12月4日アフガニスタンのジャララバードで、自動車で移動中だった医師の中村哲さん(1946-2019)が狙撃され、亡くなられたことは、ただちに報道され、国際社会に衝撃を与えています。

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 中村さんは胸部に被弾して重傷を負い、病院に搬送されて治療を受けていましたが、手術の必要が確認され、設備や医師のある首都カブールの米軍バグラム空軍基地に移送される途中、容態が急変して命を落とされたと報道されています。

 日本国内で、短距離の異動でも、危篤状態の患者の移送には「バイタル」=生命維持に最低限必要な装備の整った救急車の利用が勧められるのは広く知られる通りと思います。

 最貧国や紛争地域、復興地域での医療や地域振興に全力を尽くされた中村さんたち「ペシャワール会」の活動は国内でも広く知られ、2003年のマグサイサイ賞受賞を筆頭に、国際社会でも高く評価されていました。

 ここで問われるのは「なぜ?」という問いでしょう。

 何一つ悪いことをしていない、医療に加えて用水路の開削など、地域の真の発展に長年にわたって尽くし、今年10月にはアフガニスタンの名誉市民権も授与されていた中村さんが、どうして狙撃され、命を落とさねばならなかったのか。

「いまだ正体の分からない犯人の凶行を心から憎むとともに、真相が一刻も早く解明されることを願わずにはいられません。心からご冥福をお祈りいたします

 多分、ほとんどの日本国内での報道、とりわけ日本語での報道は、このように記されるのではないかと思います。

 私も、一面ではその思いは変わりません。

 同時に、そうでない現実も垣間見てしまった経験があることから、どうしても付記せねばならないことがあるようにも思われるのです。

「なぜ中村医師は銃撃されたのか?」

 その答えは、まだ分かりません。また、事実誤認やアクシデントによって被弾した可能性も否定できないように思います。

 そのうえで、中村さんの活動を支えることから発足した「ペシャワール会」が2008年に襲撃された「日本人拉致殺害事件」から、振り返ってみましょう。

人道援助の難しさ

 やや私事にわたりますが、私は2008年の5月から6月にかけて、アフリカ中部、サブサハラの「ルワンダ共和国大統領府の招きにより、同国に6週間ほど滞在しました。

 ルワンダ国立大学やキガリ工科大学で「ジェノサイド再発予防」のセミナーを開き、また国内各地の中学高校を回って、自然科学と音楽をクロスオーバーする授業などを行わせてもらいました。

 当時はお元気だった刑法の團藤重光先生に細かにご指導いただいて、ルワンダジェノサイドを裁く民衆裁判員裁判「ガチャチャ」を複数回傍聴しました。

 といってもフランス語の通訳がないと現地語=キニャルワンダだけでは全く訳が分かりませんでしたが、それまで予想もしなかった紛争後地域の現実に触れ、様々なことを考えさせられました。

 何か再発防止に「先進国」側から協力するといった、今思えば奢った考えで現地を訪れ、たくさん頭を殴られて戻ってきたような経験になりました。

 たまたま日程の最後の方で、当時JICA総裁で私の母の同級生にあたる緒方貞子さんとご一緒することになり、閣僚を含む昼食などの場で議論の機会をもちました。

「上からの」復興は成立しにくいという、人道援助初心者、素人1年生の感想を述べ、全くそうだ、検討していかなければ、と話したのを思い出します。

 今年のノーベル経済学賞の解説にも記しましたが、ルワンダ各地の高等学校などを訪ねると(古都ブタレ、ルヘンゲリ、ニャマタなど)、驚くような高価な天体望遠鏡などが未開封のまま理科室に置いてあり、埃を被っているのです。

 EUからの「支援」で、科学技術を担う人材を育てることで「復興を」という、まことに立派で美しい理念に即して寄付されていたのですが、それを使って教えられる人、先生がいません。

 さらに、IMF(国際通貨基金)のレギュレーションのため公務員の給与は低く抑えられており、優秀な人材は先生になりたがらない。

 欧米外資系の多国籍企業に勤める、あるいは国外、海外でより待遇のいい会社を見つける。

 この地域は共通語がフランス語ですし、またジェノサイドの鎮圧以降は英米系資本が導入されていましたから、英語とフランス語が話せて仕事ができれば、人材は待遇の良い方に容易に流出するとのことでした。

 こうした生々しい現実を胸元まで突きつけられる思いを持った直後のことです。

 2008年8月、今回と同じくジャララバード近郊を自動車で移動していた「ペシャワール会」現地メンバー、日本人の伊藤和也さん(当時31歳)が何者かに襲撃されたとの報道を、帰国した東京で知りました。

