世界中を見渡して、「紅茶を愛する国」といえば、まず思い浮かぶのはイギリスではないでしょうか。一人当たりの紅茶の消費量が多いのは、実はトルコなのですが、イギリスも紅茶文化の中心地であることに間違いはありません。

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 では、なぜイギリスにこれほど紅茶の文化が根付いたのでしょうか。

ポルトガル王女が伝えた喫茶の習慣

 イギリスで初めてお茶が販売されたのは1657年のこと。当時は、「東洋の薬」として売られていました。そのイメージを一新したのが、王政復古を達成したイングランド王・チャールズ2世と結婚したポルトガル王女、キャサリン・オブ・ブラガンザでした。

 紅茶が大好きなキャサリンは、貴重な茶に、これまた貴重品である砂糖を入れて飲む習慣をイギリスに持ち込みます。これがイギリスの貴族社会に広がったのです。高級品であるお茶をふんだんに飲むことができたのは、彼女が貿易先進国であるポルトガルの王女だったからでした。

 ともかく、キャサリンの影響により、上流階級の社交の場で紅茶を飲む習慣が定着します。さらには街のコーヒーハウスでも紅茶が販売されるようになり、イギリスに一躍、紅茶ブームが到来するのでした。

 ただ、17世紀後半ごろ、まだまだ親は高価な貴重品でした。というのも、人気に火のついたお茶の輸入は、イギリス政府が独占輸入権を与えたイギリスインド会社が中国との取引を一手に引き受けていたからです。そして茶には高い税金がかけられていました。税率は100%を超えることも珍しくありませんでした。その利益は、大英帝国繁栄の礎になったともいわれていますから、どれだけ当時の上流階級がお茶に夢中になっていのかが察せられます。

 しかし、茶にかかる税金はあまりに高すぎました。それでも需要があるわけですが、そうなると出てくるのが「密輸」です。イギリスインド会社が中国から輸入する「正規品」よりも、安い価格でマーケットに提供できれば、莫大な利益を手にすることができます。

 実際、当時の貿易商人は国家から独立した独自のネットワークを有しており、それを利用して儲けることを悪いことだとは思っていませんでした。

茶の「密輸」を担ったスウェーデン東インド会社

スウェーデンインド会社」というかつて存在した会社の名前をご存知の方はそう多くはないのではないでしょうか。実は本国のスウェーデンでさえほとんど知れていませんが、この会社は、スウェーデン史だけではなく、イギリス史でも重要な役割を演じたのです。そうです。イギリスの「紅茶密輸」を支えた会社の一つなのです。

 スウェーデンインド会社は、1731年に特許状を与えられて創設され、1813年に解散しています。根拠地は、スウェーデン西岸のイェーテボリにありました。現在、同社の根拠地は博物館になっており、私は二度訪れたことがあるのですが、その小ささに驚いたものです。

 同社が実質的に活動したのは、1784年までの約50年間でした。この間に132回、アジアへと航海をしました。広州への航海が124回、広州とインドへが5回、インドだけに向かったのが3回です。他の国の東インド会社と同様、特許状ではスウェーデンと喜望峰以東のすべての地域との貿易の独占権が付与されていましたが、現実には同社の貿易とは、広州との間の貿易を意味していました。

 スウェーデンから中国に輸出する品物はほとんどなく、中国からの輸入貿易に専心するような状態でしたが、同社が輸入する品物の多くは茶だったのです。実際、スウェーデンインド会社の輸入額に占める茶の比率は、1770年には69%、1780年には80%に上昇しています。同社は、中国から茶を輸入するための専門商社的な存在だったと言えるでしょう。

 ところが面白いのは、スウェーデン人はお茶を飲む習慣がなく、コーヒーを飲む人々だということです。そのため遠路はるばる輸入した茶の多くは再輸出されていました。茶は、まず、オランダオーストリアネーデルラントに向かいました。そこからさらに、ドイツの後背地、フランススペインポルトガル地中海、さらにイギリスに輸送されたのです。中でももっとも重要だったのは、イギリスへの茶の輸出でした。

 イギリスは、お茶の輸入をイギリスインド会社に独占させているので、このスウェーデンとの茶の取引は、密輸ということになります。そのかわり、正規の輸入ルートにかけられている高い関税がありませんから、安価で茶を提供できます。これによって、所得水準が低い人々にも紅茶を飲む習慣が爆発的に広がっていったのでした。

フランスも茶を密輸

 密輸のルートは他にもありました。

 フランスも、1604年に東インド会社を創設し、1664年にこれを国営会社としました。フランスにおける根拠地は、ブルターニュ地方のロリアンにありました。そして、東アジアの拠点としてポンディシェリ、シャンデルナゴルがありました。

