうとしない過去 note:hokusyu Twitter ID:@hokusyu82

AfDのデモ (Photo by Bernd Wüstneck/picture alliance via Getty Images)