インフラの基層「利水」から

 記録によると、中村哲さんが医師としてパキスタンのペシャワールに赴任するのは1984年、今から35年前の冷戦末期のことでした。

 1946年生まれの中村さんは当時40代半ば、すでに医師として20年のキャリアをもち、一個人として、また一人のクリスチャンとして決意をもってペシャワールに渡り、ハンセン氏病への対策と治療を中心に活動を開始します。

 これに先立って1983年に結成されたのが「ペシャワール会」で、マグサイサイ賞を受けた2003年は創設20周年に当たっていたことになります。

 当初も、また今現在も、病に苦しむ人があれば、臨床医療が第一に求められ、中村さんたち「ペシャワール会」の活動も、無我夢中の20年であったろうと思われます。

 大変な貢献です。

 その当初から、アフガンでの良質な水源確保が困難であるのは大前提で、その中で現実的に可能な医療を前進させていこうと中村さんたちが取り組まれたのは間違いありません。

 しかし、活動を開始して16年目、2000年の大干ばつと赤痢の流行に直面して、「外からの」医療などの移植の明確な限界に、ペシャワール会のメンバーは直面します。

 絶望的な広さの、荒涼たる大地。そこに日照りが襲い、飢えた莫大な数の人々が、栄養失調のまま、より良い土地を求めて大移動する。

 途中、良質な水源などはありません。不衛生な溜水などを頼りに露命をつなぐ群衆に、赤痢などの疫病が容赦なく襲いかかり、莫大な数の人々がなすすべもなく命を落としていく・・・。

 もはや付け焼刃的な医療では対処できない。本質的な利水の開削といったインフラストラクチャ―の基層から、国土を豊かにするしかない・・・。

 まさに「上からの人道援助」と正反対の、本当に本質的な「国土の改良」に着手するとともに、中村さんたちは別種の圧力と直接対峙を迫られることになりました。

人道援助は「スパイ」か?

 このような本質的な人道援助に対して、パキスタン政府からは反対の圧力がかけられるようになります。

 その詳細は、およそ簡略化することのできるようなものではないと思いますし、私の範疇を超えますので、「ペシャワール会」報など、1次資料をご参照いただければと思います。

 ペシャワールで活動してきた「ペシャワール会」でしたが、中村さんたちは活動の拠点をアフガニスタンに移して、インフラストラクチャーの基礎からの「国土改良」に取り組みます。

 その結果、長大な用水路が開通し、広大な農業用地が誕生した経緯などは、多くの報道が紹介している通りです。

 真に価値ある、偉大な貢献です。

 同時に、それらは現地の「伝統的な生活」に対する「改変」をも意味します。また、恩恵にあずかる人と、そこから漏れる人、といった違いも、必然的に発生してしまう。

 また、イスラム原理主義勢力が実効支配するエリアなどでは、こうした人道援助を「伝統的なムスリムの、厳しい荒れ地での生活に、西欧文明の恩恵を導入して<人々を堕落させようとする>、アメリカやヨーロッパの「スパイ」行為である」といった、およそ私たちの想像を超えるネガティブ・キャンペーンが張られるようになってしまった。

 2008年は、大規模な用水路の計画が進行中で、まさに「アフガンが変わりつつある」時期だった。

 そんな渦中、ジャララバード近郊を移動していた「ペシャワール会」の伊藤和也さんは「スパイ容疑」でタリバンに拉致、殺害されてしまいました。

 それから11年、医療や土地改良をはじめ、決して「上から」「外から」ではなく「中から」「基層から」の本質的な変化があればあるほど強固な残存する反対勢力が、見えない摩擦を大きくしていた可能性も考えられます。

 あるいは、その勢力は小さくなっていったとしても、IS(イスラム国)のような新たな原理主義勢力の台頭が、そうした本質的な変化を敵視するようになっていった・・・。

 繰り返し、今回の凶行が誰の手によるものなのか、現時点では分かりません。タリバンからは早々に自分たちの犯行ではないとの声明が出されています。

 今回のような襲撃、非道な犯罪は一切容認されるものではありません。しかし「犯人を憎む」だけでは、決して問題が解決しないことも、また事実と思います。

 時間がかかると思います。しかし、本当の、本質的な解決に向け、気の遠くなるような息の長い取り組みが必要であることは、間違いないと思います。

 重ねて謹んで中村哲さんの逝去に哀悼の意を表します。

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アフガニスタンで銃撃され亡くなった中村哲医師(写真は2008年に亡くなった伊藤和也さんの棺を前に挨拶したときのもの、写真:AP/アフロ)