 17紀終わり頃のブルターニュの人口は約200万人で、フランスの総人口の10%を占めたとされます。ここにあげた港湾都市のうちサン・マロはスペインに繊維製品を供給していましたが、同時に世界中と結びついた都市でもあり、1713年にこの都市を出港したグラン・ドーファン号が、南米大陸最南端のケープ岬を経て繊維製品(リネン)をペルーに輸送したのち、アメリカ銀で中国商品を購入し、フランスに戻ったことで知られています。

 フランスが輸入する主だった商品は、コーヒーと茶でした。茶の輸入量は、17世紀終わり頃の10万ポンドから、17世紀後半には200万ポンド弱へと急増しています。

 これまた面白いことに、フランスも茶ではなくコーヒーの消費国なのです。なのに茶の輸入量の急増・・・。やはりこのお茶は、世界最大の茶の消費国イギリスに密輸された可能性が高いと考えられています。では、どれだけの茶が輸出されたのでしょうか。

 ある記録によれば、1749〜1764年にかけては、広州からフランスが輸入するお茶の総額は、年平均で1192万5288リーヴル(当時のフランスの通貨単位)、1766〜1775年は1228万5739リーヴルであり、そのうちブルターニュが占める割合は、それぞれ42.71%、50.16%といいます。また別の記録では、この時代を通じて、フランスの茶の輸入において、ブルターニュが占める比率は82.46%といいます。いずれにしても、ブルターニュがフランスの茶の輸入の大半を支配していたと言えそうです。

 このブルターニュに輸入された茶は、主としてイギリスオランダに再輸出されました。イギリスへの輸出は、もちろん密輸になります。

 オランダに向かった茶が、その後どこに向かったのかは詳らかになっていませんが、イギリスに再輸出されるものもあったかも知れません。また、当時はイギリスの影響でアメリカでも茶を飲む習慣が定着しています。これもイギリスインド会社が高い税金をかけて売り込んでいたため、オランダからの密輸が横行しています。ブルターニュからオランダに渡った茶の一部は、アメリカ向けに振り向けられたものもあるでしょう。

 紅茶の密輸は、フランススウェーデンにも莫大な利益をもたらしました。それだけ、イギリス人が紅茶に魅了されたということです。

 いずれにしても、スウェーデンフランスとによる密輸によって、イギリスの茶の価格は引き下げられ、紅茶は限られた上流階級のものから、徐々に一般化していきます。

 より正確に言うなら、スウェーデンインドイギリスにもたらした紅茶は低級茶であり、ブルターニュからイギリスに密輸された紅茶は高級茶でした。安価な密輸茶は所得水準の低い人々に、比較的高価な密輸茶は、所得水準の高い人々に飲まれたと考えられます。

東インドの茶と西インドの砂糖

 18世紀には、イギリスはすでに紅茶の一人あたり消費量が世界最大になっていました。もちろん、その茶はイギリスインド会社が輸入したものとは限りません。イングランドの茶の密輸入量について400万〜750万ポンドと見積もる研究もありますが、この数値は、イギリスインド会社による合法的輸入よりも大きいのです。多くのイギリス人は、密輸された茶を飲んでいたのです。

 密輸を促したのは、すでに述べた通り、イギリスの茶に対する関税の高さでした。茶に対する税率は80%を下回ることはほとんどなく、100%を超えることも珍しくありませんでした。

 ところが、1784年、当時のピット首相によってイギリスに減税法が導入されます。東インド会社が輸入する茶への税率は119%から12.5%へと一気に引き下げられます。これによって、密輸される茶の量も激減していきました。価格の低下で、紅茶の普及は一層進むことになりました。

 ポルトガルから紅茶の文化をイギリスに伝えたキャサリンが、紅茶に砂糖を入れて飲むスタイルも定着させたと冒頭でかきましたが、イギリス史の専門家・川北稔大阪大学名誉教授は、「東インドの茶と西インドの砂糖が一つのティーカップに入れられることにより、世界は一つになった」と表現しました。紅茶が普及した時代、イギリスはまさに海運力を高め、中国からはお茶、南北アメリカ大陸で進めたプランテーションからもたらされる砂糖を本国にもたらしました。そうした経済活動が、イギリスの帝国化を推し進める原動力にもなりました。

 イギリス人の紅茶を愛する情熱がなければ、その後のイギリスの覇権は確立できなかったかも知れません。ただし、イギリス人のティーカップに入れられた茶のたぶん半分くらいは、密輸によるものでした。密輸こそ、イギリスの茶の文化を築いたと言えるのです。

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