女性における日本特異の文化として、時代の流行とも絡みながら平成の30年間に独自の変遷をたどってきた「ギャル」。

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振り返れば常にギャルがいた平成から令和を迎え、その元年が終わろうとするいま。2020年という新たな10年間を前に、1990年代2000年代2010年代と時代を彩ってきたギャルを、写真とテキストで振り返る。



書き手は1973年に生まれ、『ケータイ小説的。』(2008年)で浜崎あゆみさんらギャル文化の象徴とケータイ小説との密接な関係に切り込んだライター速水健朗さん。『フード左翼とフード右翼 食で分断される日本人』や『東京どこに住む? 住所格差と人生格差』など幅広い分野で多数の著書を持つ。

モデルは、ギャル女優として活躍するセクシー女優AIKAさんと今井夏帆さん。ギャル文化をリアルタイムで経験してきた2人が、各年代のJKギャルを演じる。

第1回目はAIKAさんが1990年代ギャルを表現。当時のギャルを取り巻く環境を解説する速水さんの文章とともに、みなさんそれぞれが経験してきた(または未体験の)ギャル文化に思いを馳せてほしい。

文:速水健朗 モデルAIKA 写真:宇佐美亮 スタイリスト:細谷文乃 編集:恩田雄多

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「みんなが知ってるギャル」が生まれるまで



ギャルはいつ誕生したのか。1990年代の話をする前に、もう少し前の時代に触れておこう。1980年代前半までは、元気な女子大生たちが「ギャル」だった。当時は女子大生ブーム。まだ女性の4大進学率が低く(10%台)、希少価値としてメディアがもてはやしていたのだ。

それが80年代後半のバブル期になると、ディスコボディコンで弾ける“イケイケギャル”が登場してくる。ゴルフをしたりモツ鍋が大好きな新しい時代のOL=「オヤジギャル」(※1 中尊寺ゆつこ『スウィートスポット』連載開始1989年〜)という語もバブルの最中に生まれている。彼女たちは、男女雇用機会均等法が制定された直後のOLたちである。



なんか、わたし知ってるギャルと違う」と思う人は多いはず。この時代のギャルは、マスメディアが持ち上げる一番元気な女の子でしかない。90年代に生まれてきたギャルは、彼女たちとはちょっと別の種族なのだ。

明るめの茶髪、短いスカートルーズソックスという90年代ギャルの定番スタイルを最初に始めたのは、有名私立の遊んでいる高校生たちである。彼女たちは高級カジュアル、LA辺りのセレブを意識したファッションで身を固めており、コンサバファッションに身を固めた80年代のイケイケギャルの真逆だった。

おそらくは反発心があったのだろう。小麦色に焼いた肌、明るい茶髪、短いスカート丈などは、その辺りから生まれたスタイル。彼女たちは、最初から目立っていたわけではなく、80年代末に登場した渋カジ族90年代チーマーといった“目立っていた男の子たちの彼女”的な存在でもあった。



これも「わたし知ってるギャルと違う」と思うかもしれないが、それも正しい。彼女たちがそのままギャルになっていったわけではない。彼女たちは、そのファッションを卒業して単にハイソセレブになっていく。だが一方で、彼女たちが見つけ出した派手なスタイルは、周辺の女子高生たちに伝播する。

そして、競争の要素が加わる。スカートはより短くなり、ルーズソックスはより長くルーズになる。“通俗化”し、その後“極端化”し、さらにそれが全国区で“標準化”されていく。ファッションの普及形態ではよく見られるルーティーン。結果、当初のセレブ寄りだった有名私立の女子高生ファッションは、ギャル(当初は“ギャル”)の標準的スタイルになったのだ。

ギャル文化は、高校の制服に関する校則が厳しかった時代に始まっている。スカートの丈は、自分で詰める。シャツや靴下は指定のものではなく、当時、大流行したポロ・ラルフ・ローレン(POLO RALPH LAUREN)。のちに「ルーズソックス」が発売されそちらがメインになるが、もともとは90年前後に流行した、高級カジュアルブランドの靴下をたるませて履くのがルーツだ。

白のダボッとしたニットベストも、ラルフローレンのワンポイントロゴ入り。こうした着崩しが基本にあった。バーバリーチェックマフラーも超定番。本物のバーバリーは、結構お高いので、激安スーパーで売っている謎の模造品も出回っていた。腰にベージュのカーデガンを巻くスタイルもあった。バッグは、ポスカでデコった他校(男子校)のナイロンのバッグを持つのが流行した。

