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無能な働き者に限って地位にしがみつく、結果が出なければなおさら、の典型だ

 いざという時なのに、貫禄が無い総理大臣だった。立派な人物には見えなかったが、人材を活用しつつ、責任だけは果たした。政界の長老には頭が上がらず気を遣ってばかりだったが、人事を間違えず、使いにくい傲岸な人物をも抜擢した。

 国民に嫌われたが、本気で自分を批判してくる国民に笑みを漏らした。見た目はいい加減だったが、やることはやった。日本で名宰相と言われるからには、絶対に強くなければならない。そして心が広くならねばならない。

 我が国の憲政史上で最も偉大な宰相である桂太郎を評した一文を現代風に訳してみた。

 原文は、昭和18年元旦の朝日新聞に掲載された、「戦時宰相論」である。中野正剛代議士が記した。無能な戦争指導を極める、東條英機首相への嫌味である。中野は、古今東西の名宰相をあげ、戦争に勝てる首相の条件を論じた。

 東條の名前はどこにも出てこないが、その真意は誰にでもわかる名文だった。現に、激怒した東條は朝日新聞を発禁処分にしたのみならず、強引に中野を逮捕し、自決に追いやった。

 戦時中の東條の口癖は「これは戦争に勝つためだ!」だった。そのたびに、横紙破りが横行する。それで戦局が好転するならともかく、連戦連敗である。批判する者がいれば情け容赦なく弾圧し、それも「戦争に勝つためだ!」と言い張る。政権末期は、盲目的に己の権力維持に邁進した。

 東條が救いがたいのは、本人なりには国を想っていたことである。しかし、自分が総理大臣の地位を退く気は無い。無能な働き者に限って地位にしがみつく、結果が出なければなおさら、の典型である。

 確かに東條英機を辞めさせただけでは戦争は終わらなかった。しかし、東條が居座る限り、戦争が終わらなかった。中野は、正論が通らない状況で、必死に正論を訴え、権力に名を借りた暴力に殺されたのである。

 中野が宰相の理想と目した桂太郎とは、どのような人物だったのか?

 弘化4(1848)年、長州の名門武士の子に生まれる。維新の時代は、殿様の小姓だった。明治初年以来、一貫して陸軍に従事。帝国陸軍の創設にかかわる。

 第三師団長として名古屋に赴任した直後には東海大地震に直面し、大混乱の中で軍を動かし、秩序を回復する。規定にない行動であったので責任を感じて事後に辞表を提出したが、かえって果断を称揚された。その後、日清戦争に従軍している。

 戦後は台湾総督として経営に当たる。台湾ではゲリラが暴乱を起こし、結果的に討伐戦での戦死者は日清戦争を上回るが、鎮圧に成功する。

 内地に帰還後は4代の内閣で陸軍大臣を務め、日露戦争に備える。その間、直面した北清事変に対処する。日本史初の多国籍軍への参加だ。この時の帝国陸海軍の行動は世界中に文明国の軍隊であると知らしめたが、要所で国際情勢に明るい桂の判断が国策となったからだった。

 明治34(1901)年、桂は首相となり第一次内閣を組織する。この内閣は当初こそ「二流内閣」と揶揄されたが、4年半の長期政権となる。日英同盟を結び、日露戦争を勝ち抜いた。当時の大英帝国は「光栄ある孤立」を誇り、「同盟のような煩わしいものは不要」と豪語していた。

 ロシアは幕末以来日本に最大の脅威を与え続けた大帝国である。幕末以来の日本人の悲願は、「誰にも媚びないで生きていける強い国になる」だったが、まさに桂内閣において実現したのだった。

 桂は、いったん退陣するが、明治41年に返り咲き、第二次内閣の政権担当期間は3年強に及ぶ。日露戦後の厳しい財政状況への対処を最優先課題としつつ、日韓併合と不平等条約の完全撤廃を成し遂げた。これだけのことをやりながら、「第一次内閣に比べ実績がない」と厳しく自己評価していた。

 日清戦争の勝利や大日本帝国憲法の制定などを成し遂げた伊藤博文と桂のいずれかが、憲政史上最高の総理大臣であるのは間違いなかろう。

安倍晋三内閣が桂太郎内閣を超え史上最長の通算在任日数となった。これは何の冗談なのか?

 ところで、意外に知られていないが、昭和の大日本帝国は滅びようがない国だった。それなのに、「ソ連の片手間の中国の片手間のイギリスの片手間に、アメリカに喧嘩を売る」などという国家の集団自殺としか言いようがない愚かさによって滅んだ。

 一方、日露開戦直前、御前会議は亡国前夜のお通夜の様相だった。どこをどう考えても勝てる要素がない。しかし、奇跡を起こし勝った。なぜ奇跡を起こし得たのだろうか?

 十点あげる。

 第一は、政府の強力な政治指導である。内閣の上には伊藤博文や山県有朋らが元老として控えていたが、桂は先輩政治家である彼らを上手く使った。

 第二は、味方を作ってから戦った。言うまでもなく、日英同盟である。

 第三は、やめることを考えてから開戦した。早くからセオドア・ルーズベルト米国大統領への和平の仲介を根回しさせていた。

 第四は、軍人の抜擢人事である。特に副総理格の山本権兵衛海相は、東郷平八郎連合艦隊司令長官など、有為な人材を登用した。

 第五は、陸に海に連戦連勝を続けた。それを可能にしたのは、長い間の勝つための訓練である。

 第六は、大将の人徳である。陸では苦戦が続き、戦死者が大量となったが、乃木希典大将に文句を言う人間など、一人もいなかった。

 第七は、挙国一致国民の支持である。桂は反対党に頭を下げ、挙国一致体制を実現した。

 第八は、正しい経済政策である。金策には苦労したが、おろそかにしなかった。

 第九は、インテリジェンスの成功である。明石元二郎大佐を信じ、絶大な権限を与えた。

 第十は、戦争の止め時を間違えなかった。決して、軽佻浮薄な精神論には流されなかった。

 このすべてが、昭和には失われたのだから、負けるに決まっている。

 なお、第三次桂内閣は五十日で退陣に追い込まれた。桂は、日本に二大政党制を根付かせようとして新党結成を試みたが、民衆の理解に届かず、罵声の中で退陣に追い込まれたのだった。ただし、桂の死後、日本は「憲政の常道」を実現する。

 そう言えば、安倍内閣が桂内閣を超えたとか。何の実績があるか知らないが、今からでも第三次桂内閣を見習うことはできるのではないか?

【倉山 満】
憲政史研究家 ’73年、香川県生まれ。中央大学文学部史学科を卒業後、同大学院博士前期課程修了。在学中より国士舘大学日本政教研究所非常勤職員を務め、’15年まで日本国憲法を教える。現在、「倉山塾」塾長、ネット放送局「チャンネルくらら」などを主宰し、大日本帝国憲法や日本近現代史、政治外交について積極的に言論活動を行っている。ベストセラーになった『嘘だらけシリーズ』など著書多数。最新著書に『13歳からの「くにまもり」

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