阪神・淡路大震災を振り返る関西ウォーカーの震災特集。25年前、神戸の旧居留地で大きく損壊した大丸神戸店は、震災から約1週間後、当時の社長の「大丸神戸店の灯は消さない」という号令を合図に再開へ動きだす。同時に、市民からの励ましへのお礼、そして再開への決意を新聞広告に託し、まちへ届けた。<※情報は関西ウォーカー(2019年26号)より>

【写真を見る】震災当日。どのフロアも商品が散乱、場所によっては床がたわみ、鉄骨がむき出しに/大丸神戸店

ほとんどのスタッフの意見が一致し、励ましてくれた市民へ感謝する、このメッセージに。

1回目から仮オープン告知まで、1か月以内に4度の広告を掲出すると同時に、まだ休業中の周辺施設へ「復興をお祈り申し上げます」というDMも送った。ここで紹介している広告は2008年当時の編集部員の母親が大切に保管している実物。

■ 市民からの励ましを受け再開への意思を届けた「新聞広告」

壊滅状態だった旧居留地。大丸神戸店が建物の3分の1で再オープンしたのは、まちが復興へと向かい始めた4月8日。その間同店へは多くの手紙や電話で励ましの声が届けられていた。「おめでとうございます、よかったですね、という声を再オープン時にたくさんいただき、本当に愛されていると実感しました。うれしさのあまり、涙が止まらなかった」と当時新聞広告を担当した松本 博さん(故人)は語る。4回にわたる広告のメッセージは、それほど迷わずに決まった(神戸ウォーカー2008年1月号より)。スタッフのまちへの思いがひとつになっていたあかしだろう。

「仮でもいいから早くするのではなく、ちゃんとしたお店にしようと誰もが考えていました」とは、装飾担当として仮オープンからグランドオープンに携わった東 裕幸さん。待望の再オープン日、建物前には約2500人が列を成した。

当時1階の売場担当だった柊 和秀さんも「面積が3分の1なので売上もその程度との予測を覆し、大盛況でした。そこまでお客様が待ち望んでおられたのかと思い、感無量でした」と言う。避難所から出勤する人、稼働している最寄り駅から自転車で通勤する人…。スタッフのほとんどがそんな状況のなかでも、売場づくり、商品集めに誰も妥協しなかった結果だ。やがて、完全復活の日程が決まる。

「再オープンの営業後にグランドオープンの準備。寝食を惜しんで、新しい暮らしの提案を誰もが模索していました」と柊さん。全関係者が“新しい大丸神戸店になる”という目標を掲げて進んでいたのだ。東さんによると、店舗の設計も「旧居留地との調和やディテールの時代考証まで、コンセプトマップを何度も練り直した」そう。こうして1997年3月2日にグランドオープンを迎えるのだが、現在にいたるその姿は柊さんいわく「こだわって創り上げた日本一の美しさだと思いますし、当時、神戸のひとつの力になれたのではないでしょうか」

再開は昔の姿に戻ることではない。これからも変わり続ける神戸。そのなかで大丸神戸店は「旧居留地を盛り上げる中心でありたい」(両氏)。それはつまり、これからも神戸の希望の灯であり続けるという、強い決意でもある。(関西ウォーカー・編集部)

「お電話やお手紙を、ありがとうございました。」1995年3月中旬に1回目の新聞広告を掲出/大丸神戸店