多くが自分たちで見つけ出したスタイルであり、業界やメディアが仕掛けたものとは違った、ストリート発”の文化と言っていい。それだけではない。茶色のローファーやボタンダウンシャツ(ときにポロシャツ)といったアイテムからは、アメリカ東海岸のアイビースタイルが基本にあることもわかる。なぜギャルルーツにアイビーがあるのはなぜか。そもそものハイソを着崩すというルーツの残存かもしれない。


ギャルの聖地・渋谷を舞台にした変遷



初期ギャル文化を代表するリゾートファッションブランドアルバローザ(ALBA ROSA)は、SHIBUYA109に入っていたショップミージェーン(me Jane)で扱われていたもの。

SHIBUYA109は、ギャルの聖地としては知られていた(2階が援助交際の待ち合わせスポットとして有名だったが、実際には言うほど多くなかったという実感)が、ここで実際にギャルファッションが売られるようになるのは少しあと、1995年リニューアル以降だ。

それ以前は、むしろ安いギャル服は、池袋が中心だったと言われている。エゴイストEGOIST)など、のちにカリスマ店員で知られるようになるギャルショップ109に入り始めると、誰もがお金をかけずにギャルファッションに様変わりできるギャルの民主化時代がやってくる。

渋谷も、富裕層子弟のたまり場から民主化され、誰もが関東圏内からやってくる場所になった。そして、同時に渋谷は情報発信地としての役割も担っていた。当時は、学校が終わると高校生たちが渋谷に集まってきた。その中の目立つ子たちのスナップを載せる雑誌が登場し始める。『東京ストリートニュース!』(1994年創刊)、『egg』(1995年創刊)、『Cawaii!』(1996年創刊)といった雑誌たちだ。

かつてコミュニティー内でやり取りされたファッションなどのトレンドは、多少の時間差を経て全国に拡散していった。まだこの時代には、地方と東京には、情報伝達の速度に大きな格差があった。それは、のちのSNS時代になるとほぼ解消されていくことになる。



渋谷を根城にするサークルの活動、いわゆる“ギャルサー”が盛んになるのは1997、8年頃。クラブを借りての活動が行われるようになる。この頃には、関東近郊の高校生たちが集まるようになった。

例えば、渋谷駅の地下のスペースなどで夕方に練習するギャルたちの姿がよく見られたが、これは大宮から新宿を結んでいた埼京線が、1996年に渋谷(同時期に恵比寿まで)延伸したことも影響していたと思われる。

電子部族化するコギャルたち



前出の渋カジ族やチーマー、カラーギャンといった男の子の流行は、その後、時代の変化とともに埋もれていったが、ギャルは廃れなかった。その文化は現在まで続いている。なぜギャルは生き残ったのか。それはギャルが流行・風俗である以上に、コミュニティーとしての性質が強いからではないだろうか。

ギャルを語る上で、ツールガジェットとの関わりは欠かせない。ギャルが登場した90年代は、アナログ主体だった社会インフラデジタルに切り替わりつつある時代だった。

族の系譜学』の著者・難波功士は、1993年時点の女子高生三種の神器バレッタ、ミサンガ(プロミスリング)、ルーズソックス」がのちの90年代半ばになるにつれ「ポケベルシステム手帳、使い捨てカメラ」などに変化し、同年代後半にはケータイプリクラティーンズ誌といったメディアグッズなどに変わっていったと指摘する。

使い捨てカメラプリクラに変わった。まさにアナログからデジタルへという変化。ビジネスマンのために整備されつつあった情報環境をギャルたちがハックし、自分たちのメディアとして利用したのだ。

その代表的な例がポケベルだ。歴史は思いのほか古く、サービス開始は1969年70年代刑事ドラマで、初期のポケットベルが使われる場面をよく見かけた。出先の刑事のベルが鳴り、近くの公衆電話から刑事課の番号に折り返す。「事件か? 現場は? 急行する!」といった具合だ。



90年代半ばまでのポケベルは数字しか送れなかったが、それでも暗号みたいにメッセージをつくって送っていた。11が「あ」で22が「き」といった換字表をもとにメッセージを打つのだ。

携帯スマホ時代の現代からは想像がつかないだろうが、みんな公衆電話に並んでポケベルメッセージを発していた。なんでそんな面倒くさいことを? いや、単に端末同士の直接通信ができなかった時代なのだ。

ギャル時代にポケベルが流行ったいまのアラフォー世代には、いちいち換字表を見ずとも数列を文章化したり、その逆を脳内変換できたりする強者たちがいる。ポケベルは、「724106(ナニシテル」といった具合に宛字式暗号を送るツールとしても使われていた。

