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小説が、次々に生成されていく。
小説の書評としては少々おかしな表現になるがご勘弁いただきたい。
そうとしか言いようのない読書体験だった。目の前で次々に文章が生成され、それが小説になっていく瞬間を目撃した、とでも言い換えるべきだろうか。
宇佐見りんのデビュー作にして第56回文藝賞受賞作、『かか』を読みながら私の頭に浮かんできたのは、冒頭に掲げた一文だった。小説がここで生まれているのだ、とも思った。

ねえ、自分はどこまでが自分なんだろう
『かか』の語り手は十九歳の「うーちゃん」こと、うさぎという少女だ。幼き日のうーちゃんが、湯船に一疋の赤い金魚を発見し手ですくおうとした、という奇妙な回想からこの小説は始まる。この回想が持つ意味は叙述がだいぶ進んだ先で明らかにされることになるので、ここでは掘り下げない。やがて読者は、うーちゃんが母親を「かか」と呼んでいること、その朝かかはうーちゃんのためにホットケーキを焼いてくれようとしたが、満足に果たせぬほどに身体か精神のどちらかどこかに問題を抱えていること、かかとうーちゃんが話している方言もどきのような言葉遣いは、それはひそかにうーちゃんが「かか弁」と呼んでいる独自のものであること、などを知る。その流れでひょいと「おまい」なる二人称が出てきて、どうやらうーちゃんがその人物に対して語りかける形式で『かか』は進んでいくという叙述のルールなのだな、ということも判明するのだが、この時点では「おまい」が誰なのかは明らかにされないのである。この時点でもう、ぐ、ぐ、ぐぐぐと小説の中に引き込まれている。
さらに読者はその朝が、かかが「とある手術を翌日に控え」た日であり、うーちゃんにとっては旅の出発日であることを告げられる。後に判ることなのだが、うーちゃんは和歌山県の熊野を目指しているのである。熊野であることには意味があるのだが、ここでは触れない。うーちゃんは宣言する。

──みっくん、うーちゃんはね、かかを産みたかった。かかをにんしんしたかったんよ。

みっくんって誰だ、さっき出てきた、おまいと同一人物なんだろうな、という疑問もあるのだが、それを上回るのが母親を産みたいという発言の真意に対する興味だろう。
ここまでが起承転結で言えば起にあたり、承に相当する部分ではうーちゃん一家の人間関係が少しずつ明らかにされていく。鍵になるのは語り手の「他人を他人のまま痛がることができないんでした」「うーちゃんは相手をからだに取り込んだときにだけ、そいを自分として痛がることができるんです」という呟きだろう。うーちゃんはそういう自己認識を持っているのであって、どこまでが「身内」か、自分の延長なのか、ということを常に強く意識している。

たとえばうーちゃんにとっては、鍵のかかったアカウント同士でつながっているSNSの閉じた世界は、自身の延長に他ならない。そこでは互いに「いいね」をつけ合うことで鍵アカウント同士が共存し合っており、「人に言えん悩み」も「誰かに直接じゃなくて」「誰かのいる」ところで吐き出すことができる。求めているのは誰かという他者そのものではなく、「誰かという他者のいる場所で存在している自分」というありようだからだろう。熊野に行くときもうーちゃんにとって携帯の充電率とアンテナは重要な問題となる。

産まれてきたという事実の重さを受けとめきれない
かかは、うーちゃんと同じように「自分の肉と相手の肉をいっしょくたにしてしまうたぐいの人間」である。というよりも、かかがそのような人であることが、うーちゃんの人格形成に影響を及ぼしている、と見たほうがいいのだろう。うーちゃんと同居しているのはかかと、そのの両親であるババとジジ、かかの姉で今はこの世にない夕子ちゃんの娘である明子ちゃん、そしてくだんみっくんである。まあ、みっくんは置いといて、と。かかはババに対し、自分が姉である夕子ちゃんの「おまけで産んだ」ことに怨嗟の念を抱いている。それが自傷行為の遠因になっているのである。かかは前述通りの人なので、うーちゃんにも自分の痛みを共有させようとする。それがうーちゃんには辛くて仕方ないのだ。だからかかが憎くて仕方ないのだ。もともとうーちゃんはかかに対して、この上ない信仰心のようなものを抱いていたから。
小説を読んでいて誰でも気が付くはずなのは、うーちゃんの語りに欠落があることである。うーちゃんの家族についての叙述には、まるで鍋からあくをすくい取ったかのように男系の構成員に関する事柄が抜け落ちている。うーちゃんの父であるととは、かかと離婚したためにすでに一員ではないのだが、同居しているはずのジジも、ババと一緒でない限りは言及されることがないのである。うーちゃんが、かかの「はっきょう」の背後に男性の影を見ているからだ。

それを端的に表すのは「うーちゃんのかみさまは、かみさまだったはずのかかは、うーちゃんを産んでかみさまでじゃなくなった。もともとかみさまじゃなかったんです」という一文だ。ここから先の「かかをにんしんしたかったんよ」という発言の真意が見えてくる。男性が関与することによる妊娠という現象が、その妊娠によって人生が変わるのはいつも女性であるという事実が、うーちゃんの前には常に立ちふさがっている。しかしうーちゃんもまた妊娠の結果生まれてきた、かかの子なのだ。
作者は20歳の女性だという。作者と小説を同一視するつもりは毛頭ないが、本書に綴られている文章の多くは、宇佐見りんが世界と対峙した結果として生み出されたものだろう。世界がそうあるから、文章がこのように生成される。宇佐美はそのように、自らと世界の関係を小説の文章へと変換する作家なのである。えがたい才能と言うしかない。
(杉江松恋 タイトルデザイン/まつもとりえこ)

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