もちろん、ギャルの仲間内でしか通じないような複雑な暗号文に発展。ちなみに1994年頃以降、カタカナメッセージなども送れるようになるので、暗号的なポケベル通信の時代は、ほんの数年間だったことになる。

1995年からサービスが始まったデジタル方式の移動体通信のPHSは、この発展形として普及。ポケベルPHSという2つのメディアの切り替え時期に高校生だった世代は、モバイル通信のデジタル化にまっさきに対応した世代だろう。


ギャルはいつから“盛り”を始めたのか



ギャルを語る上で重要な概念は「変身」である。まず、ギャルとは変身願望の強い生き物である。例えば、クラスの目立たない女の子たちと自分たちの違いに意識的である。そして素の自分とは別物になることに喜びを感じる。つまりいかに“盛る”かは、ギャル精神の本丸である。

「盛り」の誕生』の著者である久保友香は、ギャルたちの変身を「シンデレラテクノロジー」と名付けた。重要なのは、テクノロジーが関与していること。久保は“盛り”(言葉としての登場は2000年過ぎ)の要素を3つに分けている。

1. 通信 2. 画像加工 3. メイク


この3つの要素の重なりが“盛り”なのだ。

メイク(3)は、つけまつげアイラインにカラコンが基本。これは今も変わらない。メイクの違いで言えば、アムラーの時代には、眉は極端に細くなり、急角度が付けられた。

肌の色の競争の激化は「ガングロ」「ヤマンバ」といったギャルの亜種を生み出していった。日焼けマシーンも、90年代に普及したメイクの延長線上にある技術装置だろう。これらの変身ツールなしにギャルは語れない。

画像加工(2)はどこから始まったか。“プリクラ”という言葉を生んだ最初のプリントシール機「プリント倶楽部」の登場は1995年。“プリ帳”が生まれるのはもう少しあとのことだが、当時は友だち同士で撮ったプリクラや彼氏と撮ったプリクラシステム手帳に挟んだりしていた。



ギャルの写真との親和性は、その少し前の時代に確認できる。使い捨てカメラは、90年代半ばくらいには、“ギャル三種の神器”のひとつと言われていた(ほか2つは、ポケベルシステム手帳)。

ここで重要なのは、“盛り”のテクノロジーは、単なる変身のためにあるのではなく、同時にコミュニケーションツールでもあったことだ。例えば、ガングロ、ヤマンバといったメイクは、モテを意識せず仲間意識を優先して生まれたメイクだ。メイクは、仲間とそれ以外で差異を示すものでもあったのだ。

ポケベルの独自の利用、通信が仲間だけで通用する暗号化したのも、仲間内の輪を強化する作用があった。そして、プリクラや写真の交換、アルバム化(プリ帳)は「所属するコミュニティーのビジュアル」(前出『「盛り」の誕生』参照)、つまりSNSの前身のような役割を果たしていたという。

“変身”や“盛り”への想いと友だち同士のつながり。この2つが結びついたことで、ギャルは単なる流行ではなく、長く続くコミュニティー”=部族へと変化したのだ。

アムラーの登場とギャル史における大事件



安室奈美恵のような薄眉、ロン毛、茶髪、そして厚底ブーツというスタイル女の子たちをアムラーと呼ぶようになったのは、1996年頃のこと。シャネルを愛用する人々を「シャネラー」と呼んでいたのが先だった。

当時の安室奈美恵ギャルたちのクイーンだったが、彼女も「変身」を実体化したような存在だった。14、5歳くらいのまだ幼さが目立っていた時代からテレビに出ていた彼女が、みるみる安室奈美恵 with SUPER MONKEY'Sの一員としてブレイクし、さらにMax Matsuura松浦勝人)、小室哲哉といった有名プロデューサーに見いだされてソロシンガーとして成功を収めていく。

その安室奈美恵の最大の変身は、1997年10月の妊娠・結婚発表だ。弱冠20歳の彼女が結婚、さらに妊娠の発表として伝えられた。トップスターから妻、そしてママへという大転身。

この“変身”こそが、マスメディアや大人たち以上に、当時10代だったギャルたちに大きな衝撃を与えたギャル30年史における最大級の事件だった。以降、日本でも“できちゃった結婚”の件数が急増することになる。

AIKAさんの出演作品をチェックする(FANZA)【画像】AIKAさんによる90年代ギャルをもっと見る
速水健朗「ギャルが生きた30年史」第1回1990年代/モデル:AIKA